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自嘲しているとルークが静かな声で言った。
「……嫉妬や不安に苛まれることは誰にだってあります。もちろん、それは私もですし、言いはしないでしょうが、きっとクロエも同じだと思いますよ」
「そう……かしら。クロエは嫉妬なんて縁がないような気がするわ」
いつだって優しいクロエ。彼女が誰かに嫉妬するところなど考えもつかない。
だけどルークはいいえと首を横に振った。
「嫉妬や不安を抱かない人間はいません。その大きさは様々ですが、しないなんてことはあり得ないと思います」
「……ルークも嫉妬したりするの?」
「私ほど人を羨んでいる者はいないと思いますけど?」
「……」
さらりと返され、目を見張った。ルークは苦く笑う。
「両親を亡くし、住むところすら無くして、死ぬ一歩手前で拾われた私です。お嬢様に拾っていただいた幸運には日々感謝してはいますが、基本、世の中には妬ましいことしかありません。見せないように注意しているだけです。そしてそれは、他の人たちも同じだと思うのですよ」
「そう……ね」
ルークが言うのなら、きっとそうなのだろう。
「そういう意味では、クロエに醜いところを見せたくないと帰ってきたお嬢様の選択は悪くはないのではないでしょうか。クロエに申し訳ないと思うのでしたら、もう少し落ち着いてから、謝るなり、他でフォローするなりすれば良いと思います」
ルークの言うことは、いちいち尤もだった。私は深く頷きルークに告げた。
「その通りね。できなかったことを悔いても仕方ないし……そうするわ」
クロエには、本当に申し訳なかったと思う。だから次こそは絶対に彼女を助けよう。その時は絶対に逃げないと心に決めた。
「あとは、アラン殿下にお話になることですね」
「へ? アルに?」
アルの名前が出てきて目を丸くすると、ルークは澄ました顔で言った。
「ええ、是非、アラン殿下にもご相談下さい。でなければあとでバレた時、私がチクチク嫌味を言われるような気がしますから。『夫になる僕を差し置いて、君だけがリリの悩みを聞くとか一体どういうこと?』ほら、台詞まで想像できると思いませんか?」
「……ぷっ」
申し訳ないが笑ってしまった。
本当に、ルークが言ったようなことをそのまま言いそうな気がしたからだ。
「アラン殿下は、お嬢様のことを大切になさっていらっしゃいますからね。そのお嬢様から相談してもらえなかった、なんてことを知れば、拗ねるのは間違いないかと」
「拗ねるだなんて。でも……分かったわ。アルにはちゃんと話してみる」
本音を言えば、あまり知られたくない。好きな人に、自分の醜い部分を見られるのは辛いからだ。だけど、アルが私のことを思ってくれているのも、いざという時は相談に乗って欲しいと思ってくれていることも分かっていたし、何より、本当に拗ねそうな気がするのでルークの助言には従うことにした。
「そうなさいませ」
「ありがとう、ルーク」
真面目くさった顔で言うルークにお礼を言う。
ルークに話したおかげだろう。気づけば随分と気持ちは軽くなっていた。
少し温くなってしまったが、紅茶のカップに手を伸ばす。
「少し吹っ切れたような気がするわ。グルグル悩んでいたのが馬鹿みたい」
「ええ、悩むなどお嬢様には似合いません」
「……それ、どういう意味かしら」
「さあ?」
「絶対に褒めてないわよね」
ルークを睨むと、彼は「とんでもない」とわざとらしく目を見張った。
「単純で分かりやすくて良い、と褒めたつもりですけど」
「やっぱり褒めていないんじゃない!」
笑顔で流すルークを睨めつける。私の執事は本当に良い性格をしている。
「……もう。あ、そうだわ。気分転換にライブラリーにでも行こうかしら」
夕食までにはまだ時間がある。ここでルークと話していてもいいが、それよりは、別の場所に移動した方が気分も切り替えやすいはず。
「読みかけの本もあったし……そうね、悪くないわね」
随分前のことにはなるが、ライブラリーに読書中の本があったことを思い出し、ソファから立ち上がった。ルークがさっと後ろに控える。
「お供致します」
「ええ、お願い」
「にゃあ」
ノエルが一緒に行きたそうに私を見上げてくる。つぶらな瞳が愛らしく、残していくのが可哀想になったが、ノエルにはこの間、ライブラリーへ連れて行った時、貴重な本を破ってしまったという前科がある。しばらくは遠慮させた方が良いだろう。「良い子にしていて」と小さな頭を撫で、ルークだけを連れてライブラリーへと向かった。
「あら?」
数日ぶりに訪れたライブラリーには、父とユーゴ兄様がいた。二人は真剣な顔で何か話し込んでいるようだ。
私がいては邪魔だろうか。そう思っていると、私に気づいた父が声を掛けてきた。
「おお、リリか。もう帰ったのか?」
「はい。帰宅の挨拶もせず、申し訳ありません。その、お邪魔でしたら退出しますが……」
「いや、別に内緒話をしていたわけではないからな。お前もこちらに来ると良い」
「はい、失礼します」
手招きしてくれたので、父たちの側に行く。
しかし、ユーゴ兄様と父。一体何を話していたのだろう。
以前までの兄なら、新しい茶器でも強請っていたのかとでも思うが、最近兄は茶会も開かないし、以前よりそういうものに対する興味自体が減っている。だから本気で分からなかった。
首を傾げていると、ユーゴ兄様が「気になる?」と楽しそうな口調で聞いてきた。それに頷く。
「はい」
「そう。それなら教えてあげる。僕さ、今すぐとは言わないけど、近く、お城に上がろうと思ってるんだ」
「え? 城に、ですか?」
兄から出た言葉とは思えず、つい、聞き返してしまう。ユーゴ兄様はクスクスと笑いながら肯定した。
「うん。いつまでも屋敷に籠もりっきりというのもどうかと思うしね。それで父上に相談していたってわけ」
「……」
兄は軽い口調だったが、それがどれだけ驚くべきことか分かっていた私は、思わず父に目を向けた。父は私と目を合わせ、ゆっくりと頷く。
「本当だ。ユーゴから相談を受けてな。そのことについて話していた」
「お兄様の方からですか?」
「ああ」
それはますます驚きだ。
ヴィクター兄様とは違い、城勤めをすることに意義を見いだせなかったユーゴ兄様は、今まで何度言われても、自分の生活を変えなかった。その兄様が自分から城に上がると言い出すなんて――。
驚愕しつつも兄を見つめると、兄は少々気まずそうに言った。
「まあ、ちょっとね。僕もさ、いつまでも今のままっていうのは良くないなとは思ってたんだ。気づいてはいたけど目を逸らしていたって感じかな。でも、あのぶさ猫と出会って、思いきり価値観を変えられて。で、ちょっと自棄になってね。変わったついでに、今までできなかった、ううん、やろうとも思わなかった城勤めを試してみても良いんじゃないかって思い立ったってわけさ」
「え? 自棄になったから城勤めをしようと思ったのですか?」
ユーゴ兄様の超理論についていけない。
自棄になったから城勤め。どういう思考回路をしていたら、そんな結論になるのだろう。
だが、兄は真剣だった。
「そうだよ。だって、そうでもなければ、僕が城勤めをするなんて言い出すはずないでしょ?」
「それは確かに……そうですけど」
否定できなかった。それくらい、兄の言い出したことは信じられない、あり得ないことだったからだ。
だけど、今回の出来事は兄にとっては良い切っ掛けになったということだけは分かる。
だって私もそうだった。自分を変えるにはとにかく勇気がいるのだ。
一歩踏み出すには、何らかの切っ掛けがなければ難しい。私の場合はそれがアルだったのだが、兄様はノエルだったのだろう。
兄様が穏やかな笑みを浮かべながら言う。
「本当、自分でも信じられないよ。この僕が、城勤めをしようなんてね。城勤めなんてしたら、楽しいお茶会も絶対回数が減るって分かっているのに、それでもやろうって思うんだから」
「お茶会なんて最近は、殆ど開いてなかったじゃないですか」
「ま、そうなんだけど。それはリリも一緒でしょう?」
「……はい」
兄様の指摘に、私は素直に頷いた。
私と兄様が定期的に行っていた、自分が楽しいだけのお茶会。
今はもう、開こうとも思わない。
「兄様は……兄様もお茶会はもう開かないんですか?」
「うーん。あれはあれで楽しいんだけど、今は良いかなって感じかな」
「そうですか」
「綺麗なものを愛でるのは今も好きだし、それは変わらないんだけど、どうせなら、世界を広げてみたいなって思ったんだ」
「世界を、ですか?」
聞き返すと、兄様は真面目な顔で頷いた。
「そう。ノエルのことがあってね、世界には僕が今まで気づかなかった綺麗なものがもっともっとあるんじゃないかって思えたんだ。それをね、知りたいなって。でも、そうするには今のままでは駄目だ。屋敷の中に引き籠もっていてはいつまでたっても見ることができないんだよ。……これが、城勤めをしてみようと思った一番の理由かなあ」
「兄様……」
思っていた以上に、兄は変わっていた。
知らないうちに、兄は自分で色々と考え、前に進もうとしていたのだ。
信じられない気持ちで兄を見つめていると、話を聞いていた父が嬉しそうに笑った。
「まさか猫を飼うことで、ユーゴにこのような効果が出るとは思わなかった。リリ、よくやったな」
「いえ……私は、別に」
褒めてくれるのは嬉しいが、私は何もしていない。
ユーゴ兄様が変わったのは、兄様自身の力で、私とはなんの関係もないのだ。
兄様は自分で変わった。アルがいないと動くことさえできなかった私とは違い、兄様は自分で気づくことができたのだ。




