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◇◇◇
クロエの精霊契約は、呆気ないくらい簡単に終わった。
私の時と違い、呼び出された精霊は大喜びでクロエとの契約に応じ、その名を告げた。
クロエが呼び出したのは光の精霊。しかもめったに契約することができない、上級精霊だった。
無事、契約を終えたクロエが振り向き、壁際に立っていた私と目を合わせる。
「リリ、契約できたわ!」
「ええ、見ていたわ。おめでとう、クロエ」
「ありがとう!」
嬉しそうに微笑むクロエに、祝福の言葉をもう一度告げる。その心に嘘はなかったが、ようやく落ち着いていた心がまたざわつき始めたのを感じていた。
――クロエ、精霊契約できたのね。……羨ましいわ。
人を羨んでも仕方ないのだが、一度失敗した身には、どうしても羨ましく思えてしまう。
私も次こそはと思っているが、確約があるわけではない。当たり前だが、また失敗したらどうしようという気持ちがないわけではないのだ。
焦りのようなものが、じわりと身のうちを焦がしていた。
無邪気に喜ぶクロエを見つめる。
無事、精霊契約を終えたクロエと、まだ、契約できていない私。
王族と結婚できる資格を得たクロエと、ないままの私。
あり得ないと吹っ切ったはずの不安が、再び首をもたげてくる。
クロエにアルを取られるかも、なんて普通なら考えるはずのない話が、私の中で勝手に現実味を帯びてくる。
――どうして、こんなに不安にならないといけないのかしら。
分かっている。クロエは何も悪くない。悪いのは、契約できなかった私だ。
それにクロエはヴィクター兄様が好きで、アルのことは何とも思っていない。アルも私を愛してくれている。だから、彼を取られることなんてあるはずがないのに。
それなのに不安になるのは、やはりクロエが『ヒロイン』だと知ったからだろうか。
関係ないと思っていても、心のどこかで気にしてしまっているからなのだろうか。
――いっそ、クロエと兄様がくっついてくれれば、アルを取られるなんて心配をしなくて済むのかしら。
……それは、とても良い考えかもしれない。
クロエが兄様と恋人同士になり、そして結婚してくれれば、私も些細なことで不安にならなくて済む。
ウィルフレッド王子は問題外だ。だってクロエはウィルフレッド王子に好意を抱いていない。やはり一番安心なのは、クロエが惚れている人物。つまりは兄。
兄ともっと接触する機会を作って、二人の仲を進展させる。そうすれば、クロエもアルと関わる機会は更になくなるし、彼女も好きな人と一緒に居られるのだから良いこと尽くしではないだろうか――。
「っ! 何を考えているの……」
兄とクロエをどうやって二人きりにしようか、具体的に考え始めたところで我に返った。
今、自分が何をしようとしていたかを理解し、青ざめる。
私は今、自分のために、親友の恋心を利用しようとしたのだ。
――信じられない。
それはなんて卑劣な、最低な行為なのだろう。
クロエと兄が恋人同士になるのならそれはとてもめでたいことだと思う。だけど、それを自分のために利用してはいけないのだ。
それなのに私は、自分が安堵したいばかりに、クロエと兄の仲を勝手に進展させようと考えた。
善意なんかではない。百パーセント自分のためだ。
――最低。
なんて、なんて醜い。
一時のこととはいえ、最低な考えを実行しようとしていた自分が許せなかった。
クロエは大切な友人なのに、これからも友人として付き合っていきたいと思っているのに、その彼女を利用しようとするなんてあり得ない。
結局、私は自分のことしか考えられない女なのだろうか。
所詮は『悪役令嬢』と称されるような女でしかないのだろうか。
自分が情けなさすぎて涙が出そうになる。
呆然としつつ、クロエを見る。彼女は困ったような顔でウィルフレッド王子と話していた。そんな彼女を助けてあげられるのならば助けたい。
だけど、今は、今だけは本当に申し訳ないけれど、できそうになかった。
「……クロエ」
「リリ?」
クロエとウィルフレッド王子の話が途切れたタイミングを見計らって声を掛ける。
「おめでとう。無事、契約できて良かったわね。その……申し訳ないのだけれど、体調が思わしくなくて……これで失礼させてもらえるかしら」
「え? 体調が良くないの? 大丈夫?」
心配そうに私を見てくるクロエに、罪悪感が募っていく。
ただ、あなたを見ているのが辛いのだと、それだけは言いたくなかった。
「……ごめんなさい。本当に。私ももう少しゆっくりしたかったのだけど」
「そんなの気にしないで。体調が良くないのに来てくれてありがとう」
「良いのよ。……ウィルフレッド殿下。御前、失礼致します」
この場で身分が一番上なのがウィルフレッド王子だ。退出許可を求めると、彼もまた、心配そうな顔をしてきた。
「……構いませんが、本当に顔色が悪そうですね。兄上に連絡をしておきましょうか? 兄上はあなたのことを大切にしていますから」
その声音が、本当に私を思い遣ってくれるもので、アルが彼のことを「悪い奴ではない」と言っていたのを妙に思い出してしまった。
「……ありがとうございます。ですが大丈夫です。屋敷で休めば良くなるかと」
当主である伯爵にも失礼にならない程度に挨拶を済ませ、公爵家所有の馬車に乗り込む。
疲れた気持ちを引き摺りながら屋敷に戻ると、ルークが迎えに出てきた。
私が馬車から降りたのを確認し、頭を下げる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。ずいぶん早いお戻りですね」
「……ちょっとね」
今、ここで話したくない。そんな気持ちで口を噤むと、察してくれたのかルークもそれ以上は聞かないでくれた。
自分の部屋に戻り、着替えを済ませてからルークの淹れてくれたお茶を飲む。
ノエルがソファの上に乗ってきたので、その背中を撫でた。
「にゃー……」
もっと、という風に、ノエルがぼてんと転がる。そのリクエストに応えるように私はノエルの脇腹を撫で、顎の下をくすぐった。
「お嬢様……」
「今日の私は最低だったわ」
ノエルを撫でながら、ポソリと言う。今、抱えている気持ちをルークに聞いてもらいたかった。
「クロエはね、今日、すごく頑張ったの。精霊契約も済ませたし、ウィルフレッド殿下とだって、上手く話していた。駄目だったのは私」
「何かあったのですか?」
気遣うような声に、「ああ、心配させてしまった」と思いながら口を開いた。
「あったといえば、あったのかしら。そのね、クロエが精霊契約できたのを見て、私はね、恐怖したの。もしかして、このままアルをクロエに取られてしまうのではないかって」
「……」
ルークがお茶のおかわりを淹れてくれる。湯気が立ち上るのをぼんやりと眺めていると、彼が言った。
「……殿下は、お嬢様のことがお好きですよ。ついこの間、両想いになられたばかりではありませんか」
その言葉を聞き、口元を少し緩める。
「もちろん、私もアルのことを信じているわ。でも、こういうのって理屈ではないの。表現できないような不安が身体の底からわき上がってきて、自分で制御できない。クロエのことは大好きなのに、アルを信じているのに、『もし』が頭から消えてくれないの。私が、精霊契約をできていないからそう思ってしまうって分かっているんだけどね」
「それは――」
私は自らの手を膝に置き、ギュッとスカートを握った。
「自分が情けないわ。私、クロエを最後まで応援できなかった。助けて欲しいって顔で彼女が私を見ていたのは分かっていたのに、調子が悪いと嘘を吐いて、彼女の屋敷から逃げ出してしまったのよ。だって、これ以上あそこにいたら、言ってはいけないことを言ってしまいそうだったから」
自分を保っていられない。そう思ったから、逃げ出した。
クロエの友達で居続けたいと思ったからあの場から逃げ出したのだ。
だけど、助けを求めていたのを知っていて、無視してしまったことを深く後悔している。




