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柔らかい声音が耳を擽る。このまま溶けてしまいそうになるのを必死で堪え、私は言った。
「そ、そういうのはずるいと思います」
「ずるい? どうして?」
心底分からないと首を傾げるアルを私は涙目で睨み付けた。
どうして分からないのだろう。そんなことできるわけがないではないか。
「私は、アルのことが好きなのです。そのアルがせっかく私を抱き締めて下さっているのに、払いのけることなんてできません。で、ですから……その……アルの方から離して下さらないと――」
「いつまで経っても、離れられないって? 良いね、それ」
「ひゃっ……!?」
より一層強く抱き締められ、上ずった声が出た。
「アル!?」
「良いことを聞いたからね。僕のこと、払いのけられないんでしょう? だったらもっとくっつこうかと思って」
「そ、そんな――」
アルの声が酷く楽しそうだ。
「君が帰るまで、ずっとこうしていようか? 僕は全然構わないよ。君の良い匂いがして幸せだしね」
「ひっ……あ、あの……匂わないで下さい……」
すんと首の辺りで匂いを嗅がれ、恥ずかしさのあまり泣きたくなった。
一体私は何をされているのだろう。頭の中がいっぱいで、何も考えられない。
「匂っちゃ駄目? でも、薔薇の花のような香りですごく心地良いんだけど」
「そ、それは……あ、ありがとう……ございます……ひゃんっ」
アルが言っている匂いというのは、昨夜の入浴剤の効果だろう。
アルに会うのだからと張り切って使った入浴剤の効果が出ているのは嬉しいが、すんすんと何度も匂いを嗅ぐのは止めて欲しい。情けない悲鳴を上げた私に、アルが目を瞬かせながら言う。
「えっ……何、今の可愛い声。リリ、どこから声を出してるの……」
「だ……だって……吃驚して……」
「吃驚したら出るの? へえ、それは楽しそうだな」
「た、楽しくなんて……っ!?」
頬に、彼の唇が触れた。
突然の感触に目を見張る。アルがじっとこちらを見ていた。
「リリが可愛いから、つい、ね」
「……え、えと」
「駄目、だった?」
「い、いえ……」
駄目なはずがない。ただ、いきなりで驚いただけだ。
ようやく身体が解放される。力が抜けてその場に頽れそうになったが、必死に堪える。反射的に両手で自らの胸を押さえた。心臓は、ドキドキどころかバクバクいっている。破裂しないのが不思議なくらいだ。
無理やり深呼吸を繰り返し、落ち着きを取り戻そうとしていると、そんな私を見ていたアルがふと、真面目な声音で私を呼んだ。
「ね、リリ、こっち向いて」
「? はい……えっ」
顔を上げるとアルの顔が近づいてきた。あっと思う間もなく、唇に熱が触れる。
アルがにこりと笑いながら言った。
「不意打ち。今度は唇にしてみたよ。どうかな?」
カッと顔が熱くなる。
こんなにあっさりキスされるとは思わなかった。アルの態度は、当然といったもので、私とアルが正しく恋人同士であることを強く意識させられた。
口づけをしあうのが、当たり前の関係。いきなりのキスも、恋人同士の甘いひとときとみなされる関係。
そんな関係に私とアルがいるというのが不思議で、だけどそれ以上に嬉しくて堪らなかった。
なんだか妙に照れてしまう。そんな私を見たアルがきょとんとした顔になった。
「あれ? リリ、なんだか最初の時より恥ずかしがってない?」
「だ、だって……その、心の準備が……」
唐突に理解した自分たちの関係に、心の方が追いつかない。
あまりにも恥ずかしくて俯くと、アルが再び私を抱き寄せ、背中をポンポンと宥めるように叩いてくれた。
「心の準備ね。分かった。気をつけるよ。でも、嫌ってわけではなかったんだよね?」
「も、もちろんです」
慌てて答えた。
拒絶しているように見えたのなら心外だ。
それは絶対に違うという意味を込めてアルを見つめる。アルはホッとしたような顔をし、「それならいいんだ」と言った。
「君に、嫌われるのは耐えられないからね」
「私があなたを嫌うことなんて万に一つもありえないと思いますけど……」
だって、こんなに好きで好きでたまらないのに。
今も恥ずかしいだけで、嫌だなんて全く思わなかった。
そんな気持ちでアルを見ると、彼は嬉しそうに微笑んでくれた。
「そう? それなら嬉しいな。さて、リリ。そろそろ部屋の扉を開けようか。きっとうちの侍従か女官辺りが扉の前で気を揉みながら待機しているだろうからね」
「あっ……」
そういえば、扉を閉めたままだった。
すっかり忘れていたと思いつつ、妙に気恥ずかしくなってしまった私はアルから離れ、特に乱れてもいない衣服を整え始めた。
そうして背筋を伸ばし、まるで何事もなかったかのように、すっかり冷えてしまった紅茶のカップを手に取る。
「だ、大丈夫です。んんっ……どうぞ」
上手く取り繕えたと思ったのだが、私を見て何故かアルはぷっと吹き出す。
「……何してるの、リリ。それ、何もなかったのに、逆に何かあったみたいに見えるよ?」
「ええっ!?」
「リリ、動揺しすぎ」
楽しそうに言いながらアルが扉の方へとゆっくり向かう。
そうして「そうだ」と言いながら振り返り、私に言った。
「リリ」
「はい」
「ごめん。さっきの言葉は訂正するよ。何もなかったってことはなかったよね。だって君の唇に触れたから」
パチリと片目を瞑り、己の唇を人差し指で押さえる。その仕草が何とも言えず様になっていた。
一瞬、見惚れそうになったが、言われた言葉を理解し、またじわじわと顔が熱くなっていく。
「えっ、あ、あの……そ、それ……は……」
分かりやすく挙動不審になった私を見て、アルはクスクスと笑った。
「だから動揺しすぎだって。可愛いけど。ね、リリ。今度はちゃんと君の了承を取ってからにするから、またキスしようね」
「~~!」
「だって、心の準備がいるんでしょう?」
からかうように言われ、私は何と答えていいのか分からず俯いた。そんな私にアルが「うーん」と困ったような声を出す。
「ごめんね。虐めすぎたかな。冗談だよ」
「じょ、冗談?」
思わず顔を上げると、アルが妙に真面目くさった顔で言った。
「うん、さすがに口付けに了承を取ったりはしないよ。だってねえ? あまりにも情緒がないと思わない?」
「な……な……な……」
思っていたのと全く違う言葉に、言葉が出てこない。私が言葉に詰まっていると、アルがさらりと言った。
「そういうことだから。あ、扉、開けるね」
「ま、待って下さい……!」
「駄目。もう、痺れを切らしている頃だろうから」
言いながら、アルがドアノブに手を掛ける。扉を開けると、すぐに女官と侍従が姿を見せた。扉の前で待機していたのが明白だ。
「殿下、用事はお済みで?」
「うん、待たせたね。もう中に入ってくれて大丈夫だよ。ついでにお茶のおかわりをもらえるかな。冷えちゃったんだ」
「かしこまりました。すぐにお持ち致します」
「頼んだよ」
――どうしよう。
本当に困った。全然顔の熱が引かない。
私がこんなに動揺しているというのに、アルはいつも通りの態度。それが妙に悔しく思えてしまう。
――ああもう、こんな顔、見せられないわ。
恥ずかしくて堪らなかった私は、両手で頬を押さえながら必死に俯くしかなかった。




