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お茶菓子は、王都で人気店のラスクを準備させた。食べた時の感触が固めなのと、味のバランスが好みで、ここ最近は、同じものばかり購入していた。クロエも気に入ってくれると良いなと思う。
準備が整ったところで声を掛けた。
「クロエ。お茶が入ったわよ」
「あっ、ごめんなさい。ノエルが可愛くて、つい」
私の呼びかけに、猫に夢中になっていたクロエが返事をし、名残惜しそうにノエルを放した。ノエルはようやく解放されたとばかりにぐぐっと伸びをする。足で耳をガリガリと掻いているポーズが可愛らしい。
クロエが私の正面の席に座る。落ち着いたのを確認してからルークが紅茶をサーブした。
ふわりと甘い香りが室内に漂う。
「ルーク。今日のお茶は?」
「本日は、フルーツティーを用意させていただきました。林檎やオレンジ、ベリーなどが入っています」
「うわあ! 良い匂い!」
「フルーツの自然本来の甘みをお楽しみ下さい」
ルークの言葉に、クロエは「ありがとう」と笑顔で言った。そうして彼を見上げ、しみじみと告げる。
「こうして見ると、ルークが公爵家の執事だってよく分かる。いつも孤児院で会う時と全然雰囲気が違うんだもの。やっぱりお屋敷ではきちんとしているのね。さすがだわ」
「ありがとうございます。ごゆっくりおくつろぎ下さい」
にこりと笑い、ルークは私たちから少し離れた場所へと移動した。その動きには余裕と品がある。
今日のクロエは私の客だ。だからか、普段とは違い、ルークは彼女を主人の客としてきちんと線引きしていた。私にはいつも通りでも、彼女に対しては、一人の客として扱っている。
私はルークのこういうところが、とても気に入っていた。
二人でお茶を楽しみ、ラスクに舌鼓を打つ。どうでも良い会話を挟みつつ、私は本題を切り出すべく、ルークを少し遠ざけ、彼女に尋ねた。
「ね、クロエ。あれからどうなの? ウィルフレッド殿下から何か連絡はあった?」
「……」
あの日の夜会のことがどうしても気になっていた。
まだ一週間しか経っていないことを考えれば、何かあったと聞くのは早計かもしれない。だけど、あの時のウィルフレッド王子の態度が気に掛かる。尋ねてみると、クロエはみるみるうちに顔を曇らせた。そうして縋るような目を向けてくる。
「あ、あのね、リリ。今日はそのことについて相談したいと思ってきたの。……良いかな」
「もちろん、構わないわ。でも、相談ってことは、何かあったのね?」
ルークに視線を送り、もう少し下がるように命じる。聞かれたくない話をするのだと察したルークは、私たちの声が聞こえないところまで移動した。それを確認し、クロエに頷いてみせると、彼女はポツポツと話し始めた。
「あのね、夜会の次の日、ウィルフレッド殿下からお父様に連絡があったらしいの。その……私を自分の婚約者に考えているって。前向きに検討して欲しいって言われたってお父様からは聞いたわ」
「……婚約? 殿下から? 陛下からではなく?」
婚約の申し込みなど、普通は親を通して行われるものではないだろうか。イレギュラーな話に眉を顰めると、クロエは「ち、違うの」と慌てて言った。
「そんな、大層なものではなくて。その……もし私が頷いたら、その時は、陛下から正式に話が行くっていうか……」
「ああ……そういうこと」
納得した。
私とアルのように、先に親同士の合意があってから顔合わせということの方が多いが、逆のパターンも少なくはない。もちろん、家格が釣り合っていることが前提条件ではあるが、当人同士が合意してから、親同士が話し合うというのもよく聞く話なのだ。
「つまり、婚約を前提にしたお付き合いがしたいとウィルフレッド殿下からお話があったということで間違いはないのね?」
確認すると、クロエは俯きながら頷いた。
「う、うん。お父様も、さすがに即答はしなかったんだけど……その、やっぱり相手が第二王子ということもあって、嫌な気分ではないみたい……というか、わりと前向きに考えているようで……お前次第だって……」
それはそうだろう。
第二王子と結婚。普通に諸手を挙げて喜ぶ話だ。
「それで? あなたはどう思ったの? 受けても良いって思ってる?」
「まさか!」
それにはクロエは即座に否定を返した。
「だって私、ウィルフレッド王子のこと何も知らない。それに、最初の時にかなり強引に迫られて、それが怖くて……。だから、望まれていることが有り難いことだってわかっていても簡単には頷けないし頷きたくない。……ごめんね、リリ。ウィルフレッド殿下は、あなたの婚約者の弟でもあるのに、こんな言い方をして……」
「関係ないわ」
きっぱりと言った。クロエは私に申し訳ないと思っているようだが、私に悪いとか、そんな理由で大事なことを決めて欲しくなかった。
「私のことは気にしないで。これはあなたの問題なのだから」
そう告げると、クロエは曖昧にではあるが頷いた。
とはいえ、クロエが断ったからといって、その意志が反映されるかは微妙だ。
基本的には、親の意見が絶対だというのが貴族社会の常識。もし、クロエの父親が、王子と結婚させたいと思い、手続きを進めてしまえば、クロエに逃れる術はないのだ。
「どうしよう……このままだと私……」
いくら第二王子とはいえ、好きではない相手と結婚というのは女性にとって嬉しいものではない。特に、クロエには好きな人がいるからなおさら。
困ったように眉を下げるクロエに私は言った。
「嫌かもしれないけど、話が進んでしまう前に一度、ウィルフレッド殿下と直接話をした方が良いわ。聞いて下さるかは分からないけど、それでも何も言わないよりはマシだから」
「う、うん……でも……」
「どうしたの?」
キリの悪い返事をするクロエに問いかけると、彼女はボソボソと言った。
「じ、実はね、私、精霊に適正があって、二週間後に精霊契約をすることが決まっているの。それで、それを知ったウィルフレッド殿下が参加したいっておっしゃって……その、父もそれくらいならって快諾してしまって……どうしよう! リリ。さっそく家に来るっておっしゃってるんだけど! そんな急に話し合いなんてできない!」
泣きそうになるクロエだったが、私も一瞬何と答えればいいのか分からなかった。
だって、精霊契約。今の私にはピンポイントで落ち込みたくなってしまう嫌な話題だ。
だが、今はそんなことを気にしている場合ではない。
――クロエを助けなければ。
暗くなってしまいそうになる気持ちを無理やり引き上げる。
早速外堀を埋めに掛かろうとしているウィルフレッド王子には呆れるしかないが、手段としては悪くない。きちんと父親を通して了承をもらっているし、自分が本気だと示す機会にもなるからだ。
それでは、どうすれば、彼女を助けられるのか。
じっと考え込んでいると、クロエが縋るような目を向けてきた。
「リリ、お願い。精霊契約に、あなたも一緒に参加してくれない?」
「え?」
まさかのお誘いに目を見開いた。クロエはうるうると瞳を潤ませている。
「我が儘だって分かってる。迷惑を掛けているのもよく分かっているの。でも私、あなたしか頼れる人がいなくて……お願い、精霊契約、あなたも一緒に来て欲しい。お父様とウィルフレッド殿下と三人でなんて、私……」
「クロエ……」
クロエの言いたいことはよく分かった。
頼れる人が私しかいないというのも理解できる。第二王子が来ると分かっている場所に、あまり爵位の低い令嬢を呼ぶことはできないし、伯爵だって良い顔をしないからだ。
その点、私ならウィルフレッド王子の兄であるアルの婚約者という肩書きがある。しかも公爵令嬢だ。その私を友人だからと参加させるのは……多少無理はあるが、まあ、ギリギリ許容範囲内だろう。
クロエは泣きそうな声で言った。
「お願い……! ウィルフレッド殿下はいい方なのかもしれない。だけど今はまだそんな風に思えないの。また、強引に距離を詰められたら? お父様と結託されてしまったら? 自意識過剰かもしれないけれど、その場で婚約に同意させられてしまったら? 考え出すときりがなくて……」
「……分かったわ」
気は進まなかったが頷いた。
仕方ない。父親と、好感を抱けない婚約者候補との三人で精霊契約に挑まなければならないなんて、クロエが可哀想すぎる。私が行くことで、クロエが少しでも気持ちが安定するというのなら、友達のために動かないわけにはいかなかった。
「詳しい日程を教えて。行くから」
「本当に!? ありがとう!」
クロエは立ち上がり、私の側へと駆け寄ってきた。そして膝をつき、私の両手を握る。
「ありがとう、リリ。本当にあなたがいてくれて良かった。私が力になれることがあればなんでも言って! 私もあなたのためなら何でもするから!」
「……ありがとう。でも、大丈夫よ」
にこりと笑って断る。
一瞬、精霊契約に失敗してしまった件について話してしまおうかとも考えた。そして、それについて、すごく悩んでいるということも。
だけど私はすぐにその気持ちを打ち消した。
だって、ウィルフレッド王子のことで悩んでいるクロエに、私のことでまで気を回させたくない。心配を掛けたくないのだ。
――ううん、違うわ。
本音は違う。
クロエに心配を掛けたくないのも事実。だけどそれ以上に、彼女に、友達であるはずのクロエに弱みを見せたくないという醜い気持ちがあったのだ。
ヒロインだと称されるクロエに。
私が、精霊契約を失敗したのだと知られたくない。
ほんの一瞬だけだが、そう思ってしまい、それがきっかけとなり、言えなくなってしまったのだ。
――なんて、醜い。
クロエは、こんなに素直に私に助けを求めてくれたのに。
それを嬉しいと思ったのに。
私には彼女と同じことができない。
こんなことだから、悪役令嬢なんて言われたのだ。
クロエとのあまりの違いにクラクラする。彼女の存在が、太陽のように眩しく感じられる。
眩しくて眩しくて、目を開けていられない。もっと暗い場所に逃げなければ辛くて生きていけないと思ってしまう。
素直で真っ直ぐなクロエ。そんな彼女が大好きだと思う心は本当なのに。
彼女の力になりたい。彼女の友人として誇れる自分でありたいと思う心に嘘はないのに。
何故だろう。時折、妙に、全部を壊したくなる瞬間がある。
――駄目。せっかく、もう、『悪役令嬢』ではないって言ってもらったのに。
自分からそちらに戻ってどうする。
アルに協力してもらって、自分でも必死に努力して辿り着いた場所を、自分から放棄してどうするのだ。そんなことでは、私を愛してくれるアルに顔向けができない。
私はどんどんマイナスになる思考を振り払うように首を振った。
クロエは大事な友達なのだ。その彼女に『ヒロイン』という真偽のほども定かではないレッテルを貼るなどしていいことではない。
そうだ。悪役令嬢なんて知らない。そんなものとは違う。私はずっとそう言い続けてきたではないか。
アルだって、攻略対象と言われても困る。僕は僕だと言っていた。私もその通りだと思った。
そしてそれは、クロエにも言えるのだ。
悪役令嬢のレッテルを貼られて憤った私が、クロエにヒロインのレッテルを貼ってはいけない。
悪役令嬢に振り回された、今もまだ振り回されている私だけは、クロエをありのままの姿で見なければならないのだ。
――気をつけなければ。
でなければ、私はきっとどこまでも堕ちてしまう。
「リリ、どうしたの?」
キョトンとした顔でクロエが私に聞いてくる。その表情には当たり前だがなんの含みもなかった。
咄嗟に笑顔を作る。
「何でもないの」
「え、でも……」
「本当に、何でもないから。……精霊契約、ちゃんと行くから安心してちょうだい」
友達が助けてくれと言うのなら、助けよう。
大好きな、クロエのためになるのなら。
いつもの自分を取り戻す。そしてできるだけ自然に見える笑みを作り直し、私がいるから大丈夫よと彼女に言った。




