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「ア、アル……?」
思わず、隣にいる人に目を向ける。彼もまた、酷く驚いた様子でウィルフレッド王子とクロエを見つめていた。その態度から、アルも知らなかったのだということに気づく。
会場中の目が彼らに集まっていた。そんな中、ウィルフレッド王子は実に恭しくクロエをエスコートしていた。
私が以前見た、柄の悪い態度はすっかり鳴りを潜めている。これぞ正しく王子という態度で、まるで別人のようだ。
アルとはタイプが違うが、洗練された動きは見事の一言だった。
「……あれ……ウィルフレッド殿下、ですよね」
ついつい確認するなどという失礼なことをしてしまったが、アルは咎めなかった。少しばかり引き攣った顔で頷く。
「……うん、間違いなくウィルだよ。あいつは普段は適当だけど、それでも第二王子として厳しく育てられてはいるからね。公式の場で、相応しい態度を取るなんて簡単なことなんだけど……それよりリリ、ウィルのエスコートしている女性が、君の友人で間違いない?」
「はい……。友人のクロエ、です。クロエ・カーライル。カーライル伯爵の一人娘です」
答えながらも私はひどく驚いていた。
やはり腐っても王子は王子なのか。別人のような振る舞いに、それこそ影武者でも使っているのかと一瞬疑ったが、アル曰くは、どうやら本人で間違いないようだ。
「でも、どうして?」
ウィルフレッド王子がクロエをエスコートするのだろうか。
クロエはこれが初の社交界だ。ウィルフレッド王子と会ったことだってなかったはず。
実際、ウィルフレッド王子にエスコートされたクロエはひどく戸惑った顔をしていて、今の状況が、彼女が望んだものでないことは明らかだった。
皆がざわざわとしながらも、道を空ける。ホールの真ん中まで来ると、ウィルフレッド王子はクロエにダンスを申し込んだ。
「オレと踊って下さいますか? 姫」
スマートな仕草は確かにアルにも劣らないし、素直に格好良いと思えた。アルとお揃いの盛装がとても似合っていたが、私は、クロエの表情の方が気になった。
――クロエ、大丈夫かしら。
なんとか微笑みを作ってはいるが、形だけだ。彼女の顔にはありありとどうしてこうなったのか分からないと描かれてあった。
とはいえ、このような衆人環視の中、王子からの申し込みを断れるはずもない。結局クロエは戸惑いつつもウィルフレッド王子の手の上に自らの手を重ねた。
二人は流れ始めた音楽に合わせて、ゆっくりと踊り始める。
クロエの動きに問題がないことを確認してから、小さく息を吐いた。
知らない間に随分と緊張していたようだ。
「……クロエ」
すごく心配だが、今、私にできることは何もない。
ファーストダンスが終わって、ウィルフレッド王子が離れたら、真っ先に話しかけに行こう。そう決意していると、ウィルフレッド王子とクロエを見ていたアルが、「そうか、彼女が」と呟いた。
「アル?」
クロエが、何だと言うのだろう。
名前を呼ぶと、アルは彼らから視線を外し、私を見た。そうして周りに聞こえないような小声で言う。
「リリ、多分、彼女が『ヒロイン』だ……」
「え?」
一瞬、アルが何を言ったのか本気で理解できなかった。
だけどその言葉はじわじわと私の中に広がって行く。
――クロエが? ヒロイン?
「ひ、ヒロインって、あの……ウィルフレッド殿下が言っていた?」
私も随分振り回されたウィルフレッド王子の『ゲーム』。このことは忘れようとしたって忘れられない。
彼は言っていた。
この世界はゲームで、『ヒロイン』が複数いる『ヒーロー』を攻略するものなのだと。
そして私はその中でも『悪役令嬢』という立ち位置で、皆に嫌われる、そういう役どころだとウィルフレッド王子はずっと主張し続けていたのだ。
それを偶然聞いてしまった私は、彼に反発し、逆に完璧な令嬢になってやろうと決意し、ここまできたのだが――。
「嘘……」
この前のデビュタントの夜会で、もう私は『悪役令嬢』ではなくなったとウィルフレッド王子に言われた。
それでようやく形の見えない『悪役令嬢』の呪縛から解き放たれたと思ったのだ。
でも、よくよく考えてみれば『ヒロイン』や『ヒーロー』がいなくなったわけでも、彼が言う『ゲーム』がなくなったわけでもないのだ。
もちろん、ウィルフレッド王子の言うことを全部信じているわけではないが、私がかなり彼の言う『悪役令嬢』とやらに寄った性格だったことは否定できない。
だから、全部を妄言と流すこともできなかったし、どうしても気にしてしまう。
だけど、まさかよりによってクロエが、ウィルフレッド王子のいう『ヒロイン』だなんて……。
「アル、本当なんですか? クロエがヒロインだなんてそんな……」
信じたくない気持ちでアルに尋ねる。アルは難しい顔をしながら口を開いた。
「多分、間違いないと思うよ。だってウィルは言っていたんだ。『今度はオレがヒロインを攻略する』ってね。そして、『半年後にデビュタントがあるから夜会で相手を務められるようにしなければ』とも言っていた。その日から今日まで、ウィルが夜会に出たのは今回の一度きりだし、ウィルが誰かをエスコートするのもこれが初めて。どう考えても、クロエ――クロエ・カーライル嬢がウィルの言う『ヒロイン』だと思うんだよ」
「そんな……」
クロエが『ヒロイン』だと聞き、ショックのあまり頽れそうになる。咄嗟にアルが抱き締めてくれたから助かったが、そうでなければ無駄に皆の注目を集めてしまうところだった。
「クロエ……」
何とも言い難い顔で、ウィルフレッド王子と踊り続けるクロエを見つめる。
――クロエが、ヒロインだったなんて。
ものすごくショックではあったが、クロエが『ヒロイン』だということ自体は、私はそう驚いていなかった。だって、初めてクロエに会った時、私は思ったのだ。
ヒロインがいるとしたら、クロエみたいな女性こそそうなのではないだろうか、と。
それが本当だっただけのこと。
むしろ、やっぱりとしか思えない。
優しくて可愛くて、皆に愛される笑顔が絶えないクロエ。ウィルフレッド王子が言っていたことが本当なら、そんな彼女に『攻略キャラ』たちは惚れていくのか。
クロエはその中から一人を選び、幸せになるのか。
そして彼女が選ぶのはもしかしたら――アルなのかもしれない。
そこまで考え、ゾッとした。
――嫌だ。アルを取らないで!
咄嗟にそう、思ってしまった。
クロエはアルが私の婚約者であることを知っているし、なんなら応援だってしてくれている。だから、普通ならアルを取られるなんて考えない。だけど、アルは攻略キャラの一人なのだ。
万が一、ウィルフレッド王子のいうゲームが実在したら?
クロエがアルを選べば、アルは私を捨て、クロエと共に行ってしまう。
友人も恋人も、私は同時に失ってしまう。
初めての友人、最初で最後と決めた恋人。二人が、私から離れてしまう。
ああ、それはなんと恐ろしい話で、どうしたって受け入れられない。
「嫌……嫌……そんなのは嫌……」
「リリ?」
ブルブルと震えながら首を横に振り続ける私を見て、おかしいと思ったのだろう。アルは私の肩を抱くと、会場の隅の方へと連れて行った。壁際に並べられている椅子の一つに私を座らせ、近くにいた侍従から飲み物の入ったグラスを受け取り、私に渡す。
「リリ、飲んで。少し、気持ちを落ち着かせよう?」
「アル……私……」
「良いから、ほら」
アルにすすめられるままに、グラスに口を付ける。中身は冷たい水だった。茹で上がり、何も考えられない頭に染み渡る。冷静な思考が少しだけ戻ってきた気がした。
空になったグラスをアルが近くに控えていた侍従に渡す。周りに誰もいなくなったことを確認し、アルは私に言った。
「リリ、どうしたの? いきなり顔色が真っ青になったから驚いたよ……」
「す、すみません。何でもないんです」
咄嗟に言いつくろった。
まさかアルを取られるかもと想像してパニックになったなんて言えるわけがない。だが、アルは誤魔化されてはくれなかった。
彼はその場にしゃがみ込み、私と視線を合わせながら言った。
「良いから。言って。何があったの? 君の表情の変わり方、ただ事じゃなかった。何もないなんてそんな嘘が通じると思わないでよ」
「ほ、本当に何もないんです」
「嘘だ」
キッパリと断言し、アルは私を見据えた。そうして今度は宥めるような口調で言う。
「リリ。僕は君が心配なんだよ。だって君は僕の可愛い恋人であり、婚約者だからね。ねえ、恋人の僕にも言えない話? 僕は君のことなら何でも素直に話して欲しいって思うけどな」
「アル……」
真摯な瞳で見据えられ、耐えきれなくなった私は口を開いた。
「……ごめんなさい。私、その……クロエが、ヒロインなら……もしかしてアルが取られてしまうんじゃないかって……それで」
つっかえながらもなんとか説明すると、アルが驚いたように目を見張った。
「僕が? クロエ・カーライル嬢に? まさか」
「私もそう思います。で、でも……アルに現れる運命の女性って、クロエのことなんでしょう? だったら……!」
可能性はゼロではない。
アルは悪役令嬢を捨て、ヒロインと幸せになるのだとウィルフレッド王子は言っていた。もう私は悪役令嬢ではないのかもしれないが、ヒロインと幸せになるというのは残っているかもしれないではないか。
そういうことをたどたどしく説明すると、アルは大袈裟なほど大きな溜息を吐いた。
「えっ……アル……?」
「勘弁してよ……」
がっくりと肩を落としたアルは、もう一度溜息を吐くと、顔を上げ、私を見た。
そうして「あのね」と口を開く。
「ウィルの言うゲームの話なんて、僕は信じていないって前にも言ったよね? 僕は自分で好きな人を選びたいとも。僕はクロエ・カーライル嬢に興味なんて全くないよ。大体、大事な恋人がいて、他の女性に目移りするような男に僕が見えるとでも言うの? もしそうならあまりにも酷いって思うんだけど」
「あ、あの……」
「僕、君を不安がらせるような愛し方、してないと思うんだけどな。……まだ足りない? それならもっと頑張るけど」
「い、いいえっ」
咄嗟に否定した。足りないなんてそんなことあるわけがない。
アルはいつだって私に対して誠実でいてくれた。真っ直ぐに向き合ってくれた。その彼を疑うなんてできるわけがない。
「ち、違いますっ! その、決して疑っているわけではなくて……」
この言いようのない不安はどうにも説明しづらい。だけど、アルの気持ちを疑っているとは思われたくなかった。
「だから……えと……」
狼狽えながらもなんとか説明しようと、頑張る。そんな私を見たアルが、くすりと笑いながら言った。
「大丈夫。分かってるから。厳しい言い方をしてごめんね。リリはただ、不安になっちゃっただけだよね。君は僕のことが好きだから。ね、リリ。僕が取られてしまうのはそんなに嫌?」
どこか楽しそうに言うアルに、それでも私は素直に頷いた。
「嫌です。アルは……その……もう、私のだから」
恋人になったのだ。結婚しようと約束だって交わした。
そんな大切な人を、どうして簡単に誰かに渡したいと思うだろう。
精一杯の気持ちを込めて告げる。アルは目をぱちくりさせ、次の瞬間、思いきり私を抱き締めてきた。
「ああもう、可愛いなあ」
「きゃっ」
クロエとウィルフレッド王子のダンスに集まっていた注目があっという間に私たちに映る。恥ずかしさのあまり、アルの腕の中でジタバタと暴れたが、彼は離してはくれなかった。
「ア、アル……離して……」
「どうして? 僕のリリがこんなに可愛いのに」




