第四章 デビュタント
アルが私の屋敷を訪れたのは、月も変わった頃だった。
「ごめんね。なかなか来ることができなくて」
ノエルがいるので父に許可をもらい、今回は私の部屋へと通した。ソファに座るや否や、アルが申し訳なさそうに謝ってくる。
「アルにはお仕事がありますから。気になさらないで下さい」
「でも、僕は君に会いたかったんだ。君はそうでもなかった?」
さらりと会いたかったと告げられ、頬が熱くなる。もちろん、私だってアルに会いたかった。会えない間は文でやりとりはしているけれども、直接会うのとは全然違うのだ。
「わ、私も会いたかったです……って、ノエル、駄目よ!」
「うわっ!」
いつも大人しく賢いと皆に評判のノエルが、突然アルに噛みついた。
予想外の攻撃に、アルが反射的に自分の顔を腕で庇う。その腕にがぶりと噛みついたノエルは、フーッとアルに威嚇した。
「ア、アル。どうしたの……駄目よ、アルに怪我をさせては」
「あいたたた……。大丈夫、大した怪我じゃないし、動物のすることだからね。気にしていないよ」
「すみません……」
自分の飼い猫が粗相をしたのだから、謝るのは当然だ。頭を下げると、アルは首を横に振った。
「本当に気にしていないから。それに、なんとなくノエルが攻撃してきたのは分かるんだ。そいつ、雄でしょう?」
「え、ええ」
ノエルの性別を言われ、頷くと、アルは「やっぱりね」と言った。
「そいつ、多分ヤキモチを妬いているんだよ。僕に大好きな君を取られるって思ったんじゃないかな。だから攻撃してきたんだよ。小さくても雄なんだなあ」
「ええ? ノエルが? でも、今までそんなこと一度だって……」
ルークやヴィクター兄様、ユーゴ兄様と一緒の時はいつだって大人しい。そう説明するとアルは呆れたように言った。
「そいつ、本当に賢いね。多分、自分にとって危険な相手が、その中では僕だけだって分かってるんだよ」
「危険って……アルは私と一緒にノエルを保護したのに……」
「関係ないんだろうね。でも、なかなか良い観察眼をしている。ちゃんと自分から君を奪っていくのが僕だって分かってるんだからさ」
「え」
クスクス笑うアルを見つめる。アルはキョトンと私を見返してきた。
「え? じゃないよ。当たり前でしょう。君は、僕と結婚するんだから。違う?」
当たり前のように言われ、目を丸くした。
「ええと……アルは私と結婚する気があるのですか?」
思わず聞いてしまったが、仕方ないだろう。
だって、元々婚約したのだって、『悪役令嬢』にならないために協力するのに都合が良いから、だったはずだ。それなのに、結婚するとはっきり言われ、私は戸惑っていた。
だが、私の質問を聞いたアルは明らかに怒りを滲ませた声で言った。
「はあ? 何を言っているの? 君は僕の婚約者でしょう。婚約者と結婚しないで誰と結婚するというの?」
「えと、それは……」
「答えて、リリ。前から疑問に思っていたんだ。君は、僕といる時、時折妙に距離を取ろうとすることがある。それはきっと今の質問に関係があるよね。――君は、僕が誰と結婚すると思っているの」
じっと見据えられ、私は気まずく思いながらも口を開いた。
「それは、その……アルが好きになった人と、です」
答えると、アルは呆れたように言った。
「それなら君でしょう。何も気にする必要はないと思うけど」
「わ、私、ですか? で、でも、私との婚約は、協力してもらいやすくするための偽装で……」
そういう話だったではないか。
『悪役令嬢』になりたくないのなら、自分と婚約をしろと、そう迫られたことは覚えている。
だから私は今まで、勘違いしないようにと必死で自分を制してきたのだから。
アルにそう告げると、彼は、納得したように頷いた。
「なるほど。そういうことか。でも、悪いけど、あんなのは君に婚約を頷かせるための方便でしかないよ。僕は最初から君と結婚するつもりで婚約を申し込んでる」
「え……で、でも、私は性格も悪いし、それにいつかアルには……」
「そんなのどうでも良いよ。大体、僕は君の性格が悪い、なんて感じたことはないし、もしそうだとしても、君は直そうと努力し続けているでしょう。努力する君の姿はとても美しいし好ましい。君を嫌う要因にはなり得ないと思うけど」
「え、え、え……」
突然与えられた情報量の多さに、頭が久しぶりにパニックを起こしそうになる。
――どういうこと?
私は『悪役令嬢』になりたくなくて、だからアルは協力すると言ってくれて、その為の婚約のはずで、私が彼と結婚する未来など来ないと思っていたのに、それは勘違い?
アルはずっと私と結婚する気で、側にいてくれたの?
混乱する私にアルが言い聞かせるように言葉を一つ一つ句切りながら言う。
「もう誤解されたくないから、改めて言うけど、僕は君が好きだよ。この婚約を履行し、君が十八になった暁には、妃として君を迎えたいと思っている。これが僕の意向」
「あ、アル……」
呆然とアルを見つめる。
彼はソファから立ち上がると、私の側へとやってきた。そうして、身体を屈め、全く動けない私の頬に口づける。
「っ!」
「大好きだよ、リリ。初めて見た時から君が好きだった。君を妃にしようと決めていた。『悪役令嬢』から抜け出せても、放してあげる気なんて毛頭ないから、覚悟しておいてね」
「……」
大きく目を見開き、アルを見つめる。
口づけられた頬が酷く熱かった。
私は、『悪役令嬢』でなくなったら、彼との関係は終わりなのだと思っていた。だけどそれは思い違いで、アルの方は婚約を履行する気があったのか。
ううん、違う。
大事なのはそこではない。
アルは私を、好きだと言ってくれた。私が『悪役令嬢』でなくなっても、変わらず側にいてくれるのだと言ってくれた。
そうか。
――私はアルを好きでいていいのか。




