第9話 風のあと
静かな声だった。
アイリスの黒髪が風に煽られて舞い上がる。
一房一房が意志を持つように広がり、どこか蜘蛛の脚を思わせる。
「ロロさまのご行動は、後宮の規律に照らして違反と判断いたします」
ロロの顔がわずかに引きつる。
「後刻、本殿にて取り計らいます。ご了承くださいますよう」
「……! 大げさだわ!」
「いいえ。規律違反です」
アイリスの声音は、驚くほど冷静だった。
ロロはぎょっとして、アイリスを凝視する。
そこでようやく、風の気配が消えた。
すぐ横で、ユリが息を呑むのがわかる。
一瞬、目が合ったが、私も言葉が出なかった。
「処分が下されるまでの間、ファルネスさまへの接近はお控えください」
「処分!? このあたしが?」
「はい」
「あんた、何なの……勝手なことばっか言って……手、離しなさいよ!」
ロロが叫ぶように返すが、アイリスはまばたき一つしない。
「ロロさまのご命令に服する義務は、当方にはございません」
(……ノワール・マナーに属しているわけじゃないの?)
やはり、彼女の仕える相手は最初から妃ではないのだ。
ゾクリと身体が震えた。
アイリスは、ロロの抵抗を物ともせず、その腕を引いて歩き出す。
粛々と、揺るぎのない足取りで扉の方へと進む。
猛禽に捕らわれたようなその姿に、自分を重ねてしまう。
(私も、いつかあんな風に――?)
すると重い扉の前で、不意にアイリスが立ち止まり、こちらを一瞥した。
すべて見透かされているような眼差しに、ぎくりとする。
だが、彼女はそのまま視線をすべらせ、品定めするかのように、ニアを見つめた。
ニアはたじろいだように、わずかに後ずさる。
しかしアイリスは口を開くことはなく、再び扉に向き直り、ロロを引きずる。
甲高い悲鳴が、重々しい扉に遮られ――閉じられる。
部屋に、静けさが戻った。
三人とも、しばらくその場に凍りついたように動けなかった。
ロロの形相が、脳裏に焼き付いて離れない。
(まさか、あんなに恨まれるなんて……)
気が遠くなりそうになり、足元がふらつく。
――『どうせ、あなたは陛下から寵愛される以前に――死ぬわ』
ロロの言葉の意味が、今さらながら身にしみた。
(もう一度テオに近づいたら、おしまいだ)
本当に、妃たちによって殺されてしまう。
(……なんて恐ろしいところなの)
それから、どれほど時間が経ったのか。
床に伏していたユリが、ようやく小さく息をついて身を起こした。
それに続くように、ニアもふっと力を抜いて、乱れた制服を整えはじめる。
彼女は切られた髪の先を、しきりに指で梳いていた。
髪の長さが半分ほどになってしまったせいで、
動揺を隠しきれていないのが、その所作から伝わってくる。
(……私のせいよね)
……さっそく巻き込んでしまった。
私は、その頭に手を伸ばしかけて――思いとどまる。
ユリは腰に手を当てたまま、
あちこち引き裂かれた応接室を冷めた目で見回した。
「本気になりすぎ。……めんどくさいったらないわ」
吐き捨てるような独り言だった。
そのまま床に転がっていたポーンの駒を一つ拾い上げ、それを無造作にテーブルにコツンと戻す。
「片付けておいてね。あなたのせいなんだから」
「……」
何も、言い返せなかった。
立ち去るユリの背中が、思いのほか遠くに感じられる。
扉が閉まり、また音が消える。
風の音が、まだ耳に残っているように感じた。
私は膝に手をつき、ゆっくりと身をかがめる。
足元に転がる駒に指を伸ばそうとした――そのとき。
「帰りが遅くなり、申し訳ございません。ここは、ニアが拾います」
小さな声が、すぐ横から差し込んだ。
顔を向けるより先に、そっと手を押さえられる。
あたたかく、けれど決して力づくではない静止。
「悪いわ。あなたは病み上がりなんだから」
だが、ニアは首を横に振る。
「いえ、どうぞそのままで」
そのまま迷いなく膝を折る。
床に手をつき、傷ついた駒をひとつひとつ拾い上げていく。
優しく、丁寧に。
白と黒の駒が、彼女の掌の中で転がるたび、
私の中の何かが、かすかに軋むように動いた。
ニアは、最後の駒を拾い上げると、それをぎゅっと手の中に収めてから、静かに立ち上がる。
そして、コツンとチェス盤の上に駒を置いた。
それは、ズタズタになったクイーンだった。
白い胴体は斜めにえぐれていて、もはや木片のようだ。
「大丈夫ですよ、ファルネスさま」
ニアは柔らかく微笑む。
「ニアがついております」
喉の奥が灼けるようで、とっさに言葉が出なかった。
「……ありがとう、ニア」
ようやく絞り出した自分の声は、震えていた。
それ以上の言葉が、思い浮かばなかった。




