第8話 侍女の誇り
私の前で仁王立ちしたまま、ロロはゆるやかにニアを振り返る。
「あら、おかえりなさい」
まるで何事もなかったかのような声音だった。
扉をくぐったニアをひと撫でするように、ロロの視線が滑っていく。
戻ってきたばかりの彼女は、室内の空気を一瞬で察知したようだった。
ニアの表情がぴんと強張る。
そのまま、目だけを動かして鋭く室内を見回す。
散らばったチェスの駒。
うつむく私。
そして、私を見下ろすロロ。
視線が止まり、数秒の沈黙。
ニアの顔が、すっと険しさを帯びた。
薄く引き結ばれた唇。目に宿る光が強まる。
「……ロロさま。何をしておられるのですか」
「あんたには関係ないわ。下がっていなさい」
ロロが素っ気なく言い放つ。
だが、ニアはためらうことなく、こちらへ歩み寄ってきた。
そのまま私とロロの間へ、するりと身体を滑り込ませるように立った。
ロロの顔が、露骨に曇る。
「下がっていろって言ったわよね」
苛立ちが隠せていない声音だった。
だがニアは、まっすぐ立ったまま背筋を伸ばしている。
「私は、本日よりファルネスさまにお仕えする身となりましたので、
ロロさまのご命令には従いかねます」
ロロの眉がぴくりと跳ね、ユリが目を丸くして私を振り返る。
「九十九位に得があるって踏んだわけね」
吐き捨てるようなロロの皮肉。
ドクンと心臓が鼓動を打つ。
ニアの表情を窺いたかったが、私からは後ろ姿しか見えない。
だが、彼女が深いため息をついたのがわかった。
「……ロロさま。侮辱にも限度がございます。
陛下がそのような方に御心を許されると、本気でお思いですか?」
声の調子は静かで整っていた。
だが、抑え込まれた怒気がその奥で燻っている。
「なによ。たかが女官だったくせに」
「はい。それがなにか」
ニアはかかとに重みをかけ、静かに身を固めた。
ギシリと床板が鳴る。
「主人の誇りを傷つけるような振る舞いを、見過ごすわけにはまいりません。
それに、ファルネスさまは陛下のご寵愛を受けておられます。
軽率なご行動は、お控えになったほうがよろしいかと」
「告げ口でもするつもり?」
「必要とあらば。主人をお守りするのは、侍女の務めにございます」
その瞬間、ロロの目が細められた。
唇がわずかに動き、低く息が漏れる。
「舐めんじゃないわよ」
声は、殺気を孕んでいた。
ロロが詠唱すると、彼女の足元に紋様が浮かび上がり、空気が魔力に染まって急激に重くなる。
(何かくる……)
ロロが手を掲げる。
突風が走った。
ひゅう、と鋭く――まるで刃のように、
(まずい!)
とっさに身を躱すと、頬に風が掠めていった。
手を当てると、指先に赤。私の血だった。
これはただの風じゃない。
魔力によって刃と化した風――かまいたちだ。
もし。少しでも反応が遅れていたら、喉を引き裂かれていたかもしれない。
血の気が引く。
「ロロさま、本気なんですか!?」
青ざめたユリが、ロロに問う。
だが、それに応えるように、背後で家具が裂ける音が弾けた。
ソファの背もたれが斜めに裂け、白い中綿が雪のように舞い上がる。
「きゃっ!」
ユリの悲鳴と、轟音。
壁が抉られ、パラパラと瓦礫となって崩れていく。
しかし、それに気を取られていると、再び耳元で風切り音がした。
私のつま先すれすれを、風の牙がかすめ、慌てて身を引く。
足元の床が裂け、板がめくれあがる。
間違いない。
ロロは、私を真っ二つにするつもりだ。
本気で殺される。
(ここまでするの……!?)
内側から蹴りつけるような、心臓の鼓動。
息を整える余裕もない。ほんの一瞬で、命を奪われる。
ユリは身を守るように両腕を抱えて身を強張らせていたが――
その椅子の脚も、風にさらわれたように、音もなく切断されていた。
ガタン、と椅子が傾き、彼女は声をあげて床に転がった。
「ロロさまっ……」
思わず足を踏み出し、ロロに駆け寄ろうとした――が。
ニアが、振り返ることなく右手を真横に伸ばし、私を静止した。
「――!」
その小さな背中が、まるで私を守る城壁のように立ちはだかる。
一歩も引かず、怯えも見せず。
風が斬り裂く空間の中で、彼女はまっすぐロロを見上げていた。
しかし、その肩はわずかに震えている。
怖がっているのではない。
怒りを押し殺し、必死に堪えているのだ。
握られた拳に込められた力が、それを物語っていた。
ニアの制服の裾が、風の刃に切り裂かれた。
結った髪も刃にかすめられ、ぱらぱらと床へ散っていく。
「ロロさま。お怒りをお鎮めください」
「ほんっと、どいつもこいつも……鬱陶しい」
ロロの瞳が、凍りつくような敵意を宿して、私たちを射抜いてくる。
目が合った瞬間、喉の奥がきゅっと詰まった。
(これほどの殺意を向けられたのは、久しぶりだ)
――と、その時だった。
「ご歓談のところ、失礼いたします」
あまりにも唐突で、あまりにも澄んだ声だった。
声の主を認識するよりも早く、視界の端に黒い影がすっと滑り込んだ。
吹き荒れる風に抗う様子もなく、ただ静かに。
瞬きの隙間で、ロロの手首が掴まれていた。
「!!」
ロロが目を見開く。
身体をのけぞらせ、掴まれた手を引こうとするが、逃れられない。
彼女の手を掴んでいたのは、一人の女官。
アイリス・ゼレン。
ロロを見下ろしているが、その表情からは何の感情も読み取れなかった。
「一部始終、拝見しておりました。ロロさま」




