第5話 紅の瞳、現る
ニアの見舞いを終えた私は、白花の館をあとにした。
正午の陽光が、廊下の窓から柔らかく差し込んでくる。
白い床に反射した光が、わずかに揺れながら私の影を縁取っていた。
静謐な空気が肌を撫で、魔力の流れが背を押すように感じられる。
ドレスはニアに忠告されたので、魔法で生地を伸ばし、質素に仕立てた。
黒衣の布地はそのままに、シルエットをやや緩やかにし、余計な装飾を取り除く。
影妃としての規定に破れぬ範囲で――できるかぎり、慎ましやかな姿を模したつもりだ。
玄関で控えていた女官に日傘を差されながら、静かに剣聖宮の本殿への道を辿る。
足元に揺れる白花が、風に乗って微かに香った。
本殿の裏手に控えた馬車に乗り込み、ノワール・マナーへ戻った。
手綱を引く従者の気配も、石畳を踏みしめる車輪の音も、どこか他人事のように響いていた。
馬車の揺れに身を任せながら、ようやく一人きりになったところで、私は大きく息を吐いた。
窓辺に体を預け、傾き始めた空をぼんやりと眺める。
(……すべてが、夢だったみたい)
テオドリックと、五年ぶりに言葉を交わしたというのに、実感がない。
姿も、声も、温もりも――あの頃と何ひとつ変わらなかった。
けれど。
――『気安く、この痣に触れるな』
冷たい声音とともに、鋭く振り払われた手の感触が、今さらになってよみがえる。
胸がずきりと痛み、それを紛らわすように、そっと指を握り込んだ。
窓の外に視線をやると、色とりどりの妃たちの城館が過ぎ去っていく。
塔の連なりも、庭園の花々も、まるで絵画のような光景だ。
(鞘の破片は、あの城館の中にも散らばっている……)
コツンと車窓に頭を寄せ、探知した鞘の行方に思いを馳せる。
どんな形で散らばっているのかすらわからない。
あれほど細かく砕けているのであれば、傍目からはただの石ころにしか見えないはずだ。
そんなものが、私室や廊下に転がっていれば、誰かが気づくはず。
だが――昨夜の探知結果から、処分はされていないように感じる。
……誰かが拾って保管している?
(わからない……あまりにも、手がかりが少なすぎる)
(そもそも、どうやって探せばいいのか……)
後宮に属する者といえど、他妃の領域には容易く足を踏み入れられない。
ことに影妃という立場では、余計な目を引くだけだ。
ニアに相談しようか。
彼女の利発さならば、何か手立てを――。
……いや、さすがに疑われるか。
その思考が浮かんだ瞬間、自分の甘さに小さく舌打ちしたくなる。
額に手を当て、息をつく。
こめかみにかかる髪を払っても、思考の重さは拭えなかった。
それに、核の在処は不明のままだ。
核がなければ、どんなに破片を集めたところで、復元は叶わない。
あの核は、思い返してみても……やはり意思を持って姿を隠しているように思えた。
魔道具が意思を持つ……そんなことはありえない――はずだった。
けれど、私は昨夜、目の当たりにした。
グリゼナの鏡が、意思を持って喋り、彼女を翻弄していた様を。
そして。
――『ファルネス、嘘つきめ』
耳に残る、あのざらつく魔物のような声。
――『テオドリック……貴様も嘘つきだ』
思い返しても、ゾクリとする。
私とテオドリックを名指しし、嘘つきと呼んだ。
あれほど意思をはっきり示す魔道具など、見たことがない。
ただの強化道具の域を超えている。
(鞘の破片と関係がある……?)
もしも魔道具に擬態し、宿主を狂わせる力があるなら……。
それがこの後宮に点在しているとすれば……。
聖剣の鞘にそんなことができるのかはわからない。
だが、闇雲に破片を探すような余裕はない。
ひとつ踏み外せば、テオドリックやオスカーに疑われてしまう。
(……栄華の鏡から調べるのが確実ね)
手がかりは、あの鏡にあるはずだ。
ただ……問題が一つ。
(どこに保管されているのか、全然わからない)
テオドリックの命を狙うような危険な魔道具だ。
厳重に保管されて、今ごろ専門家たちが調べていることだろう。
一介の妃である私が、容易に近づけるとも思えない。
(それでも、なんとか手を打つしかない)
ふうと背もたれに背中を預けた。
革張りの座席が、身体の重みに応えてわずかに軋んだ。
(嘘つきか)
つぶやくように口の中で反芻する。
思わず苦笑した。
名も、姿も、過去も、すべて偽り。
(その通りだわ)
……それなら。
同じく嘘つきと呼ばれたテオドリックは、何を偽っているのだろう。
(――なんてね)
◆ ◆ ◆
ノワール・マナーへ戻ってくるころには、すっかり日が傾いていた。
朱金の光が斜めに差し込み、窓辺に淡い影を落としている。
庭先の花々も、心なしか色褪せて見えた。
玄関で出迎えたのは、ハルだった。
私の顔を見るなり、申し訳なさそうに眉を下げ、口を開く。
「ファルネスさま、お疲れのところ誠に恐れ入りますが……重要なお話がございます」
心臓がどきりと跳ねた。
「実際にご覧いただいたほうが早いかと存じます。どうぞ、こちらへ――」
伏し目がちに視線を泳がせ、所在なさげな素振りを見せたあと、ハルは身を翻して足早に館内へ戻っていく。
私は慌ててその背を追い、階段を上がり、自室へと戻った――が。
(……ちょっと、嘘でしょ?)
部屋が――なくなっていた。
いや、正確には、木っ端微塵に吹き飛ばされていた。
私の小さな部屋は、火炎魔法によって壁も天井も、床に至るまで黒焦げだった。
炭と油煙の混じった異臭が鼻を刺す。
焦げ落ちた梁が片隅に転がり、窓は歪み、硝子片がきらきらと積もっていた。
もちろん、私物は全滅。すべてが消し炭になっている。
「どういうこと……なの……」
呆然と立ち尽くす私に、ハルがそっと事情を告げる。
「今朝、ファルネスさま宛てに大量の贈り物が届けられまして……。
そのうちのいずれかに、火炎魔法が仕込まれていたようでございます」
ドクンと、こめかみが脈打つ。
単体の火力は大したことがなくとも、大量に集まれば、致死量になりうる。
これは妃一人ひとりの私怨が寄せ集まり、束となった――殺意の集合体だ。
(……もし、ニアの見舞いを後回しにして先に帰っていたら……)
ぞっとして、思わず自分の両腕を掴んだ。
「私ども、総出にて消火にあたりましたが、
修復までには至らず――誠に申し訳ございません」
ハルの声はかすかに震え、俯いたまま、平頭する。
「ありがとう。巻き込まれた人は?」
「おりません」
「それなら良かった。私のせいで、ごめんなさい」
ちら、と彼女が私を見上げた。
テオドリックに寝所へ呼ばれた――その噂は、すでに宮廷中に広まっている。
制裁を受けることは、覚悟していた。
だが、それが即日とは。あまりにも早すぎた。
(……ニアまで巻き込むことにならなければいいけど)
黒煙の残り香が喉に引っかかり、胸の奥までざらついた感覚が残る。
(それにしても、派手にやってくれたわね)
私は詠唱の構えを取りかけて、すぐに思いとどまる。
(今ここで魔法を使って修復したら、確実に疑われる)
私室には、それほど重要なものはなかった。
それでも――悔しい。
(こんな大事なときに……
こっちは、あんたたちに構ってる暇なんてないのよ……!)
煤に染まった壁に手を触れると、指先に黒い粉がついた。
絹の袖にまで滲むそれを、私は無言で払った。
「ただいま、客室を整えております。
ご準備が整い次第お呼びいたしますので、それまで応接室にてお待ちいただけますでしょうか」
「ええ、ありがとう。面倒をかけるわね」
ハルは一礼して階段を下りていく。
私も重たい足取りで続いた。
手すりに手を添え、まだ覚束ない歩みで一歩ずつ階段を下りる。
そのとき――視界の端に、静かに立つ女官の姿があった。
私は思わず足を止める。
艷やかな漆黒の髪。長く整えられた前髪が、紅の瞳を半ば隠している。
その面差しは、無表情とも言えるほどに静かで、冷ややかだった。
だが、その視線は一瞬たりとも緩まず、計るようにこちらを射抜いてくる。
身に纏っているのは、漆黒の女官服。
飾り気の一切ないその制服は、端正に着こなされており、微細な皺すら見当たらない。
布の張りや裁ち方までが几帳面で、計測されたような精度を感じさせた。
……まるで彫像めいた造形。
整いすぎていて、生気がない。
(……知らない顔だわ)
とはいえ、ノワール・マナーに来てまだ三日。
すべての女官と顔を合わせたわけではない。
けれど――この異様な存在感を放つ彼女を、見逃すだろうか。
私が無言で佇んでいると、彼女は制服の裾を指先で軽くつまみ、頭を下げた。
あまりにも洗練された所作だった。
たったそれだけで、空気が張り詰める。
「本日より配属となりました。アイリス・ゼレンでございます」
「……配属?」




