第13話 君に触れたら(テオドリックSide)
執務を中断し、女官に手配させた掛布を持って寝室へ戻った。
まだ起きているだろうと思ったが――
ソファの上で、シャロン・ファルネスは穏やかに眠っていた。
よほど疲れていたようだ。
僕の上着を胸に抱きながら、ゆるやかな寝息を立てている。
それが、規則的に部屋の静寂へ溶け込んでいく。
(……寝台で眠ればいいものを)
足音を立てないよう静かに歩み寄り、彼女の顔を覗き込む。
美しい黒髪が散っていた。
手を伸ばせば、触れられる距離。
腰を落とし、ソファの肘掛けに手を添えた。
こんなふうに、誰かが無防備に寝息を立てる様を見つめるのは、何年ぶりだろうか。
「……」
(ファルネス影妃……)
必要以上に語らず、目立たない、平凡な魔女。
――『ニアを返しなさいよ』
夜会でグリゼナ黎妃に啖呵を切ったり、派手な行動も目立つ。
とはいえ、他にも声をあげた影妃もいた。
(ただの、女官思いの魔女なのか?)
大して気に留めるほどの存在ではない――はずだ。
彼女をじっと見つめながら、目を細めた。
(なぜ、あれほど緊張していたのに、僕の痣に触れようとした?)
心から、僕を案じての行動だったのか……?
反射的に振り払ってしまったが、結果的に彼女は聖剣に触れた。
あれほど触るなと忠告したはずなのに。
しかも、顔色ひとつ変えず、痛みに耐えていた。
……なぜだ?
すべて、演技だったような気がしてならない。
(もしそうなら、明らかに妃としての振る舞いではない。
企みでもあるのか? それとも……)
ここまで思い至っていながら……
僕は問い詰められない。
答えを知るのが怖いからだ。
はあ、とため息をついて、首を横に振る。
無駄なことは考えるな。
こんなところに、いるはずがない。
――『陛下を裏切ったのですから。死んで償うべきだと思います』
ファルネスの言葉が、ちくりと胸を刺す。
(ミルディナは、僕が勇者の資格を失ったからといって、
たやすく見捨てるような人間ではない。……そんなことはわかっている)
(それなのに、信じきることができない自分に嫌気がさす)
なぜ、姿を消した?
どうして手配前に、僕の前に現れなかった?
文の一通でもあれば、今ごろ――。
(さよなら、と。……理由すら教えてくれなかった。
それは、後ろめたいことがあったからじゃないのか)
(――この問答も、何度目だ)
いくら考えても、答えは出ない。
だからもう、忘れなければならない。
そう、思っていたのに。
それでも――問いかけてみたかった。
顎に手をやり、指先で自分の唇をなぞる。
(……似ている)
最初に違和感を覚えたのは、謁見の場だった。
名乗りの言葉は儀礼的なものとして、ただ耳を通り過ぎていった。
視線がぶつかった、あの一瞬――心の奥がざらついた。
それから夜会の席。
仕草の端々に、かつての面影が宿っていた。
髪を払う仕草、言葉の選び方、目元を拭うときの手つき。
考え込むときに無意識に眉を寄せる癖。
魔道具に対する理解の深さと、それを口にするときの静かな情熱。
指を組んだまま、彼女を見つめる。
――『……気持ちが、少し理解できてしまったからです』
愚かしいほど無防備な、善意。
容姿が違っても、人はそう簡単に内面まで偽れない。
魔法で隠し通すには、限界がある。
……少なくとも、僕の目には。
(もし彼女がミルディナだったら、僕は……)
絡めた指に、力が入る。
だが、ファルネスは一貫して、自分をミルディナではないと主張する。
嘘か真実か。今の僕に判断できる術はない。
今夜のことは、後宮中に広まるだろう。
影妃のファルネスが、どんな立場に追い込まれるか、考慮しなかったわけではない。
額に手を当てて、深く息をつく。
(何をしているんだ、僕は)
薄布一枚で身を縮こませるようにして眠るファルネスが、哀れに思えた。
もし彼女がただの妃で、ミルディナと無関係ならば……この仕打ちはあまりにも酷だ。
「ファルネス」
迷った末に肩を揺すってみたが、反応はない。
身体は、ずいぶん冷えている。
躊躇いつつ、その背に腕を回して抱き上げた。
さすがに途中で目を覚ますだろうと思ったが、深く寝入っているようだ。
まぶたが開く気配はない。
彼女の身体は、驚くほど軽く、けれどしっかりと熱を帯びていた。
寝台まで運んで、ゆっくりと横たえる。
黒髪が月明かりに照らされて、美しく艶めく。
寝息を立てる彼女の身体に、厚布をかけてやった。
布を掛け終えた頃、ようやく彼女は僕の気配に気づいたのか、身じろぎした。
悪夢でも見ているのか。
目は閉じたままだが、眉根が寄っている。
とても苦しそうだ。
その頬を撫でようとして、指を伸ばす。
しかし、すぐに我に返って引っ込める。
そのまま、胸元から上着を抜き取ろうとしたが、
眠っているはずのファルネスの指先が、裾を握った。
無意識なのだろうが、かすかに裾を引き止めるような抵抗を感じ、手を止めた。
少し考えて、そのままにしておいた。
寝台から遠ざかり、代わりにクローゼットから薄いコートを出して羽織る。
寝室の扉に手をかけたところで、足が止まった。
(朝になれば、僕と彼女は関係なくなる)
口元を引き締めた。
(聖剣に興味を示した以上、見逃すわけにはいかない。
――次第によっては、処断もあり得る)
目を固くつぶり、頭を振る。
それでも、扉の向こうに踏み出すのに、ひどく時間がかかった。
扉に額を預け、拳で軽く扉を叩く。
(今夜も、行かなくては)
聖剣の柄を握る手に、力をこめた。
馴染んだ革の感触が指に残る。
ようやく決心がついて、寝室の扉を開けた。
控えの間を抜けると、廷臣が黙って立っていた。
「ダレンに話がある。朝になったら来るように伝えておけ」
「はい」
ひと呼吸置き、僕は背後に視線を戻す。
「誰も通すな」
命令を受けた廷臣は、やはり何も問わなかった。
そのまま、静かに頭を下げる。
私室を後にし、足を進める。
靴音だけが、冷たい廊下に――決意よりも重く、剣よりも深く響いていった。
ここまでお読みいただき、誠にありがとうございました。
次回より、第3章が始まります。
第31話「オスカー・エイデンは影を疑う」。
元・勇者パーティの一員、オスカーが登場し、
テオドリックとは異なる切り口で、シャロンを追い詰めていきます。
なお、作品タイトルを
『死にゆく勇者を救うため、妃として後宮に潜入しましたが、私の命も危険です』
に変更いたしました。
物語の内容に沿った形で、よりテーマが伝わりやすくなるよう検討を重ねた上での調整となります。
これまで読んでくださっている皆さまには、突然の変更となりましたこと、申し訳ございません。
これからも、テオとシャロンの物語をお楽しみいただけましたら幸いです。
引き続き、どうぞよろしくお願いいたします。




