《第95話》連藤宅で朝食を
莉子の携帯が鳴り、もう起きなければならない時刻となったようだ。
おもむろに手を伸ばし、携帯のアラームを切り、体を持ち上げたが、時刻は8時。
「……はち……8時…!?」
身体を一気の持ち上げるが、隣を見ると姿がない。
どうやら莉子は二度寝に成功していたようで、何度目かのスヌーズで起きたことになる。
その現実に打ちひしがれていたところで、いきなりドアが開かれたので、彼女から悲鳴のような返事が返された。
「ばぁいっ」
「莉子さん、起きたようだな。
ちょうどコーヒーも入ったので、朝食にしよう」
すでにスーツにベストを着込んだ彼がいる。
だがネクタイはされておらず、ヘアセットもまだのようだ。
ラフなスーツスタイルの連藤の姿に一瞬見惚れてしまう彼女だが、
「……莉子さん?」
再びの声掛けに、はいはいと声を上げながら、ベッドを勢いよく飛び出した。
すぐさま洗面所に行き、顔と歯を軽くすすぐとリビングへと直行する。
すでにテーブルには料理が並び、優雅にコーヒーを啜る彼がいる。
新聞を読んでいるようだ。
タブレットにイヤホンが差し込まれ、そこから音声を聞き取っている。
「昨日の残りのようで申し訳ない。
簡単なサラダとスクランブルエッグ、トーストになる。
食べられるだけ食べてくれ」
真っ白な食器に盛り付けられたそれらの料理は見事な出来だ。
確かに昨日の残りのチーズなどが使われてはいるが、美しいリメイク料理。
さらに言えば、人様の手で作られた朝食など、何十年ぶりだろう……
感動に打ちひしがれながら莉子はフォークを手に取った。
サラダのドレッシングは手作りのようで、フレッシュなオリーブオイルの香りがする。昨日のオリーブ炒めも刻んで入っているため、食感と香りがとてもいい。
スクランブルエッグの火の通り方がまた見事で、美しい半熟だ。
ふわふわとした卵とバターの香りが口のなかいっぱいに広がってくる。
そこへ表面をこんがり焼いたバゲットを含んだらどうだろう。
もう、これ以上ないほどの至福のハーモニーである。
「……しあわせ…」
莉子は小さく呟くと、さらにサラダを頬張った。
「幸せなら良かった」
連藤は軽く微笑み、彼もまたサラダに手を伸ばす。
「……あの、連藤さん、時間とかって大丈夫なんですか?」
携帯を覗くと8:47の文字が浮かんでいる。
そんな時間なのに連藤は優雅に朝の時間を過ごしているのが不思議でたまらない。
大体の企業だと9時始業であれば、10分前には会社に着いていなければならないなど、いろいろ制約があることだけはお客様から聞いているので、心配になってしまったのだ。
「うちはフレックスタイムを導入している。
今日は会議もアポもないから、少し出社が遅くても問題ないんだ」
「それなら良かった」
莉子は安心したのか、2杯目のコーヒーを入れに立ち上がった。
連藤の家のコーヒーはカプセル式のものだ。
カプセル式ではあるが、コーヒーの種類が豊富でエスプレッソからマグカップサイズ、フレーバーコーヒーまで作れる優れものだ。さらに牛乳をセットすればカフェラテもボタン1つで作成可能。
もうカフェなんていらないんじゃないのかな……
とすら思わせるクォリティなのである。
エスプレッソを抽出しても綺麗なクレマもあり、コクも苦みもちょうど良いのだから便利な世の中になったものである。
莉子はカフェラテを作ろうとカプセルを選び、ボタンを押したあと、連藤のカップが空なのに気付き声をかけるが、
「俺はもうそろそろ支度にとりかかる。ありがとう」
そう言うと食器類を洗浄機へと入れ込み、洗面所へと向かっていった。
彼のルーチンなのだろう。
規則正しい音が聞こえる。
洗面所で髪の毛を整え、そのあと自室へ移動し、クローゼットからネクタイを取り、ネクタイをしめたあとにジャケットを羽織り、デスクに置いたカバンを持ち上げれば、出社完成である。
のんびりとカフェラテを飲んでいると、リビングの扉が開いた。
「莉子さん、行ってくる」
ひょっこりと顔を出した連藤はいつもの連藤であり、少し違う風にも見える。
身なりが出来たてだからか、凛々しく見えるのだ。
少しどきりとしながらも、見送るために立ち上がった。
「莉子さん、俺の部屋でゆっくりしていって構わない。
昼は会議のあとに会食が入っているからいらないが、今日は定時で上がれるから」
靴ベラでかかとを滑らせ、つま先を整え連藤が言うのだが、なぜか笑ってしまう。
「莉子さん、どうかしたか?」
「いいえ、いつものメールの内容ですけど、声で聞くとなんか新鮮だなって」
連藤は一瞬考え込み、少しはにかんだ笑みを浮かべた。
「では、行ってくる」
「あ、ネクタイ、」
莉子は言いながら手を伸ばし、ネクタイの曲がりを直してやる。
その手を連藤が優しく掴み、
「ありがとう」
「いいえ、いってらっしゃい」
彼女の手がいきなり引かれた。
反動で胸板に顔をぶつけてしまい、怒りながら顔を上げたとき、彼の顔もそこにあった。
覆いかぶさった唇は莉子に軽く触れたあと一瞬間があいたが、すぐに首を抱えこむと、息ができないほどに彼女の唇を貪っていく。
身を引こうとするが、カバンを離した彼の手は背中と腕を抱え、身じろぎもできない。
きっと数秒のはずだ。
だが莉子にとっては数時間の気さえする。
連藤は、小さく満足げな息を吐くと、
「行ってきます!」
ありえないほどはっきりとした声音で言い、素晴らしい笑顔を浮かべると、茫然自失の莉子を置いて彼は会社へと向かっていった。
『あいつメチャ機嫌いいけど、何かあった?』
そう三井からメールが来たのは彼が家を出てから20分後のことである。
再び思い出し、肩を震わせ顔を赤らめ、床に転がり悶えたのは言うまでもない。





