《第33話》思い出の中の人の顔は【前編】
三井と連藤が来店中。
「なぁ、莉子、
俺はダメな男なのかなぁ……」
琥珀色がグラスの奥で揺れている。
グラスからあふれてくるのは、香ばしくも樽の香りである。
───ウイスキーだ。
それは煙草の煙のように、強い香りが鼻先をくすぐっていく。
だがストレートのその酒を、三井は水のように一気に飲み干した。
唇からこぼれる一筋の酒が顎から首に伝い落ち、彼のシャープな輪郭を象っていく。
少し疲れた高級のスーツに、緩く弛んだネクタイ。
引き締まった腕は彼の顎を支え、手に浮く骨ばった筋が男らしくも憂げで、その薄い影すら何かを背負っている雰囲気がある。
その手が顎に伝った酒を無造作に拭った。
拭う仕草すら彼の色香に変えられるのか、おかげでOLさんの視線は釘付けのままだ。
だが口から溢れる言葉は、
「7番目の子に昨日さフラれてさぁ……
確かに5番の子と似てるかもしれないけど、それはそれなんだよ。
そんなに俺、選り好みしてるかなぁ……」
答えたくない質問だ。
「莉子さん、よくこんな三井に構えるな。
女の人から聞いたら殺したくなるぐらいの話だろ?」
「それ以外はいい人だから我慢してる」
連藤と莉子は笑いあうが、三井はその笑い声を鼻息で弾き飛ばした。
今日は三井の介抱役なのだという連藤が、三井の顔に呆れながら手元のワインに手を伸ばす。
手がグラスから少し外れていたので、彼の届く位置へと滑らすと、
「ありがとう」
こんな些細なことでも連藤は笑顔で感謝を伝えてくれる。
気づかれないようにしているのに気づかれてしまうのが、なんとなく自分の不器用さに思えてしまう。
だが、これが彼の処世術なのだろう。
目が見えない分、伝えられることは音のみなのだ。
視線で話ができない分、表情も固くなりがちだ。だからか彼は意図的に表情を作っているのがわかるときがある。それほどに気を遣わなければ相手に伝わり難いのだろう。
日本は察しの文化でもある。
それが余計に拍車をかけているのかもしれない。
何かを感じ取る力というのは、視力を失くした人には空気感でしかない。
どれだけ連藤は苦労してきたのだろう。
そう思うと、本当に憎らしい文化だ。
現に今も所在無げにグラスを回している三井がいる。
お酒を注いでほしいのだ。
莉子は勝手に苛々しながらすぐにウイスキーを注いでやった。
グラスの底が見えるほどに、垂らすようにウイスキーを足してやるのだが、再度グラスが傾けられる。
足りないと言っているようである。
さらに少し足してやり手で促すと、仕方なくそれに口をつけた。
再びそれを飲み干すと、若干回らない舌で三井が言う。
「俺も女運悪いかもしれないけどよ、
連藤も結構だよな。
婚約までしといて、
目が見えなくなったら、逃げられてさ」
気を許し過ぎたようだ。
三井の酔いが一気に抜けていくのが見て取れる。
連藤の表情も強張り、見ると顔が伏せ目がちだ。
「連藤、すまん」
「いや、……まぁ…」
濁す2人の雰囲気に莉子が口を開いた。
「私に対して気遣ってるんなら、何も問題ないよ?」
あっけらかんとした明るい声だ。
「そんなの連藤さんの部屋見れば分かるって。
どう考えたって一人じゃ広すぎるもの。
でも、そういったものは全部消されてたから、
そこは未練ないんだなって思ってたから、全然別に問題ないよ」
2人ともに安堵したのか、呼吸が深く吐き出される。
「やっぱり、莉子さんには勝てないな」
「いつだって負けてないからね」莉子はそう言いながらワインを喉に流した。
今日のワインは辛口の白である。
シャルドネのワインはすっきりしていながらフルーティな口当たりも楽しめるワインだ。
そのシャルドネだが、テロワールという土地に左右されやすい品種で、作られる国で全く違う雰囲気のワインになることが多い。
その中でもフランスのブルゴーニュのシャルドネはミネラルが強く、口に含むと固いイメージがある。
だがそれだけに芯が一本通ったような、背筋が伸びるような、そんな気さえする。
飲み干して、背筋を伸ばしてみた。
口に残る酸味が余計に背筋を張らせる。
だが改めて、婚約者というフレーズを聞いてしまうと、気付いていたとしても、心の奥に影ができてしまう。
結婚まで意識した人がいた、というのはそれなりな影である。
だが、相手が消えたのも分かる気がする。
きっと、連藤の目が見えなくなったことと大きく関係があるに違いない。
ふと思う。
自分がもし連藤の目が見えているときに会っていたらと。
ここまで献身的に動くことはできたか───
たら、れば、の話で何も見えてこないものだが、だがそれでもそのときの連藤はこのような精神状態ではなかったはずだ。
世界に絶望し、自分に絶望し、何もかもを拒絶するほどの心だったかもしれない。
そんな彼の世界で婚約者の彼女は荒んだ荒野をただ一人で歩くような、先の見えない不安と果てしない絶望と、かすかな月明かりを希望に見立てて縋っているような、そんな気分ではなかったのではないだろうか。
そんなもの、どれだけ愛情があっても乗り越えるのは難しい───
自分も井戸の遥か底に落ちた気分は味わったことがある。
両親の葬儀を終えたあとだったろうか。
あのときの自分の自暴自棄といったら、耳を塞ぎたくなるほどの激しい悲鳴が響き渡る勢いだった。
誰もそれを宥めることなど、できはしなかった。
こればかりは時間しか解決できないものなのだ。
───解決できた結果が、三井と連藤の関係なのだろう。
「莉子さん、どうかしたか?」空気が固まった莉子へ連藤が声をかけてきた。
「いや、なんでもないです」莉子はいびつに笑ってみた。
「莉子も酔っ払ったか?」三井が茶化してくるが、
「私は全然飲んでませんので」ぴしゃりと切っておく。
再び空いたグラスにウイスキーを注いでやると、三井は満足そうに頷き、喉を鳴らした。
連藤のグラスにワインを注ぎいれたとき、閉店間際のドアベルが鳴る。
それは、重くも高い鐘の音で、まるで教会の鐘にも聴こえる響きだった────
まだ続きます!





