《第176話》バッタ液ってなに?
今日は優と奈々美の来店なのだが、カウンターに座るなり、彼女たちの開口一番が、
「「バッタ液ってなに?」」
だった。
莉子は、逆に聞いてみる。
「なんだと思ってます?」
「え、奈々美、言ってよ」
「なんで、私に振るの? やだって」
口に出すのもおぞましそうなふたりの顔に、莉子は、単刀直入に言う。
「昆虫のバッタが山もり入った液体とでも思ってます?」
ふたりの可愛らしい顔が、上下に小刻みに揺れる。
むしろ、震えている。
「というか、どこでききました、それ」
莉子はカウンターのテーブルでもぞもぞと手を動かしつつ聞くと、
「電車で。ね、奈々美、あの、発泡スチロール持ったお兄さん、ブツブツ言ってたもんね」
「そう! バッタ液が大事とかって……もう、怖くて」
「……それ、あの人じゃないです?」
ふたりが振り返ると、そこには……
「「ぎゃあぁぁああぁ!!!!!」」
ウィンドブレーカーを羽織ったお兄さんが、片手を上げて立っている。
彼はズカズカと店に入ってくると、発泡スチロールをどんとカウンターに置いた。
「はい、莉子ちゃん、牡蠣。今日の、マジでいいよー」
「すみません、西屋さん、配達してもらって」
「いや、帰るついでだから。こっちこそ毎度ありがとね」
莉子は発泡スチロールの中身を確認し、大きく頷いた。
いつもどおり、粒がそろって、大きい牡蠣だ。
「ね、西屋さん、またバッタ液の配合、考えてたでしょ」
「……え、なんでそれ……」
「彼女たち、バッタの液だと思って、戦々恐々してましたよ」
「あー、ごめんね、お姉さんたち」
キャップのツバをつまみ、頭を下げると、手を上げ、颯爽と帰っていく。
唖然と見送る優と奈々美に莉子は思わず笑ってしまうが、ふたりの顔は真剣だ。
「「だから、バッタ液ってなに!?」」
莉子は「はい」そう言って、カウンターに小さなボウルを置いた。
そこには、クリーム色の液体が入っている。
ふたりにそれを手渡し、莉子は発泡スチロールを冷蔵庫へと入れに行く。
戻ってみたが、ふたりの顔はかしげたままだ。
「莉子さん、これがバッタ液、ですか?」
奈々美の不思議な顔が面白い。
「クレープの生地みたいな色」
優の声に、莉子はうんうんと笑う。
「バッタ液というには、バッター液とも言って、英単語の衣って意味になるんだけど」
「「batter?」」
「それなのかな? ホットケーキの生地みたいに、卵や小麦粉、牛乳や水で溶いた液のことを言うんだ」
莉子はふたりに見せた生地に、冷蔵庫から持ってきたズッキーニをくぐらせ、パン粉をまぶすと、じゅわりと揚げていく。
「フライって、小麦と卵、で、パン粉じゃないの?」
優の声に、莉子は頷く。
「そっちのほうが、卵の味がよくするかもしれない。バッタ液だと、少しふんわり、厚めの衣になるからね。でもつける工程が1個はぶけるから、お手軽っていうのがあるよね」
揚げあがったズッキーニのフライをふたりに差しだすと、さっそくとつまんでいく。
「ほくほく、して、る」
「おいしー」
すかさず、飲む予定のスパークリングワインをだすと、ふたりは一気に飲み干し、ひと息ついた。
「はぁ……よかった。謎がとけて」
「ホントだよね。検索したくなかったし」
なるほど。
今は簡単に調べられる世の中だからこそ、みたくないものは調べない選択もあるわけだ。
「でも、なんであの人、あんなにバッタ液にこだわってるの?」
奈々美の声に、莉子は肩をすくめた。
「西屋のお兄さんいわく、『衣の厚みが変わるから、マジ配合、大切なんですよ』って言ってた。けど、私にはわかんない」
ふたりのグラスにスパークリングワインを注ぎつつ、莉子は小声で話しかける。
「……明日、みんなで牡蠣パーティの日ですけど、3人で先に、味見しませんか?」
「「……賛成!」」
今日もカフェの夜は、ゆっくりと、楽しく、更けていく───





