《第128話》ホワイトデー 後編
莉子は連藤の部屋に到着し、そのままリビングへと向かうと、そこにはいつもと違う連藤がいる。
スエットのズボンに長袖で、彼の顔には色眼鏡がなく、さらに髪の毛がさらりとおろされた、それはそれはイケメンの普通のお兄さんがエプロン姿で部屋にいるではないか!
(はぁーん、眼福!)
莉子は声に出さずに心の中で大きく悶えた。
いつものスーツ姿も、それは何十倍も格好いいのだが、こういうラフな一面も乙女心をくすぐる大事なポイントなのである。
この髪の毛がおろされた連藤など、莉子しか見られない特権なのだ。
そう、カノジョである莉子しか見れない特権なのである……!
そう思うと優越感とともに、どこか満足感があるのはどうしてだろう。
誰にも見せてない一面を見られると言う独占欲もあるのかもしれない。
相変わらず、連藤にとってはいつもの格好に莉子はくらりとしながら、
「連藤さん、ただいま」
声は普通に出せたと思う。
「莉子さん、おかえり。予定より少し早かったな」
「そりゃお菓子のためです。めっちゃがんばって来ましたよ」
「さすが莉子さん。先にシャワー浴びるかな?」
「いいんですか?」
「ゆっくり、楽しもうじゃないか」
連藤が優しく微笑むので、莉子はお言葉に甘えてシャワーを借りることにした。
熱いお湯を浴びながら、キッチンから漂う甘い香りが何なのか一生懸命考えてみる。
少し香ばしい香りがしていたから、きっと焼き菓子に違いない。
では焼き菓子ながらどんな菓子なのだろう……
思い巡らすが、キッチンの中を覗いていないので、わかりようがない。
だが、何が出てくるかを想像するのは本当に楽しい時間なのだ。
鼻歌交じりにシャワーから上がり、ドライヤーでざっくり髪の毛を乾かすと、脱衣所に莉子専用の棚を作ってもらったため、その棚からルームウウェアを取り出し着替えると、スリッパを飛ばす勢いでリビングへと戻った。
「連藤さん、お菓子タイムですよっ」
はしゃぐ莉子とは違い、連藤はすでにセッティングを終えていた。
薄暗くなった部屋にはキャンドルが灯り、花まで生けられ、ローテーブルにはワイングラスとともに、ナッツやクラッカーなどのおつまみが並んでいる。
さらに2人が座る前には、綺麗に盛り付けられていたお菓子のプレートがある。
ガトーショコラだ。
みっちりとしていて、濃厚なのがよくわかる。
さらにオレンジや苺などがあしらわれ、よくワインに合うフルーツが組み合わされている。
「さ、莉子さん、ワインでチョコを楽しもうか」
……やられた。
莉子は思った。
この男はこういう男なのだ。
もてなそうと思ったときの力の使い方は、こういう方向にいくのだった———
「……莉子さん?」
再び声をかけられ、莉子は慌てて返事をしながら、いつもの場所へと腰を下ろした。
連藤のダイニングはテーブルとチェアなのだが、リビングはローチェアで、こういったワインなどを飲むときは、決まって床に腰を下ろすのだ。
おしゃれなローテーブルに並べられた数々の品々。
鍋を囲んだことが恥ずかしく思えるほど。
「莉子さんには、いつもカフェでの食事をご馳走になっているからな。
今日はそのお礼みたいなものだ。
今は21時20分ごろか……
ワインを飲み干すにはちょうどいい時間だ。
さ、莉子さん、今日もお疲れ様」
「お疲れ様でした。
連藤さん、いつもありがとうございます」
2人でテーブルの前に腰を下ろすと、お互い声を掛け合いながら、莉子がワインを注いでいく。
「このワインは?」
「フランスのボルドーワインだ。少し若めではあるが、香りが豊かでおいしいと思う」
莉子はグラスから透ける色を見てガーネットの輝きに感じる。揺れるたびに白く光る波ができる。
ふわりと香ってくるのは黒いベリーの香りだが、ひと口舌に乗せると、ずっしりとした重みと果実味が口の中いっぱいに広がっていく。
飲み込んだあとから鼻腔の奥に樽の香りが込み上げて、バニラの風味に感じるから面白い。
すかさず濃厚なガトーショコラを口に含むと、一気にケーキが高級ケーキにランクアップしたかのようだ。
風味が増すのはもちろん、ワインの渋みとケーキの苦味が見事にマッチする。
カカオの香りがぐっとひきたったガトーショコラは、どこかのパティシエが作ったのではと思うほどに、香りが豊かで美味しいケーキだ。
「連藤さん、このワインすごい!
連藤さんのケーキがいつもの何倍も美味しく感じます。
それにこの口休めな感じのフルーツが、これもワインに合って美味しいです……
まずい、飲みすぎるかも……」
「莉子さん、そうは言ってもボトルは1本しかないので、ゆっくり飲んで欲しい」
「連藤さん、これは至福の時間ですねぇー」
言葉尻に陽気な雰囲気を感じ取った連藤は、慌てたように言った。
「もしかして、空きっ腹に飲んでるのか、莉子さん?」
「んー? 少しは食べて来たよ?」
ゆっくりと話すときは莉子が酔い始めている合図である。
「……食べてないな。何か作るか?」
「いらない。ケーキ美味しいもんっ」
いいながらふた切れ目のケーキを口に運んでいく。
「莉子さん、チーズあるから、これ食べてからワインを飲んだほうがいい」
「大丈夫だって。ちょっとぐらい。いつも飲んでるもんっ」
莉子は言い切るが、家で飲むと緊張が緩むのか、酔いが回りやすい癖がある。
彼女はわかっているようで、わかっていない。
ただ美味しくいつもどおりに飲んでいるつもりなのだろうが、言動が少し幼くなる。
連藤は実はこの莉子が大好きだ。
少し舌ったらずになり、少し甘えん坊で、少し意地っ張りになる莉子が可愛くて仕方がないのだ。
これを見れるのは連藤だけだ。
いくらカフェで酔っていても、こんな風に話すことはない。
このことを莉子に言うと、気にしてこの癖を直してしまうかもしれない。
そう思う連藤はいつも大げさに何も言わず、いつもの通りに返事をしている、つもりだ。
抱きつきたい衝動を抑えながら、莉子に連藤が言う。
「莉子さん、俺のグラスが空いたんだが」
「おー、それは失礼しました。
今、注ぎますよぉ。
ほんと、連藤さんはお菓子づくりの天才ですね!
莉子は幸せです」
注ぎながら話す莉子を連藤は耳で見つめながら、
「俺も幸せだよ」
莉子はふふふと笑い、「お互い幸せってすごいですねぇ」さらにケーキを突いている。
莉子がこの言葉を、自分が言った言葉を忘れてしまってもいい。
ただ、この時間が楽しかったことだけは、忘れないでいてくれたら……
連藤はそう思いながらグラスをゆっくりと傾けた。





