《第127話》ホワイトデー 前編
ホワイトデーは、連藤の家に泊まりにいく約束になっていた。
そのため莉子は、20時閉店として作業を進めていたのだが、なかなかハードな日ではあった。
ちなみにバレンタインの日は連藤が莉子の家に泊まりにきてくれ、2人で鍋を囲んで和やかに過ごした。
その際、莉子が連藤へプレゼントとして渡したものは、製菓用の高級チョコ・クーベルチュールだ。
コイン状のチョコで、そのまま食べるのではなく、溶かしてチョコトリュフにしたり、はたまた刻んでチョコケーキにしたり、使用方法は無限にある『チョコレートの原型』ともいえる。
そのクーベルチュールが、今夜、チョコレート菓子となって莉子の前に現れるのである。
20時の閉店は滞りなく終えたい。そして、21時に連藤の部屋に到着したい。
莉子は呪文のように心の中で唱えながら閉店準備を整えていくが、やはり3週間前からの告知は大きな意味がある。
お客様は神様です!
しっかり20時に退店していただけました……
莉子は心の中で手を合わせ、カフェの扉を施錠した。
それからの動きは早かった。
金庫を閉め、ガス、水の元栓を確認し、食洗機のセッティングを終えると、着の身着のままタクシーを捕まえ、連藤の部屋に向かった。
そう、連藤が作るチョコレートの何かが待っているのである。
浮かれる気持ちを隠せないままタクシーに乗ったせいか、運転手から、
「何かいいことあるんですか? 今日、ホワイトデーですもんね」
そう、声をかけられたことで、自身の顔が笑ったままだと気付いた莉子は、照れた笑いを再び浮かべた。
「あー……今日、美味しいお菓子が食べられるんで、それが嬉しくて」
「えー、それだけですかぁ?」
ワンメーターほどの道を、わざわざタクシーで移動するには訳があるだろうと運転手が思うのも当然だろう。
だが彼女の大きな目的は、連藤が作る甘いお菓子なのだ。
そのために今日、必死で仕事をこなしたのである。
1分でも早く到着し、そのお菓子にありつきたい。
だいたいチョコの風味を調べて、そこからコーヒーを選び、豆を挽いてきたのだ。しかも3種類!
莉子はコーヒーが入ったリュックを抱えながら、ただ横に流れていく灰色のビルと等間隔の街灯を見つめる。
あの大きく前衛的なビルを超えたらもうすぐ連藤のマンションだ。
そう思うだけで莉子の心が躍り、さらに会える喜びと一緒に、緊張が走るのはどうしてだろう。
いつものことだが、慣れないのだ。
いつか緊張せず、彼の家に入ることができるようになるのだろうか。
ありがとうと伝えて降りたマンションはやはり大きい。
しなくていい連絡を入れ、莉子は自動ドアをくぐっていった———





