《第119話》彼のワガママ
土曜日の夜は大変ありがたいことに、ほぼ満席になるcafé「R」である。
本日も忙しく過ごす莉子だったが、ひとつ目標があった。
閉店時間である。
12時ぴったりに店仕舞いをすること。
忙しなく動きながらも時計が気になる莉子に、客が声をかけてきた。
「オーナー、時間なんか気にして……これからデート?」
最近よく通ってくれているサラリーマンだ。
莉子は彼に愛想よく笑い、
「そうだよー。だからラストオーダー11時半だから。
ちゃんと帰ってね」
真顔で言い切った。
最近彼がながながと居座るせいで、店が閉められないのだ。
少しせいせいしたかも。莉子は心の中で微笑むと、別の接客へ足を運ぶが、言われた彼の表情は固まっている。
まさに『やぶへび』だったかもしれない。
莉子はそんな彼のことなど構ってはいられない。
なぜなら、あの彼が、ワガママを言ったのだから。
今日絶対会いたいんだ、と。
「ありがとうございました。帰り寒いので、気をつけてくださいね」
莉子はお客を見送りながら時計を見やった。
もう12時だ。
焦りながらも、嬉しさが勝るのはどうしてだろう。
彼も土曜が大変混雑しているのを知っている。
営業も時間通りに終えられないのをわかっている。
それらを含んでの、会いたいというこの言葉。
ときめかずにはいられない。
だが、しかし!
あの迷惑なサラリーマンが腰に根を張ったかのように動かない。
どうも時間を守る気配を微塵も感じられない。
莉子は小さくため息を落とし、あと10分したら声をかけよう。勝手に決めて作業を進める。
彼ひとりとなった店内だが、莉子は手際よく明日の開店に向けて整えていく。
すでに根を張っている彼には、精算用のレシートを渡しているため、お金さえもらえれば特に問題ないようにしてある。
厨房の元栓、食洗機の清掃、厨房の鍵、その他諸々のチェックは全て終えていた。
それなのに、彼は空のグラスを見下ろしたまま微動だにしてくれない。
これほど音を立てて片付けをしてるにも関わらず、座り続けられる彼の精神力に脱帽である。
だが、もしかしたら体調が悪いのだろうか……?
ワインのボトル1本分は独りで飲んでいるはずだ。
本当は吐きそうなのに堪えているのだとしたら……?
「あの……」莉子が再度声をかけようとしたとき、ライトが右から左へと流れた。
ガラス越しに眺めると、タクシーが停まっている。そこから背の高い男性が降りても、タクシーは止まったまま。
彼の迎いだろうか?
確かに終電はもうすぐなくなる頃。だが今からタクシーに乗れば間違いなく間に合うだろう。
莉子なりに納得できたところでドアベルが鳴り、声をかけようと近寄ると、そこには待っているはずの彼がいた。
「……莉子さん、……迎えにきて、しまった」
途切れ途切れの言葉とほのかに赤い頬から、連藤がかなり勇気を出してここまで来たのがわかる。
彼の本日の業務は20時までであった。
それからたった4時間であるのに、待てなかったと言っているようなもの。
それだけにとても気恥ずかしく、だがそれでも彼女を迎えにくることを選んだ彼は、タクシーでここまで乗り付けたのだった。
「全く、連藤さんだったら……もう少し時間いただけますか?」
「待つのは問題ない。よく利用する個タクだし、事情も話してある」
「そっか。それなら運転手さんも入ってもらって、お茶飲んで待っててもらいましょうか」
「わかった。なら電話して呼ぶよ」
「お願いします」
一旦カウンターに戻ろうと振り返ったとき、今まで座っていただけのサラリーマンが莉子を向き、立っている。
具合は大丈夫だったんだと安心し、「ご精さん」と言いかけたとき、
「とんだビッチだなっ」
唇の端に泡を溜めて、言い放たれた。
その言葉の意味が最初わからず莉子は首を傾げたが、
「あーイケメンなら誰でもいいだぁ……
だいたいアイツ、俺より通ってないのに、あーそうなんだ、イケメンなら名前も教えるんだぁ」
ちょっと、何言ってるかわかんない。
と言いたいところだが、迎えに出向いてきた連藤が、莉子の彼氏であることに気づいたようだ。
先ほどの莉子の発言から推測することは可能だろう。
莉子は牽制のつもりで言った言葉だったが、裏目に出てしまった。
裏目までならよかったが、ここまでひねくれた方向で飛んでくるとは考えもしていなかった。
コレ、ヤバイやつじゃね?
莉子は顔を引きつらせつつ思うが、後ろに座っているはずの連藤は何も言ってこない。
……もっとヤバくない!?
彼の言葉がさらに続く。
「俺が通ってる理由ぐらい、ふつーわかるしょ……
八方美人なんだね、り・こ・さ・ん・は!」
この状況だと、どんな言葉を返しても解決できない気がする。
にじり寄る彼と一定の距離を取るので精一杯だが、あいかわらず連藤は無言のまま。
背中越しでしか連藤の存在を確認できないため、彼が何をしているかはわかりかねるが、何の反応もないのは、これは間違いなく死活問題だ。
外を見ると、タクシーが出ていった。
もう、これは修羅場。悪い意味の修羅場。
莉子は、店の中心で叫んだ(心の中で)。
助けてください! 誰か、助けてください!!
連藤さんに勘違いされる方が、こいつに殴られるより、数百倍辛いですっ!!!
唇を噛むばかりで声を出さない莉子に業を煮やしたのか、
「ちょっと、オーナー、答えてくれないの?」
サラリーマンの彼がさらに詰め寄った。
「ねぇ? おかしくね?
俺が好きなのわかってて、愛想振りまいてたんだろ?
あぁ? ねぇ、そうでしょ?
だいたい俺のこと、金ヅルとしか見てなかったんじゃね?」
この言葉に思わず莉子の唇が開きかけたが、
「俺がどれだけの金ここに落としたと思ってんの?
こんなに貢献してんの、俺ぐらいよ?」
彼の言葉が莉子の逆鱗へと到達した瞬間だった。
「はぁ?」
この声は莉子であるが、莉子ではない。あまりにも低く、地鳴りのような声に彼の勢いは一旦止められてしまう。
さらに莉子は彼を気迫で押し返しながら、
「……貢献ってどういう意味でしょう?
あなたは一人分の食事をし、一人分のお酒を飲んで、カウンターではなく4名席をだらだらだらだら使います。
あなたが毎日4名分の食事と、4名分のお酒を飲んでくれて、ようやく採算が取れるんです。
あなたが毎日5名分の食事と、5名分のお酒を飲んでくれて、ようやく貢献といってもいいでしょうね」
莉子が吐き捨てるように言い終えた時、男の顔が真っ赤に茹っていることに気がづいた。
目も赤い。白い部分が真っ赤なのだ。
やってしまった……
殴りかかってくる彼を見つめながら、後悔と諦めに脱力した。
殴られる———
歯を食いしばったとき、いきなり抱え込まれた。
連藤を守るように立っていたつもりだが、連藤が莉子を抱いて、彼の拳を背で止めたのだ。
殴った結果に怖気付いたのか、または連藤の行動に驚いたのか、一瞬戸惑いながらもドアめがけて走り出した。
だがその脱走は、ものの3歩で終わってしまった。
「はい、現行犯です」
警察官がいたのだ。
──そこからは早かったが、時間はかかった。
というのも、連藤の精密検査から始まり、事情聴取はもちろん、あのサラリーマンを傷害罪で起訴するか、接近禁止命令を出すかどうかなど、弁護士を呼び出してのやりとりが続いたからだ。
ようやくまとまった時間が取れたのは、翌日の夜になってから。
これでも弁護士がいたから早く済んだのだと思う。
事後処理はもちろん続くが、それでも夕飯をゆっくり食べられる時間ができたのはありがたい。
とはいってもコンビニのおにぎりだ。
ふたりはソファに横並びで腰をかけ、無言でそれを飲み込んでいく。
ただ咀嚼の音だけが連藤の部屋に響いている。
そんななか、先に食べ終わったのは莉子だった。
「連藤さん、本当にありがとうございます。
……まさかタクシーを使って警察呼ぶとは、すごい機転です」
「さすがにあそこで電話をかけたらまずそうだったからな。
だからメールで警察を呼べと連絡したら、ここらを巡回中だから連れてくるって言ってね。
個タクはやっぱり地元の見張り番だな」
連藤が喉を鳴らしてペットボトルのお茶を飲み干した。
そのペットボトルがテーブルに置かれたのを見てから莉子は再び口を開いた。
「……怒らないんですか?」
「何を怒るんだ?」
「わかんないけど……怒られるかなって………」
「確かに殴られたのは痛かったし、莉子さんを好きになられてたことは気にくわないけど……」
そう言いながら連藤はそっと莉子の頭を抱え込んだ。
優しく髪をなでながら、
「そうやって泣くのは反則だよ、莉子さん」
口をしっかりと結び、見えないだろうからと声をこらえて隠して泣いていたつもりだったが、連藤には見えいていたようだ。優しく大きな手が莉子の頭を包み、そっと胸元に押し当ててくる。
ここで泣きなさいと言っているのだ。
小さく縮こまった莉子は連藤のシャツを握り、胸板へと頭をすり寄せた。
すする鼻の音と、涙のぼつりと落ちる音が聞こえてくる。
「…ごわかっだ……」
莉子のその声に連藤は吹き出しそうになるが、ぐっと堪えて背をさする。
「……でも、ガフェ、やめないがら……」
一瞬連藤の手が止まった。
そう、連藤が思ったこと、だ。
こんなことがあるならやめたほうがいいと思ったのだ。
タイミングを見て告げようと思った言葉を莉子が声に出していうのだから、しかも否定をするのだから、これは見守るしかない。
「……わかったよ」
連藤がそれだけ答えると、莉子は無言でうなづいて、再び胸へと顔を埋めた。
少し落ち着いたのか、静かな呼吸が続いている。
子どもをあやすように、とんとん背中を叩きながら、連藤は思案する。
もうそろそろバイトを入れる時期ではないかと。





