竹千代誘拐
三人称視点です。
三河国の東部、渥美半島において、三河湾を臨む位置に老津浜はある。
そこに、八隻の関船が泊まっていた。
松平家宗家の嫡男、竹千代を駿河へと送るための船だ。
今川家から護送を命じられた、田原戸田家が万が一があってはいけない、と護衛と囮のために用意した護送船団だった。
このうち一隻だけに、竹千代と彼の小姓が乗る事になる。
「では大蔵殿、行って参ります」
「若様、駿河は良き所にございます。松平家宗家の跡取りとして、しっかりと職責を果たされますよう」
年若い武士の一団の中にあって、一際幼く、背が低い少年が、見送りに来た岡崎松平家家臣団に、堂々とした態度で別れの言葉を口にする。
代表して、阿部定吉が深く頭を下げて応じた。
「其の方らも、竹千代様のお世話、しかと果たすのだぞ? 駿府では太原雪斎殿が手ずから養育してくださると言うから、しっかりと学んで来い」
「「「はは!」」」
定吉が竹千代の周囲の若武者にも声をかけ、彼らも力強く応じる。
彼らは元々竹千代の近習として育てられていた小姓と、これを機会に駿河で養育させるために選抜した元服前の少年達だ。
多くは、松平家宗家の譜代家臣の子供であるが、中には、先年までの戦で親を失い、親類縁者に保護されていた者も居る。
「庄左衛門、みなを頼むぞ」
「阿部様、お任せください」
少年たちの中にあって、一人既に元服している者が居た。
小姓達の取り纏め役として抜擢された、本多光俊だ。
とは言え、彼もまだ13歳の若輩者に過ぎない。
「大蔵殿、道中はこの野々山元政が責任を持ってお守りいたします。ご安心めされよ」
「うむ、よろしく頼みますぞ、藤兵衛殿」
船に同乗する一団の中から、一人の若武者が進み出て、定吉に頭を下げる。
戸田家家老、野々山政兼の一門に連なる若者であるため、彼が竹千代を護送する事に、松平家側からも今川家側からも異論は出なかった。
そして松平家、戸田家、そして今川家の一団が見守る中、竹千代達を乗せた船を含めた船団が老津の浜から出航する。
船は波の動きに合わせながら、ゆっくりと三河湾内を周回する。
既に浜からは小さな点くらいにしか見えなくなっており、その状態で更に、船ごとの位置を入れ替えるように動き、仮に追いかけて来る者が居ても、どの船に竹千代が乗っているかわからないようにしていた。
一隻の船が三河湾を西へと進み、二隻の船が三河湾を出て、知多半島を西周りに北上を始めた。
そして残りの船が、三河湾を出たのち、東へと向かったのだった。
「よく参られた、野々山殿、そして、竹千代様に、護衛の方々。まずはゆっくりと船旅の疲れを癒されよ」
およそ二日をかけて竹千代達を乗せた船は、とある港に到着した。
彼らを出迎えたのは、神職の恰好をした青年と、五百人もの武装した者達だった。
「お初お目にかかります。某は祖父江五郎右衛門秀重と申します。以後お見知りおきを」
「出迎え感謝いたします、五郎右衛門殿。港に着いた二隻の船のうち、一隻は渥美に戻しますが、一隻は中の積荷ごと、津島神社に献上させていただきます」
「ありがとうございます。後程人を遣わせましょう」
「野々山殿、これは一体どういう事でしょうか? 私達は駿河へ向かっていたはず。津島と言えば尾張国。真逆の方向ではないですか?」
「その通りです。竹千代様。しかし、間違えた訳ではございません。元々、津島が目的地でしたので」
言って笑う元政に反応し、小姓達が竹千代をその背に庇いながら、囲むように動いた。刀を抜き、元政と秀重を睨む。
しかし、秀重が指示を出すと、武装した者達が、その小姓達を囲んだ。
「若、我々から離れませんよう……」
「落ち着きなさい、庄左衛門。野々山殿、我々の目的地が最初から津島であったと?」
「その通りです」
「裏切ったのは野々山殿ですか? それとも、田原戸田家ですか?」
「どちらも正解ですが、それだけでは足りません」
この状況でも落ち着いている竹千代の胆力に感心しながらも、元政はその頭の良さにも驚いていた。
「では、父上ですか? 家臣ですか?」
竹千代の言葉に、元政だけでなく、彼を囲む小姓達も驚いたような表情を浮かべた。
両者は、驚愕の内容こそ違うが、どちらも竹千代の一挙手一投足から目を離せなくなっていた点では同じだった。
「阿部大蔵定吉殿を除く、全ての松平家です」
「そうですか。それでは仕方ありませんね。それで、私達はどこへ向かうのでしょう? 西へ向かうならば船から下ろす必要はありませんでしたよね? 東ですか?」
「え、ええ、勿論」
元政は竹千代の言葉の意味するところを気付いていなかったが、津島牛頭天王社の神官でもある秀重は、竹千代の言葉の真意に気付いた。
西とは単純に方向の話ではない。
仏教用語において、西とは天竺を指す。つまり、あの世だ。
自分達を殺すつもりなら船から下ろす必要は無かった。だから生きたままどこかへ連れていかれるのだろう、と竹千代は看破したのだ。
「津島を支配しているのは織田弾正忠家でしたね。そちらでしょうか?」
「その通りですが、竹千代様が弾正忠殿にお会いする事はないでしょうね。しばらくは、熱田にて隠棲していただきます」
「わかりました。その代わり、彼らには」
「勿論、大人しくしていていただける限り、手を出しませんとも」
「それでは、竹千代様、お連れの皆さま。宿をご用意しておりますので、参りましょうか」
そして竹千代達は津島に一泊したのち、五百の兵に囲まれて、熱田へと送られた。
そして熱田神宮の東を流れる、精進川の南東、羽城を支配する、熱田の地侍、加藤順盛の屋敷にて囚われる事となった。
竹千代が熱田に入ったのを受け、信秀は広忠に弾正忠家に臣従するよう書状を送る。
「山田殿、弾正忠家から書状が届いた」
「なんですと!?」
岡崎城の評定の間に、広忠は重臣達と、今川との使い番である山田景隆を集め、わざと景隆に書状を見せた。
「だが、我ら松平家は、今川に大恩ある身。例え我が子を犠牲にしたとて、これに背く事は有り得ぬ」
「おお、松平家の忠誠を、我が殿は頼もしく思うでしょう」
「しかし、弾正忠家が噂を流しているのか、領内に既に竹千代が囚われているという話は伝わっている。あれの安否を気遣う民は多い」
「成る程、噂が落ち着くまでは岡崎松平は動く事が難しいですね」
勿論、その噂を流したのは松平家だ。
「その点も含めて、駿河に報告しましょう。まずは田原戸田への仕置きになると思いますが……」
「ええ、よろしくお願いいたします」
その後、岩略寺城を中心に、東三河の戦力が集められ、田原城への攻撃が始まる。
城主の戸田康光は弾正忠家に援軍を要請。
そして弾正忠家から、安祥家へと出陣の命令が下されるのだった。
竹千代に同行した若者たちは一応設定があるので、いずれきちんと紹介したいと思います。
野々山元政は、戸田家家老野々山一族とは血縁ではない、とはっきりと資料に書かれているのですが、野々山家当主政兼の死後、突然彼が二代目に入っています。元政の息子達には兼の通字が入っているので、三河野々山家の血筋が絶えた訳ではなく、養子になったなどの資料も無く、本当にどこからともなく元政が現れます。拙作ではわかりやすく、野々山家の一門としています。ご了承ください。




