吉良と今川と深溝松平
三人称視点です。
「夜襲を仕掛ける」
矢作川付近に作られた陣地で、富永忠元はそう宣言した。
「待て、伴五郎、作戦は順調、計画通りに進んでいる。ここで無理をする必要はない」
忠元を止めたのは、彼の叔父である、富永孫太夫資広だった。忠元が幼い頃に父が討死したため、以後、この資広が忠元の後見として養育してきた。
父に似て、才気溢れる若武者に成長した、と資広は思っている。
だからこそ、ここで失うのは惜しい。
忠元の才覚なら、西条吉良家が滅亡しても、他の家に仕える事ができるだろう。
勿論、そんな事を口にすれば、名門吉良家の家臣である事に誇りを持っている忠元の気分を害してしまうだろう事もわかっていたが。
「叔父上、順調だからこそ、ここで念押しをしておくべきです。我らが夜襲を行えば、今川の援軍を待っているなどとは思わないでしょう」
「それはそうかも知れぬが、危険だ。安祥長広の守る拠点は鉄壁だという話だぞ」
「一当てする程度ですよ。あくまで我らが攻勢にあると知らしめるための夜襲です。無理をするつもりは毛頭ありません」
「だがな……」
「兵の選別は既に済んでおります。精鋭百名を率いて、安祥軍の安眠を妨害して参ります」
あくまで軽い調子で言う忠元に、悲壮感などは感じられなかった。
だからこそ、その奥にある覚悟を、資広は感じ取ってしまう。
「其方に何かあれば、兄上に合わせる顔が無い。夜襲ならば儂が行こう」
「いいえ。これは富永隊大将たる私の役目です。叔父上には、万が一の時に兵を纏めて牟呂城へ帰っていただかねば」
「城主は其方であろうが」
「父が亡くなったので家督を継がざるを得なかった若輩者に過ぎませぬ。西条吉良家にとっても、富永家にとっても、大事なのは叔父上の方ですよ」
「伴五郎……」
「そのような顔をなさいますな。先にも申した通り、無理をするつもりはございませぬ。夜襲に気付かれたら、槍を合わせずとも帰って来ますよ」
「約束だぞ?」
「勿論でございます」
この時の忠元に、二心は無かった。
本当に、今川の援軍が到着するまでの時間稼ぎをしている事を悟らせないために、夜襲を仕掛けるフリをするだけのつもりだった。
目の前に、父の仇の旗が現れるまでは。
「殿、安祥軍に気付かれたようでございます。陣地を守備する者達とは別に、こちらの正面に新たな部隊が出現した模様……」
暗に撤退を進言するその家臣は、忠元がただならぬ様子である事に気付いた。
「殿……?」
目の前の部隊を率いる将が、夜襲に気付いた事を告げて来る。
更に、部隊員が大声を上げる。
敢えてこちらを見逃してくれると言っている。
安祥長広、慎重な男だ。
奇襲でなくなった少数での夜襲。
相手は万全の態勢で待ち構えている。ここで突撃するのはただの馬鹿だ。
ここは素直に陣地に戻るのが正しい。
叔父と約束した通りに、無理をせずに撤退するべきだ。
だが……。
「目の前に居るのは荒川義弘だ」
「かの謀反人ですな。いずれ大殿の仇を討ちましょう」
「いずれとはいつだ?」
「殿?」
「儂が戦場に出て、前線に配置され、その目の前に荒川義弘が居る戦が、この先再びあると思うか?」
「それは……」
「今こそ千載一遇の好機! 父と主君、持広の無念、晴らすべきは今だ!」
「殿、しかし……」
「安心せい。荒川義弘に一当てするだけだ。それで討てれば御の字。討てずとも、奴めの肝胆寒からしむだけでも十分である」
忠元のその言葉を聞き、家臣は内心で安堵する。
自分の主君が、仇敵を前にしても冷静であったからだ。
冷静でありながら、仇を討たんと熱く滾っている。
「ならば、不忠者義弘に、目にもの見せてやりましょう!」
忠元が率いているのは富永に仕える精鋭達。今は忠元について西条吉良家に仕えているが、かつては東条吉良家に仕えていた者も居る。
だからこそ、義弘に対して怒りや憎しみを覚えているのは、忠元だけではなかった。
忠元隊が前進を再開する。
真正面から当たる事はせず、相手に狙いをつけられないよう、右に左に部隊を不規則に動かし、長い時間をかけて、荒川隊へと接近する。
忠元の卓越した指揮能力と、それに応えるよく鍛錬された兵が合わさって、初めて可能になる用兵だった。
荒川隊から射撃があったが、縦横無尽に動き回る少勢に、この暗闇で矢を当てる事は難しい。
殆ど被害らしい被害を受けずに、忠元隊は荒川隊に最接近を果たす。
これなら一当てと言わず、義弘を討ち取れるのではないか?
忠元がそんな色気を出した時、部隊の周囲で爆発が起こった。
「な、なにごとだ!?」
「伏兵です! 荒川隊の周囲に潜んでいた模様!」
「……!! 安祥の焙烙玉部隊か!」
三河での安祥家の戦は情報として得ていた。すぐに忠元はその正体に思い当たる。
「罠か! 義弘を餌に我らを引き込んで、殲滅を狙ったか! 安祥長広、強かな男よ!」
「殿、混乱はそれほど多くありません。再突入は可能です!」
「ならん! 相手は儂が、仇を目の前にして、黙って退けぬ事まで読み切って策を立てて来た! 義弘に拘れば間違いなく全滅する! 撤退するぞ!」
忠元はそう宣言すると、すぐさまその場から離れ始める。
「撤退だ! 夜襲は失敗! 撤退する!!」
家臣もそう叫んで周知しながら、忠元に続く。
「相手が一枚上手であった。口惜しいが、義弘の首を獲るのは、今川が来てからにしよう!」
「ご立派です、殿」
「その時は、今川に義弘の首を持って行かれぬよう、励まねばならんぞ?」
「勿論ですとも!」
そして忠元たちは追撃こそ受けなかったが、碌な成果も挙げられずに、陣地へと逃げ戻る事となった。
「援軍が出せないとはどういう事ですか!?」
東条城より北東に一里半(約6キロ)の距離に、深溝松平の居城である、深溝城はあった。
その深溝城の評定の間で、城主、松平又八郎好景が一人の武士に詰め寄っていた。
上座に座っているのは好景だが、二人の間にある雰囲気は、相手の方が立場が上だと教えていた。
「出せないとは言っていませんよ。出さない、と言っているのです」
「なお悪い! 西条吉良家からの援軍要請を何故無視するのか!? いや、出さないなら出さないで、はっきりと断ればよろしい! 援軍を前提に作戦を立てているのかもしれないのですぞ!」
「不確定な要素を作戦の肝にするような者の事など知りませんな」
好景が相対しているのは今川家の家臣、天野景泰だった。
「吉良家は三河に昔から根付く名門。これが今滅びようとしているのですぞ! 今川は松平の三河統治を手伝ってくださるのではなかったのですか!?」
「松平家が三河を統治するなら、吉良家はむしろ邪魔ではないですかな?」
「安祥家の伸長に歯止めをかけねばならんという話です!」
「安祥家などは所詮、弾正忠家の分家に過ぎませぬ。その弾正忠家は尾張国内に敵も多く、美濃との関係も悪化していると聞きます。彼の家の隆盛は、砂上の楼閣と言えるでしょう」
「ならば余計に西条吉良家と連携して……」
「援軍を要請してきたのが、西条吉良家である事も問題なのですよ」
景泰の言葉に、好景は顔を顰める。
「東条吉良家は西条吉良家から独立した分家。名門と言えど格は落ちる。しかし、西条吉良家は落ちぶれたとはいえ、名門である事に変わりはない。その影響力は相当なものです」
「だからこそ、見捨てる訳には……」
「だからこそ、見捨てるのですよ」
好景の反論を遮り、景泰が言った。
その衝撃的な内容に、好景の頭と顔が白くなる。
「松平家が三河を統治するにあたり、吉良家の存在は邪魔でしかない。しかし、力づくで排除するには、その名前は大き過ぎる」
「まさか、安祥家に西条吉良家を滅ぼさせるつもりなのですか……!?」
好景の言葉に返事はなかったが、無言で笑う景泰が、答えだった。
「し、しかし、それで今川の力を借りて三河を統治したと言っても、果たしてそれは、松平家による三河支配と言えるのですか?」
「というと?」
好景は説得の方向性を変える事にした。
「結局、今川の下で、松平の統治が許されているだけなのでは? それでは、吉良でも安祥でも変わりませんよ」
「吉良はともかく、安祥とは違うでしょう。それに、松平家が今川の下につく事になんの問題があるのです?」
「なんのって……」
「そもそも各地の戦国大名は、その上に将軍家を頂き、土地を支配しているに過ぎませぬ。松平が今川の助力なしで三河統一を成し遂げたとしても、その上には将軍家がありますぞ? それは問題にはしないのですか?」
「将軍家と他の家は……」
言って、好景はある事に気付く。
「御所が絶えなば吉良が継ぎ、吉良が絶えなば今川が継ぐ。京から追放されるような足利家は、最早将軍としての権威を有さず、吉良家の凋落は言うに及ばず。ならば、将軍職を継ぐのは、今川しかおりませんな」
足利家に代わって、全ての武家の上に今川が立つ。
他の家なら、それは許されざる暴挙であると言えるだろう。
だが、元々足利家に代わって、天下を統べる事を期待されている今川家ならば。
「足利家の代わりに、将軍として治部大輔様を仰ぐだけの事。一体なんの問題があるのです?」
「…………」
言いたい事はあった。しかし、その反論は意味がないだろう事が、好景にはわかっていた。
皮肉や屁理屈ではない。
天野景泰は、本気で今川が足利に代わって将軍職に就く事を、当たり前だと思っている。
そしてそれは、今川家の総意であるのだろう。
それがわかっているから、好景は何も言えなかった。
「くれぐれも、勝手に出陣などなされぬよう。松平家による三河統一の足を引っ張るような分家は、今川としても見過ごせませぬからな」
言って、景泰は立ち上がると、そのまま評定の間を後にした。
残された好景は、拳を握りしめて、歯を食い縛る事しかできなかった。
「殿、ご辛抱を。今は耐える時期でございます」
そんな好景を見て、家臣の本多広孝がそう窘める。松平家宗家当主、松平広忠の乳兄弟である彼の言葉だからこそ、説得力があった。
安祥長広を倒すために、広忠は今川家に臣従する道を選んだ。
ならば、分家の自分が、その覚悟を踏みにじる訳にはいかない。
今川の他家に対するスタンスは拙作のオリジナル設定です。
とは言え、信長でさえ、あくまで畿内の流通を掌握したかっただけ、と言われる昨今、地方の王を目指していた他の戦国大名の中で、今川だけは、本気で上洛して幕府の実権を握ろうとしていたとは思います。理由としては、作中で何度も出ている「御所が絶えなば~」ですね。
勿論、東海道の王を目指していて、その後の予定は未定、だった可能性もある訳ですが。
あ、既に畿内やその近くで政権の奪い合いをしている奴らは別ですよ。




