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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第四章:安城の新たなる歴史【天文十四年(1545年)~天文十五年(1546年)】
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三河動乱

三人称視点です


安祥家の分立より遡ることおよそ半年。

天文14年7月下旬、今川家はかねてより北条家と争っていた、駿河東部、河東一帯を奪還すべく進軍を開始した。

北条家当主、北条氏康自らが兵を率いて出陣し、ここに第二次河東一乱が開始された。


開戦して暫くは、北条家が優勢に戦を進めていたが、同年8月下旬、状況は一変する。


北条家による関東支配に抵抗する関東諸将は、関東管領、上杉憲政の山内上杉家と北条家に滅亡寸前にまで追い込まれていた扇谷上杉家、そして、一時は北条家に接触していた古河公方、足利晴氏を中心に、対北条連合を形成。

かつての扇谷上杉家の河越城へと総勢8万の大軍勢で押し寄せたのだ。

この時、連合に参加していなかった関東の大名は、下総の千葉家くらいであり、北条家の滅亡は時間の問題と思われていた。


氏康はまず数の少ない今川軍を撃退し、のちに関東連合にあたろうと考えていた。

しかし10月下旬、今川の同盟相手である武田家が、今川の援軍に現れたことで北条家は窮地に立たされてしまう。


今川の攻勢が緩かったのは、これを待っていたからだと理解した氏康は、決断を迫られる。

今川と和睦し関東連合にあたるか、関東連合を放置し、このまま今川を撃退するか。


氏康の決定は今川との和睦。およそ十年守り続けた河東の地を今川家に返還するという屈辱的な内容であったが、氏康はこの条件を受け入れた。

河越城を奪われることは、関東支配の重要な拠点を失うだけでなく、本拠地、相模までも危険に晒されるからであった。


こうして義元は、悲願であった河東の奪還に成功したのだ。


「ようやく坂東の蛮族から我が領地を奪い返す事ができたわ」


「おめでとうございます」


駿河の今川館で、今川義元は上機嫌だった。

太原雪斎も、素直に祝いの言葉を口にする。


「三河の方はどうだ?」


「安祥織田では税を免除することで、急速に復興を果たしております。岡崎城周辺はいまだに混乱の途上にありますな」


三河、特に松平との外交を任されている、天野景泰が答えた。


「こういうところで当主としての手腕に差が出るの」


「まことに」


「それと、家臣の牧野保成より、今橋奪還の要請が出ております」


「確かあの者は、三河国宝飯郡にある、牛久保城城主、牧野成種の息子でしたな」


「牛久保牧野は、一色氏から三河の守護代を任されている、牧野氏の分家でしたな。宗家の牧野家は渥美の戸田氏に滅ぼされて途絶えております」


景泰の報告に、雪斎をはじめ、家臣たちが注釈を入れる。


「渥美の戸田は、一色氏と三河の守護を争っていた、細川氏の守護代。渥美郡の北端の今橋城を巡って対立を続けておりましたが、仲良く松平清康に支配されておりました。清康が横死したことで、今橋城城代を任されていた松平家臣も岡崎城へ撤退。早くに松平家に臣従していた、牧野宗家の一族、牧野成敏が今橋城に入りましたが……」


「長い」


「……すぐに終わります。田原戸田の一族、戸田宣成がこの成敏を追放し、現在今橋城を支配しております」


「田原戸田の分家、二連木戸田は今川家に臣従しておりますが、田原戸田は、渥美全域のみならず、知多にも影響を持っており、現当主、戸田康光は三河支配の野望を見せております」


「上役の細川氏が、今中央で忙しいですからな。鬼の居ぬ間に、という事なのでしょう」


「ふむ……雪斎、駿河の兵を動かすことは可能か?」


「難しくあります。奪還したとは言え、十年間北条家の支配下に置かれておりましたので、河東の統治を安定させるには時間がかかります故」


「では遠江の者を使うとしよう。景泰」


「はは!」


「その牧野某に了承の旨を伝えよ。其方は兵を率いて三河に向かい、豊川を越えた辺りに城を築け。その城を拠点に戸田を圧迫せよ」


「はは!」


勿論、義元は牧野家の旧領を回復させて終わらせるつもりはなかった。

豊川の西側に拠点となる城を築くという事は、東三河から西三河にかけて、広範囲に影響を及ぼすことができるという事でもあった。




天文15年4月。

北条氏康が後に言う河越夜戦にて、連合軍を打ち破った頃、天野景泰は、一族の天野景連、遠江、引馬城城主、飯尾乗連らをはじめとした、遠江の領主、豪族を連れて三河へと入った。

豊川を越え、西に二里半(約10キロ)、三河湾より北に一里(約4キロ)の位置に城の普請を命じた。


岩略寺城と名付けられたこの城が完成するまでの間、景泰と今川家臣達は、近くの長沢城に入った。

この長沢城は、十八松平家の一つ、長沢松平の居城であったが、現当主松平政忠は、清康横死後、今川に臣従しており、彼らを受け入れた。


およそ一月後、完成こそまだだが、兵を入れられる程度にはなった岩略寺城に移り、景泰は自身は普請奉行として残り、景連を総大将に任じ、今橋城攻撃を命じた。


景連は四千の兵を率い、豊川を越え、今橋城の西側から攻め寄せた。

今橋城は北を豊川に守られた堅城だったが、そもそも東の二連木城に対抗して築かれた城であり、西側には同族の領地があった事もあって、西からの攻撃には弱かった。


城主の戸田宣成は反抗するが、援軍を期待していた二連木城の戸田宣光は今川に臣従しており、田原城の戸田康光にも根回しがなされていたため、抵抗虚しく城を落とされ、宣成は討死してしまった。


景連は義元直臣の伊東元実を城代として入れ、自らは建築途中の岩略寺城へと戻った。

この後、今橋城は義元により、吉田城へと改名される。長く牧野、戸田の係争地となっており、『いまはし』が『いまわし=忌まわし』に通じる事から、縁起が悪いと思われたためだ。


更に一月の後、岩略寺城が完成すると、景泰は自らが入り、景連達は兵を率いて岡崎城へと向かった。


天野景連、飯尾乗連、連龍親子、二俣持長、山田景隆、粕谷善兵衛、三浦義保が岡崎城にて広忠と謁見していた。

広忠こそ上座に座っているが、今川方の武将たちは、明らかに松平家を見下すような態度を取っていた。

当然、居並ぶ松平宗家の家臣達も、面白くない。


「これより我らは岩略寺城を拠点として、松平家による三河統治の手伝いをさせていただく」


勿論、広忠はじめ、松平家の中に、景連の言葉をそのまま受け取る者はいない。


「この岡崎城には使い番として、この山田新右衛門景隆を置かせていただくが、よろしいか?」


「うむ、お願い申し上げる」


よろしいか? などと聞いているが、決定事項なのは広忠にもわかっている。

断ればどうなるか、火を見るより明らかだ。

使い番、岡崎城と岩略寺城の連絡係であるが、恐らくは岡崎城の監視係。特に軍監としての役割が強いだろう。


「では、これからよろしくお頼み申す。くれぐれも、宗家二代当主、良祥院殿様が賜った、三河守の名を汚さぬよう、お願い申し上げる」


ともすれば不敬な物言いであったが、今の松平家にこれを咎める力はなかった。

今川との訣別を覚悟すれば、当然それは可能であるのだが、今川に従わないならば、今川に滅ぼされるか、あるいは安祥に飲み込まれるかしか道がない。


「今は、耐える時期だ……」


自室で広忠は一人、拳を握りしめてそう零した。


岩略寺城は天野景泰の普請ではありません。ただ、築城時期や築城した者、更に城主などが不明だそうです。

この時期に景泰が三河で築城の普請奉行になっている資料がありましたが、城の名前が記されていなかったため、この二つを合わせることにしました。ご了承ください。

ただ、城の縄張りを見ると、南東に対して備えているようなので、対今川用の城の可能性が高い気がします。位置的にその先には今回の今橋城があるので、そういう設定にしてあります。ご了承ください。


この後に起きる、田原戸田の騒動のために、この辺りの事を詳しく調べていると、応仁の乱より以前にまで遡って、牧野氏と戸田氏が争っており、そこに松平、一色、細川、今川が絡んで来て、関係性を整理しようとするとかなり悩ましい事になっていました。そもそも牧野氏は、このあと衰退していくせいか、この時期以前の資料が極端に少ないようで、資料ごとに内容も違っており、全部採用しようとすると、この前後二十年くらいに、牛久保城主が七人くらい存在してしまいます(特に討死などの記載もなし)。

歴史は複雑怪奇ですね。

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― 新着の感想 ―
いやそもそも天野景泰が岩略寺城を築いた訳じゃない。 岩略寺城は関口氏が築き、長沢松平氏が攻めて有し、という流れ。 だから作品中の記述はフィクション。 後書きは現実の史跡に見られる縄張り状況からの推測。
後書きで岩略寺城について「城の縄張りを見ると、南東に対して備えているようなので、対今川用の城の可能性が高い気がします。」とありますが、今川方の天野景泰が「対今川用の城」を築く意味が分かりません。今橋城…
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