報告と報奨
さて、第二次安城合戦の途中、俺が緒川城の救援に赴かなければならなかった理由を覚えているだろうか?
厳密に言えば、水野家と同盟関係にあるのは弾正忠家であるから、援軍要請はまず弾正忠家に行く。
そこから、家臣格の俺に命令が来る、というのが通常の手順だ。
とは言え、同盟相手を蔑ろにしていないという証明のために、親爺が援軍を率いるのが普通だ。
親爺が率いずとも、古渡城から兵を出すだろう。
弾正忠家に余裕があれば。
俺の所に援軍の命令が来たって事は、当時の弾正忠家に余裕がなかったってことだ。
じゃあなんで余裕がなかったかってことなんだけど、斎藤家と戦ってたからなんだよな。
去年の加納口の戦いで、朝倉家と和睦するために、斎藤道三は美濃守護、土岐頼芸の甥で、頼芸と守護の座を争っていた土岐頼純を川手城に入れた。
まず道三はその川手城を攻め、頼純を越前に追い出した。
大桑城に入っていた頼芸は、これを見て、道三が本格的に美濃を獲りに来たと恐怖し、親爺に援軍を要請してしまったんだな。
美濃守護と地方の豪族でしかない同盟相手。
前者が優先されるのは仕方ないことだ。
そのため、現在の水野家当主、水野信元の妹を側室にしていた俺に援軍命令が出たわけだ。
それ自体は別に良い。
いや、タイミング的には最悪だったけど、まぁ、救援には成功したから良しとする。
問題は、親爺が道三に負けたことだ。
どうも道三は松平か今川の要請で動いていただけだったらしく、俺(の配下)が緒川城の救援に向かったという情報を聞いてすぐに親爺と和睦した。
まぁ、田植えの時期に自分の領地で戦争続けていたくないだろうからね。
この見切りの早さは流石と言えるだろう。
そして親爺はこの和睦に応じる。
敵地に攻め込んでいて、長期戦になれば斎藤家の国力を著しく落とせるチャンスであるにも関わらず、親爺は簡単に応じた。
理由も簡単。親爺が劣勢だったからだ。
結果だけ見れば引き分けだけど、親爺からすれば負けに等しいだろうな。
まぁそんなわけで、俺は機嫌最悪の時に親爺を訪ねてしまったわけだ。
古渡城に到着した俺は、そのまま親爺の自室へと通された。
てっきり評定の間で、家臣達の前で報告させられるのかと思ったけれど、部屋にいたのは親爺と親爺の家老の寺沢又八、そしてあともう一人、中年の武士がいた。
見た事あるような気がするけど、誰だっけ?
ただの家臣をこの場に同席させる訳がないと思うが。
「さて、まずは先の緒川城救援、大義であった。矢作川西岸も守り切ったそうで、まずはなにより」
「は、もったいなきお言葉」
俺が座ると、親爺から称賛の言葉がかけられたので、俺は頭を下げて礼を言う。
「しかし上和田城を奪われてしまいました!」
同時に自分の失態を告白する。指摘される前に自分で申告することで、少しでも良い印象を与えようという姑息な手段だ。
親爺に信頼されているとは言え、それでも親爺は戦国武将中の戦国武将。
ふとしたきっかけで粛清の対象になる可能性は十分にあるからな。
「うむ、まさにそれよ。新年の宴で其の方の論功行賞を行う。緒川城救援と岡崎松平の撃退を褒めそやすが、上和田失陥を責め立てる。差し引きで褒美はほぼなしだ。理由は、わかるな?」
「は。拙者の武功が大き過ぎると、嫡子相続の妨げとなるかと……」
「その通りよ」
つまりは、俺が手柄を立てることで、親爺の家臣の中で、俺を後継者に、という声が大きくなる事を防ぎたいわけだな。
それは俺も同意見。そもそも家督なんていらないのに、家臣に担がれて後継者争いに参戦、とか面倒このうえない。
せめて俺の意見を聞いて欲しいところだ。
「とは言え、それだけでは其の方の家臣が納得すまい。それに関しては極秘ではあるが、別途報酬を用意しておいた。今度安祥へ戻る際に持って帰ると良い」
「はは! ありがたく頂戴いたします!」
つまりこの会合が終わったら持って帰れ、ということだな。
論功行賞は三ヶ月以上も先。今持って帰れば、その褒美を結びつける事は難しいだろう。
「それと、其の方に宛ててこのようなものが届いておる」
言って親爺は、懐から一つの書状を取り出し、俺に差し出した。
受け取り、許可を得て、開く。
最初に俺の目に飛び込んできたのは、丸に二本の線が引かれた家紋だった。
足利二つ引両だ。
足利一門に連なる家なら使用可能なので、これだけだと家の特定はできない。
しかし、書状の最後にある、鶏の横顔のような花押。これは今川義元のものだ。
書状の内容は、安城包囲網を切り抜けた、俺への称賛。
つまりは称賛状だった。
「幾つかの茶器と刀と共に、其の方に渡すように、と今川家から届けられたものだ」
やっぱり今川家だった。
あの野郎、まだ俺の調略を狙ってるのか!?
それとも俺と弾正忠家を不仲にさせる事で内乱を誘発し、こちらの力を削ぐ計略だろうか。
どちらにしても面倒な事を……。
「……以前より、今川家から調略を受けておりました」
へたに誤魔化すよりは、正直に白状した方が良いと考え、俺はこれまでの経緯を親爺に話す。
「おそらくは、拙者が今川の甘言に一向に靡かぬため、このような回りくどい手に出たのでしょう。仮に拙者が応じなくとも、弾正忠家から切り離し、国力を低下させる狙いもあると思われます」
「ふむ、どう思う?」
俺の言葉を聞き、親爺は寺沢に話を振る。
「実際に繋がっているなら、矢作・緒川の戦いで寝返るのが最も良い時機だったでしょうからな。信用してよろしいかと」
寺沢は俺を庇ってくれた。何かしらの打算や下心があるのかもしれないが、俺はあんまり彼の事を知らないからなぁ。
素直に感謝しておこう。
「与三右衛門はどう思う?」
親爺がもう一人の武士に水を向ける。
うーん、やっぱり知らない名前だ。
「若殿からの報告を聞く限り、謀反の線は薄いかと。どちらにせよ、弾正忠家を乗っ取るというより、安祥で独立する形となるでしょうから、若殿の相続には支障ないかと」
若殿? って信長の事だよな。
これだけ信長の事に言及するって事は、こいつ信長の関係者?
まぁ、信長の初期の家臣の多くは、親爺が自分の家臣から選んでつけさせたはずだから、親爺と信長の両方に仕えている奴がいてもおかしくはないが。
「ふむ、ならば何も問題なかろう。ただし、この事は箝口令を敷く。儂の耳に入ったならば、その経路に限らず三人を処罰する故、留め置け」
「「「はは!」」」
今川から届いた茶器や刀は、今回の戦の褒美に混ぜてあるから、欲しければ持って行け、という事だった。
「……領地の経営は順調のようだな」
親爺が何かの資料を見ながら呟く。おそらく、安祥とその周辺の開発具合が書かれたものだろうな。
「開拓だけでなく、算盤、凝命酒、綿花、菜種油、石鹸、椎茸と色々と手を広げておるようだな」
「はい。特産品の開発、販売を奨励する事で、領地が潤います。そうすれば、いざ戦となった折には、その生活を守るために民が立ち上がることでしょう」
「ふむ、悪辣だの」
「矢作・緒川の戦いで万の兵を動員できたのは、その辺りに理由がありそうですな」
親爺が口元を歪めて評すると、寺沢が自身の見解を述べた。
まさにその通りだったからな。この時代にその結論を導けるのは優秀なのか、それとも、このくらいは当たり前なのか。
石鹸は前世で廃油からできる、手作り石鹸があったことは知っていたけど、その作り方自体は知らなかったんだよな。
当時は、油は生活必需品であり、貴重品だったから、そんなうろ覚えの知識で研究、開発させる余裕はなかった。
けれど、菜種油が生産されるようになって、領内の油に余裕ができたから、石鹸の開発を命じたんだ。
於大が妊娠したことで、俺の衛生に関する意識が高まっていたこともそのあと押しとなったのは間違いない。
そしてそこは流石日本の職人。
見事、植物油に植物や海藻の灰を混ぜる事で、石鹸を開発する事に成功したんだ。
ただ固形じゃなくて液体だったけどな。
俺は固形石鹸を伝えていたから、職人たちは、どうにも固まらない、と申し訳なさそうにしていた。
まぁ、前世でも液体石鹸は普通にあったから、質に問題がなければ大丈夫だろう、という事でこれを商品として売り出す事にした。
名前はそのまま液体石鹸。暗に、固形のものもあるよ、と言っている訳だ。職人達の奮起に期待だな。
更に研究を重ねると、菜種油より、トウゴマから作られる、ひまし油の方が石鹸の材料として適している事がわかった。
トウゴマ自体は古代中国から伝わっていて、主に下剤の原料として栽培されていた。
種子から油が採れる事もわかっていたが、この時代の薬というのは非常に高価であるので、どちらの価値があるかは言わずもがな。
採油用に栽培する事はほぼなかったわけだな。
ちなみにうまく固まらなかったので、色々な油で試させてみたところ、動物性油は固まりやすい事がわかった。
しかし臭い。
魚よりは獣。獣の中でも猪の油が特に石鹸の材料に適している事がわかった。
しかし臭い。
植物の香りでもつければいいのだろうが、研究中だ。
猪の脂は食用や燃料にあまり使われない部分だから、材料費がさほどかからないのがいい。
石鹸の生産量自体が少ないから、高級路線で売り出すのもありかもしれないな。
椎茸は人工栽培に成功した。
この時代の椎茸は基本的に天然ものしかないため、希少価値が高く、高級品だ。
菌なんて存在さえ知られていない時代だから、種もない椎茸を人工的に栽培する方法が確立されていなくても当たり前だよな。
俺だって椎茸の人工栽培の方法をはっきりと理解していたわけじゃない。
けれど、椎茸が菌類であるから、胞子で増殖するのだろう、と考え、椎茸が自生している倒木の、その箇所をえぐり取り、切れ目をいれた原木に詰め込む事にした。
この方法の椎茸栽培の成功確率は六割ほど。
微妙な数字ではあるけど、今まで自生していたものを採取するしかなかった事を考えると、これは十分な数字だ。
椎茸は高級品でありながら、精進料理によく使われるせいで、寺社に対する需要が高い。
人口栽培に成功した椎茸は、半分を親爺に売り、残ったうちの更に半分を寺社に販売している。
残りは領地内で消費だ。
親爺に対しては肉親割引の価格だが、寺社にはけっこうふっかけている。
それでも安定して供給される事は非常に魅力的なのか、注文が殺到する始末。
天然ものの方が養殖ものより価値が高い、という概念がまだ育っていない時代だからな。天然ものの値段に技術料を上乗せして販売しても、文句が出ないんだ。
この時代で価値を高めるなら、天然ものに付加価値をつけないといけないからな。
不毛の大地で唯一自生する奇跡の作物、だとか、高僧が独鈷でついた地面から湧き出た泉の水、とかな。
「今年の年貢を免除したそうだが、これがあってのことか」
「ええ。流石に、年貢以外で収入のあてがなくては、あのような真似はできませぬ」
備蓄は勿論だけど、いざとなれば周辺から買い集められる経済力があっての減税だ。
元々年貢米だって、全てを消費する訳じゃなく、物々交換や銭との取引に使う場合が多い。
米以外で領地の経営が成り立つなら、それに拘る必要はないんだ。
ただ、今はまだ、日ノ本全体で米が主流だから、いきなりこれを廃止しても立ち行かなくなるのは目に見えている。
信長の経済政策に期待しよう。
「来年の年貢も半分にしたのは何故だ? 民の慰撫なら今年の分だけでも十分であろう?」
「民の心情を慮っての事でございます」
「詳しく申せ」
「は。とは言え簡単な話。人間、いきなりの変化には対応しづらいものがございます。その変化が、例えば年貢が免除される、などのような良いものであれば、戸惑いつつも受け入れるでしょうが、これが、昨年は無かった年貢が徴収されるようになる、などのような悪い方向の変化では、難しいでしょう」
「それが、一昨年の状況に戻っただけでも、か?」
「はい。比較されるのは昨年の状況ですので」
全免除、半分免除、通常徴収、と段階を踏む事で、領民に納得してもらいやすくなるんだ。
親爺の言う通り、通常の状態に戻っただけだから、文句を言われるのは理不尽であるんだけどな。
そこはまぁ、納税っていうのが、そもそも納税者の善意によって支えられている事を考えれば、多少の理不尽は容認しないといけないよな。
「……なるほど、これなら大丈夫そうだな」
「ですな」
「ええ」
親爺の呟きに、寺沢と、与三右衛門が同意するように頷く。
「信広、安祥での独立を許す」
そして親爺の口から出たのは、分家確立の許可だった。
「当面は弾正忠家に従属してもらう事になるが、基本的には好きにしてよい」
ただの城主、領主だと内政にも外交にも、主家の意向が強く反映される。
中には、城主とは別に、主家から代官、あるいは奉公人が派遣されて監視されることだってある。
分家にそれが無いとは言えないが、制限は配下の頃より緩くなるのは当然だな。
勿論、主家を支えるのが分家の役割ではあるけれど、主家の敵と結んで主家と敵対した分家だって山ほどあるからな。主家としても分家確立の許可は慎重にならざるを得ない。
「織田をそのまま名乗っても構わぬが、いかがいたす?」
「そうですね、嫡流を外れ、弾正忠家の家督相続に関わらない事を示すためにも、名は改めるのが良いと思われます」
親爺はそれほど気にしていないようだったが、分家として独立するからこそ、その立場は明確にするべきだ。
「書状でも報告いたしました通り、子が産まれましたので、その者が継ぐ、良き名を考えておきます」
「それと、伊勢神宮寄進の礼として三河守を朝廷より賜っておる」
天文九年から十年にかけて、親爺は伊勢神宮遷宮のために、材木や金銭を寄進している。
銭に至っては七百貫(約七千万円)だからな。その本気振りが窺える。
その礼で三河守に任じられていたんだ。丁度、親爺の安祥城攻略の翌年だから、時期は前後するものの、三河侵攻の大義名分を手に入れていたわけだな。
更に天文十二年には朝廷に四千貫(約四億円)を献上している。
内裏修理料としての名目だけど、官位に対するお礼かもしれないな。
親爺を任官するとわかりやすい見返りがあると示した可能性がある。
「いるか?」
三河守の効力さえ得られれば、官位そのものは必要としていないんだろうな。
親爺の口調の軽さから、それが伝わってくる。
けど、今の親爺の位階って確か、従五位下だよな?
相当とは言え、三河守ってそれと同等なんですけど?
これ貰うと色々問題がないかね?
「ありがたく頂戴いたします」
しかしここは貰っておく事にした。
これから俺が領地を発展させていくなら、三河方面に伸長していく事になる。
自称でもそれなりに大義名分として効果がある官途名。それが朝廷から公式に任ぜられたものなら尚更だ。
尾張方面には手を出さない、という宣言にもなるしな。
「わかった。朝廷に報告の書状を送る故、其方もお礼の手紙を書け」
「は」
「さて、こちらからは以上であるが、其方からは何かあるか? 先の戦の褒美とは別に資金提供が必要か?」
まぁ、俺の要求って今まで基本的に金だったからな。
「この度、三河の梅坪城を攻略いたしました」
「聞き及んでおる」
「現在は同盟関係にある、桜井松平の松平清定を、今回の分家独立を期に従属させます」
「うむ、好きにいたせ」
「つきましては清定の息子である家次を、この梅坪城城主に任命させていただきたいのです」
「それは構わぬが、いいのか? それだと桜井松平家に、南北で挟まれる形になるが?」
「それ故に、同盟のままではなく、従属させる必要があるのです」
清定は目端が利くというか、利害関係に敏いところがあるから、この要求は飲むだろう。
「それはわかったが、それを何故儂に言う必要がある?」
「家次は現在、品野城城主にあります」
「ほう……」
「そう言えば、そうでしたな」
尾張国の北東部、春日井郡の東部にある品野城。ここは元々親爺の家臣が城主だったんだが、広忠の父である、松平清康の尾張侵攻によって奪われた城だ。
三河との国境付近にあるこの城は、取り戻しておきたいところだったが、国内外に不安を抱える親爺にとっては優先度が低かったようで、これまで放置されていた。
三河に対しては、俺という備えがあったのも後回しにされていた理由かもしれないな。
城主家次の親である清定が俺についたのも大きいだろう。
敵に奪われた城だったが、敵のものではなくなっていたわけだ。
「これをお返しいたします故、松平清定、および家次、そしてその家族と家臣をお許しいただけますでしょうか?」
とは言え体面は大事だ。
分家の従属になったからこそ、処罰を命じる事が可能だからな。
「よかろう」
そして親爺は二つ返事で了承してくれた。
清康の侵攻時期には、品野城の南方にある、岩崎城も奪われていて、ここには尾張の豪族であり、清康の案内人を務めた丹羽氏清が入っている。
岩崎城もいずれ奪い返さなければいけない城だからな、その近くにある品野城が労なく戻ってくるなら、清康の旧家臣を許すくらい安いもんなんだろう。
ちなみに、後に信長の家臣になる丹羽長秀とは関係ない。
あちらは桓武天皇の皇子、良岑安世の末裔である、児玉惟行を祖としているが、こちらは室町幕府の四職として重用された一色氏を祖としている。
「さしあたっては以上でございます。また何かあれば受けていただければ……」
「うむ、おって知らせよ」
俺が頭を下げると、親爺は一つ頷いた。
「分家設立の話は、吉法師の元服の後に儂から公表する。それまでは機密とする」
「はは」
こうして一先ずの会談は終わった。
しかし分家としての独立か……。また人手不足が深刻化するだろうな。
場合によっては、現在俺の下にいる家臣を親爺に返さないといけないかもしれないからな。
多分、親爺に相談すれば、家臣や領内で把握している牢人を紹介して貰えたりするだろう。
特に、家臣は監視も兼ねて嬉々として送り込んでくるはずだ。
けれど親爺は頼れない。
親爺の家臣や、尾張の牢人は、いずれ信長の家臣になるかもしれない者達なのだ。
ヘタにこちらに引き抜いて、史実と信長の動きが変わってしまってはまずい。
良い方向へ変わるならともかく、悪い方向へ変わる可能性だってある。
わかりやすく言えば、柴田勝家、丹羽長秀、前田利家といった有名どころは、有名だからこそ、信長の助けになった事もわかっているから引き抜けない。
無名は無名だからこそ、どのような活躍をしたかがわからないから、それが信長にどのような影響を及ぼすかわからないから引き抜けない。
苗字が違っているだけで、有名武将の祖父、父かもしれないからな。
特に今こちらに送られてくるとしたら、家中でもいまいち信用されていない、旧土岐家家臣の可能性が高いだろう。
例えば、親子二代で信長の側近となった『攻めの三左』とかな。
間違いなく信長から引き離したらまずい武将だし、かといって、薦められたら断れないし。
来ない可能性もあるが、来る可能性がある以上、ヘタに親爺に人材を要求するわけにはいかないんだよな。
人材は三河でコツコツ集めていこう。
服部保長に命じて、東国の方にも人材を探しに行かせているしな。
三河より東の人材なら、史実で信長に影響を与えていたとしても、間違いなく桶狭間以降の話だろうし。
それなら俺が代わりになれるからな。
最後まで信広は思い出せませんでしたが、与三右衛門は50話「緒川城救援」に少し登場した、信長付家老の一人、青山信昌です。
ちなみに、青山秀勝という信秀家臣であり、信長与力家老がおり、こちらは通称が与三左衛門。
しかも秀勝は天文13年の加納口の戦いで、信昌は16年の加納口の戦いで戦死しているという、ややこしい二人です。しかも、加納口の戦いが16年には無かった説を採用している資料だと、この二人が混同されていたりします。別の資料では、秀勝が戦死したので、信長家老の役目を信昌が継いだとしているものもありますが、信長公記などでは、所謂、吉法師四家老は信長が那古野城に入った時に同時につけられたとされているので、矛盾が出てしまいます。
拙作では、信長が那古野城城主に任ぜられた時(2歳)に四家老の一人として信昌がつけられた、という設定でいきます。秀勝は13年の加納口の戦いで討死しています。
ご了承ください。




