不運な武将、今川義元 参
三人称視点です
駿河国今川館
「負けた!? 負けたというのか!?」
矢作・緒川の戦いの顛末を聞いた今川義元は激怒した。
松平広忠の要請を受け、美濃の斎藤家に協力を要請し、南知多の豪族を動かして、三河に食い込んだ家臣を合力させた。
にも関わらず、緒川城は落ちず、広忠は撃退され、矢作川を越える事叶わなかった。
碌に連携の取れない烏合の衆だったとは言え、戦力としてはほぼ一国を相手に、一国さえ支配していない家の一門に敗北したという事だ。
これほど情けない事はない。
「それと、藤太郎殿から上和田城の処遇について書状が届いております」
唯一勝ったと言える上和田城での戦いにおいても、最後の大水で松平勢の将兵はその多くが溺死。まともに残ったのは鵜殿長持の戦力だけ。
それにしたところで、本拠地である上ノ郷城と上和田城の両方を保持できるだけの戦力はなかった。
特に上和田城は防衛拠点としての機能を完全に失ってしまっているので、矢作大橋が落ちなければ、織田の逆襲を許していた可能性さえあった。
「保治するには戦力が足らず。上和田城を拠点とするのも難しいそうで、治部大輔様に判断を仰いでおります」
中身を改めて、太原雪斎が義元に伝えた。
「上和田城は松平に返せ」
逡巡すらせず、義元は命じた。
「よろしいのですか?」
修繕が必要とは言え、上和田城の位置は、西三河を抑えるのに都合が良い。
みすみすそれを松平家に返す事を雪斎は懸念していた。
「元々あの城は広忠家臣の大久保某の城であろう? ならば元の持ち主に返すが良い」
「は……」
「勿論、無条件というわけにはいかぬ。上和田城には大久保某の子供が囚われていたのであったな?」
「ええ、藤太郎殿の書状にはそのようにありましたな」
「ならばその子供を駿河に送るよう伝えよ」
「かしこまりました」
大久保一族は広忠の父、清康の代から松平宗家に仕える重臣。広忠が大叔父、松平信定によって岡崎城を追われた際には、挙兵の準備をして対抗しようとした程の忠義の臣だ。
三河を支配するのに松平の名前が必要だったとしても、義元はそれが広忠である必要を最早感じていなかった。
だからこそ、その松平家を支える家臣を抑える方針を定めた。
これほどまでに失態を重ねた広忠が、独断で家を動かす事はできないはず。
重臣達の意見が重要視される事は明白だった。
「松平の分家もその多くが当主を失ったようだの」
矢作・緒川の戦いに参加した松平家分家は、五井松平家、深溝松平家、藤井松平家、竹谷松平家の四つで、藤井威松平家以外は大将が討死している。
このうち嫡男が元服しているのは深溝松平家のみ。他の家は年端もいかない幼子ばかりであった。
「それぞれの家に余の家臣を送って乗っ取る事は可能かの?」
「可能だとは思いますが、やめたほうがよろしいかと」
「何故だ?」
雪斎の否定に、特に気分を害した風はなく、義元は単純に疑問に思っただけのようだ。
「今川家にとっての最重要事項は河東の奪還である事が一つ」
これには義元も納得したように頷いた。
対北条の構想は、ようやっと山内上杉家が北関東諸将を抱き込んで行動を起こしたところだ。
これに呼応して動かなければならないし、生半な兵力では、氏康を小田原に釘付けにする事ができない。
少数では、武蔵で北関東連合を抑えている間に、撃退されてしまう可能性があるからだ。
西と北。どちらかに打って出れば、どちらかに押し潰されてしまう兵力でなければ、この作戦は成功しないと考えられていた。
「安祥織田をあまり追い詰めるべきではない事が一つ」
「何故じゃ?」
これには義元は疑問を口にする。
「織田信秀の嫡男がまもなく元服いたします。拙僧の予想では来年頭。遅くとも再来年には……」
「おお、そうか、そうかそうか。そうであったの!」
一瞬、雪斎の言葉の意味するところを理解できなかった義元だが、すぐに思い至って膝を打った。
「信広は嫡男ではなかったの! うつけの嫡男がいよいよ元服するか!」
「はい。そして信秀が心変わりしていなければ、その場で改めて、嫡男を後継者として指名するでしょう」
「成る程の。その時に信広が追い詰められていては、弾正忠家に叛意を抱く事は難しいであろうな!」
うつけと評判の嫡男が弾正忠家の家督を継ぐ事に不満があるなら、これを焚き付けてやれば矢作の西側で独立するかもしれない。
仮にその時は動かなかったとしても、不満の種は時間をかければかけるほど、大きく育つ。
逆に弾正忠家の方の不安を煽ってやる事もできる。
うつけの嫡男が後継者に指名されて、不満を抱くのは何も一門だけではない。
むしろ、弾正忠家の家臣こそ強い不満を抱くかもしれない。
彼らに謀反を起こさせても良いし、安祥織田家の不安を煽って、内乱を誘発させても良い。
どちらにせよ、今川が介入するのは弾正忠家の国力が低下した後でも十分間に合う。
「ならば、此度の戦、見事であったと称賛状でも送るとするかの」
義元はそのように考え、弾正忠家内に不義の種を撒く事にする。
「ほぼ三河で独立しているようなものと言っても、あくまで安祥織田は弾正忠家の家臣格の一門衆に過ぎぬ。本家を飛び越えて褒め称えるのは少々礼儀に欠けるの」
その気遣いはわざとらしかった。
扇子で隠した口元の奥に、厭らしい笑みが見える。
「弾正忠家を通して信広に届くように手配せよ。何なら、幾つか茶器や刀をつけても構わぬ」
「かしこまりました」
その奸計に心の中で感服しつつ、雪斎は頭を下げた。
年を取ると、涙脆くなっていかん、と自分を戒めながら。
義元にとっての重要度は河東>三河。
できる限り兵力を使わずに支配したいと考えているため、攻め時を間違えてしまう事もしばしば。
武田、北条、武士の本場の関東諸将がすぐ近くにいる、東国の方に注力してしまうのは仕方ないのでしょうけどね。




