宴の後始末
安祥包囲網とでもいうべき、大きな戦いが終わって一週間が経った。
安祥城の評定の間には、俺と俺の家臣の他に、周辺の村の惣代たちも集まっている。
緒川城の救援は成功し、上和田城は失ったものの、岡崎勢は撃退してみせた。
とは言え、これですべてが終わって、みんなお疲れ様でした、とはいかない。
緒川城は信元に任せておけばいいけど、上野城付近の矢作川の岸辺や、矢作大橋の近くに兵を置いて、松平、今川勢が本当に撤退したのかどうかの確認が必要だった。
領民兵を解散させた後で、秘密裏に矢作川を渡っていた敵軍に強襲されたら目も当てられないからな。
物見や歩き巫女からの報告で、とりあえず今回の戦が終わった事を確認。
それで今日、ようやっと、家臣や領民達の前で論功行賞が行えるようになった訳だ。
「この度は大義であった。みなのはたらきがなければ、上野城はおろか、安祥城までも落とされていただろう」
俺は評定の間の上座で、仰々しく領民達を労う。
惣代たちは平伏したまま、短く声を発した。
「参陣に対する報酬は勿論、奮戦に対する報奨も与える。そして、大戦により心身ともに消耗したであろう其方らの現状を慮り、今年の年貢は『無し』とする」
「はは! ……は?」
思わず、惣代たちが顔を上げて俺を見た。
家臣達には事前に話してあったから何も言わないが、渋い顔をしている。
「田植えのこの時期に働き手を連れて行ったばかりか、多くの者を死なせてしまった。怪我をした者も多い。それ故だ」
「し、しかし、よろしいのですか……?」
多少の減免は期待していたんだろうけど、流石に完全免除は予想外だったんだろう。
本当にいいの? という感情が惣代たちからは滲み出ている。
「安心せい。蓄えはあるし、年貢以外での収入もある。最悪親爺殿に泣きつけばよいだけだ」
恐らく惣代たちが懸念しているのは、年貢が無くなる事は嬉しいが、それで領地の防衛は成るのか? という点だろう。
年貢が軽くなっても、敵に攻め滅ぼされては意味がない。特に今回の戦で、彼らが自主的に多く集まったのは、松平、今川の支配を嫌ったからだからな。
「まぁ、其方らがどうしても儂に米を献上したいというなら止めはせぬ」
俺の言葉に笑いが起きた。
その程度の事なんだろう、という認識に至ったらしく、惣代たちから疑惑の表情が消える。
「それと、戦の傷はすぐには癒えぬ。よって、来年の年貢も例年の半分とする」
「よ、よろしいのですか!?」
「うむ。しっかりと計算して問題無いという結論が出ておる」
西尾義次は顔をひくつかせているけどな。
まぁ、財政難に陥るとか、開発などに回せる金が無くなる、とかじゃないから問題無い。
「簡単にではあるが、宴の用意もしてある。それぞれの村へは後日酒を送る故、今宵は楽しんでいかれよ」
「「「ははぁ!」」」
歓声にも似た声を上げながら、惣代たちは再び頭を下げたのだった。
宴には最初の方だけ参加して、俺はすぐに自室に引きこもった。
今回の戦に関する大体の始末は済んだが、まだ片付けが終わっていない案件は多い。
遺族への手紙を書くのもその一つ。
武士ならともかく、領民兵それぞれの遺族に手紙を書くという事は、この時代の習慣としては存在しない。
年金制度という、他の領地ではあり得ない制度を採用しているから、この時代ならそれだけで十分ではある。
だからこれは俺の自己満足だ。
死んで来いと命じる立場だからこそ、命令通りに死んだ人間には敬意を表する。
とは言え気が滅入る。
気が滅入るけど、やらなければならない。
この仕事を適当にこなすようになった時、俺は人として何か大切なものを失った時なんだと思う。
戦で死んだ人間全てを覚えていられる訳ではないが、その死を噛み締める事くらいはするべきだと思う。
戦死した人間を記した紙をめくる手が、ぴたりと止まる。
「玄蕃……」
そこに記されていたのは桜井新田の名前だった。
上和田城の救援に向かい、そこで命を落とした俺の家臣。
勿論、これまでの戦でも、武士階級の家臣が討死した事はある。
ただ、新田は立場で言えば侍大将だ。それほど上位の者が討死したのは初めてだし、立場的な話だけでなく、感情的にも俺に近しい相手が討死したのは初めてだった。
「…………」
悔しさ、喪失感、怒り……。様々な感情が俺の中に渦巻く。
「はぁ……」
俺は筆を置き、その場に寝転がった。
今回の戦は完全に俺の失態だ。
これまでが順調だったからと、松平家を侮った結果がこのざまだ。
緒川城の救援は成功したし、岡崎勢を撃退する事はできた。
けれど、上和田城を失ってしまった。
新田を始め、上和田城の救援に向かったウチの部隊は壊滅的な打撃を受けた。
今回の戦の犠牲は千や二千ではきかない。
勿論、相手にはそれ以上のダメージを与えている。
親田が行った水攻めにより、上和田城攻略に赴いていた松平勢はほぼ全滅したそうだ。
雨で矢作川が増水していた事もあって、想定していた以上の大水に、上和田城周辺だけでなく、上和田城そのものにも被害が出た。
今川方の鵜殿勢がそのせいで占拠後の上和田城を利用できなくなったのは、不幸中の幸いだろう。
松平は暫く動けない。
広忠の岡崎松平だけじゃない。今回、上和田城の攻略には三河内に存在している、松平家分家が幾つか参戦していたから、西三河から三河中央部の松平はその動きを制限される事だろう。
問題は今川だ。
今回参加したのは鵜殿家だけだったけど、それにしたって大した被害を受けていない。
松平の影響力が三河から薄れた事で、今川家が西進してくるのは間違いないだろう。
三河の豪族、国人領主を使っての間接的な支配ならまだなんとかなるけど、今川家本隊が出て来るとまずいな。
ただ、その今川本家が動くのには時間がかかると見ている。
だからこそ、年貢を免除してでも領民の慰撫に努めたんだ。
今回と同じ規模の戦が起きた時に、また同じような数が揃えられるように。
今川家は約9年前から北条に奪われたままの富士川以東にある河東の地を取り戻すべく色々と動いている。
関東諸将と武田家に働きかけて、北条の動きを阻害し、その間に自分達は河東へと進軍しようというんだろう。
確かここから日本三大奇襲の一つ、河越夜戦へ続くんだよな。
史実通りなら来年の九月頃までこの戦いは続く筈。ならそれまでは今川も本格的には動かないか?
いや、油断は禁物だ。それで今回やばい事になったばかりなんだから。
暫く畳の上に大の字になって寝転がっていると、障子を叩く音が聞こえた。
「誰か?」
「安楽です」
誰何の声に応えたのは、歩き巫女で編成された黒祥組の筆頭、安楽だった。
今はまだ育成が進んでいないから、歩き巫女の部隊は、その立場を利用して敵地へ入り込むくらいしできない。
陣触れが出ているか見たり、米を始めとした物資の買い集めが起きていないか確認するだけでも十分だけどな。
敵城や敵の陣地に入り込んで作戦を盗み聞きしたり、ましてや要人を暗殺する事なんてまだできないんだよな。
それが唯一できるのが安楽だ。
なんでも元々伊賀の有名な家の人間らしい。
抜け忍という概念があるかは知らないけど、伊賀やら甲賀やらっていうのは、独自の技術を持った集団な訳だから、その技術が流出するのを防ぐという意味では、許可の無い『外出』は認められていないんだろうな。
実際安楽も、この安城の地で農民として過ごしていたからな。
見つけ出して来たのは安城的栄なんだけど、あいつ本当に何者なんだろうか?
それこそ、僧侶のふりをしてる伊賀の抜け忍って言われても納得できるレベルで謎なんだよな。
「入れ」
「いえ、このままで報告させていただきます」
俺は入室を許可するが、安楽はやんわりと断った。
これは別に俺が安楽に避けられているという訳じゃない。
逆に信望され過ぎてる感じがあるんだよな。
強制的に入室させても良いけど、これまでの経緯でそれは逆効果だってわかってるから、俺はそのまま報告させる事にする。
「お望みの人物をお連れ致しました」
「まさか……!」
「はい、服部半三保長殿がお待ちです」
「すぐに行く!」
俺は書類仕事を放りだして立ち上がった。
やらなきゃならないとは言え、気が滅入る仕事には違いない。
やらないで済む理由があるなら、全力で乗っかる事も致し方あるまい。
先送りにしているだけだけどな……。
「ところで殿……」
立ち上がった俺に、障子の向こうから安楽が話しかける。
「どうした?」
任務中に仕事以外の事を安楽が話すなんてのは初めてだったので、若干声が弾んでしまった。
「その、怨霊が、人を殺す、ようなことは、そうそうあるのでしょうか……?」
尋ねる安楽の声が小さい。
先の戦いでは安楽に上和田城の偵察に行かせていた。
上和田城落城の顛末も聞いているし、その際、松平信孝が討死した流れも聞いている。
「古くは菅原道真、平将門。怨霊が祟ったという事例は多い」
「で、では……!」
「しかし総じて非業の死を遂げたり、無念のうちに討たれた者が多い。騙し討ちをされたというならともかく、戦に破れた程度では祟ったりしないのではないかな?」
「そ、そうですか……」
あからさまに安堵した様子が声に現れる。
「仮に怨霊だったとしても、恨みがある相手を討っているんだ。もう成仏している事だろう」
「な、なるほど! 流石は殿です!」
まぁ、内藤清長が一番恨んでいる相手は、間違いなく俺だ、という事は黙っておこう。
折角納得しているんだから、余計な事を言って再び怖がらせる必要は無い。
これで夜が怖くなって任務に支障が出たら困るからな。
前回の信孝が討たれた描写が作者の技量不足のせいか、安楽が混乱に乗じて討ったように見えてしまっていたようですので、ネタバラシのような事をしておきます。
???「怨霊が怖すぎて任務を放棄してさっさと帰りました」
これが真相です。




