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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第三章:安城包囲網【天文十三年(1544年)~天文十四年(1545年)】
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安城包囲網 肆

三人称視点です。


「清康の子倅も良く考えたものよ」


駿河国、今川館にて、今川義元と太原雪斎が話をしていた。

とくに軍議などの公のものではない。かつての師弟による私的な会話だ。


「そうでございますな。我らだけでなく、斎藤家まで巻き込むとなると、中々思いつくものではございませぬ」


「しかし当の広忠がお粗末では絵に描いた餅よ。と思うておったが、中々能く動員したものよな。これは子倅を侮っておったかもしれぬ。あれだけ負けを積み重ねていながら……」


「失礼ですが、広忠は負けておりませぬよ」


「うん? 上和田で散々信広に負けておるであろう?」


「負けていないのです。少なくとも、領民は負けていると思っておりませぬ」


「どういう事じゃ?」


雪斎が言葉遊びのような屁理屈をこねる事はない。義元は怪訝な表情を浮かべて尋ねた。


「上和田城の防衛に成功した信広は、上和田周辺や自領地において勝った事を宣伝します」


「であろうな」


「上和田城の防衛に成功した、今回の戦は我らの勝ちだ、と。同時に、広忠も自領地において、勝った事を宣伝するのです」


「うん?」


「上和田城を落とす事が目的ではなく、上和田城を疲弊させる事が目的だった。その目的を達成したのだから我らの勝ちだ、と」


「ああ、それならわかる。よくある手よな」


それ故に効果的だ。実際、はっきりと勝ち負けがわかる戦というのは少ない。

だから双方、勝った勝ったと触れ回り、自領地の信頼を得ようとするのだ。


有名な所では第四次川中島の戦い後の武田と上杉だ。

戦後、信濃北部は武田の支配下に置かれ、上杉の本拠地である春日山城の近くに海津城が築かれた。


信濃平定を目指す武田からすれば、この結果は勝ちだ。

しかし、武田の軍記である甲陽軍鑑にすら、「前半は上杉の勝ち、後半は武田の勝ち」と引き分けのような記述がある。

これは、上杉が帰国後に自分達の勝利を触れ回った結果だ。

しかもこの時の影響は、現代まで続いており、「第四次川中島の戦いは引き分け」という認識は今なお強く残っている。


「内情を知る我らや、信広の家臣達は広忠の敗北を知っていても、領民はそうではござらぬ。故に、広忠の求心力は未だ三河にて健在なのでございます」


「ふむ、その辺りは流石清康の子よな」


「更に言えば、信広は広忠を追い討つ事をしておりませぬ」


「余裕が無いからであろう」


「かもしれませぬが、他の思惑があるやもしれませぬ。どちらにせよ、三左衛門忠倫が奪った上和田城はともかく、信広は矢作川東岸に進出しておりませぬ」


「成る程、安祥城陥落以降、広忠の領地は減っていないという訳か」


「そのため、多少無茶な動員も可能なのでしょう」


「兵員はそうでも兵糧や軍資金はどうだ? この五年、早刈も何度か行っておろう?」


「臨済宗が東三河には多うございます。しかし、三河中央から西三河にかけては一向宗の勢力が強うございますれば」


「成る程。武士と結びつく臨済宗が、広忠を頼って矢銭の要求に応えておる訳か」


「はい。やはり未だ、三河において松平の名は相当な影響力を持っているようですな」


「ふん、所詮は清康一代限りの儚き栄光よ」


今川家は元を辿れば室町幕府の重臣。それも義元一代の話ではなく、鎌倉時代から脈々と続く名門だ。

しかも、足利家宗家を後継する立場にあった、今川家の本家筋である吉良家は幕府の衰退と共にその勢力を振るわなくなってしまった。

何もそこまで宗家に従わなくてもいいだろうに、と義元は思わなくもない。

それもあって義元は、殊更自らの血筋の良さを誇る。


「それでも今回の動員は相当な無茶をしておるだろう? 戦のあとどうするつもりだ?」


「既に岡崎松平家の領内でも不満が溜まっているようですな。重税に何度も戦に駆り出されておりますれば……」


「それでよく逃げ出さんな」


逃散はこの時代の百姓一揆としては主流とも言える行いだ。

重税などからの解放を願って民が村を捨てて山へと逃げる。

しかしただ逃げるだけではない。領主から減税や軍役の減免などの譲歩を引き出すための交渉術なのだ。

勿論、山に逃げる民達も命懸けだ。

逃散の後、彼らは自分の村にちゃんと戻る。


「矛先を矢作川西岸に向けておるようですよ?」


「ほう……」


雪斎の言葉に、義元の唇が妖しく歪む。


「素っ破を用い、民らに情報を操作しておるようですな。自分達が貧しいのは矢作川の西岸に富を奪われているからだ、と」


「同じ国でも川を隔てるともう別世界だからの」


昔から勢力の境目や国境として機能する川。それは様々なものを遮る壁となる。


「矢作大橋ができたのも最近ですからな。安祥城周辺の状況も碌に伝わっておらんのでしょう」


「それで今回の大動員か。安祥城を奪う事ができれば、今までの苦労は全て報われるとでも煽ったのか」


義元の言葉に、雪斎は無言で頷いた。


「しかしそれでは、負けた場合は暫く身動き取れんであろうな」


「攻め込みますか?」


「いや、まずは東三河と三河南部の国人衆の切り取りから始めよう。今は余に従っていても、まだまだ面従腹背の域を出ぬ」


しかし松平家宗家の求心力が最底辺まで低下した後なら、彼らは簡単に従うようになるだろう。


「広忠には最早価値が無いが、松平の名にはまだまだ利用価値がある。せいぜい、三河支配の手助けをしてもらうとしよう」


にやりと笑った義元に、雪斎も僅かに口元を綻ばせて頷いた。


「それにしても関東管領殿も妙な時期に動かれたものだ。それさえなければ、余が直々に信秀の倅の実力を確かめてやったものを」


「扇谷上杉家が滅ぼされかねませんからな。致し方ないかと」


未だに北条の支配下にある東駿河の河東一帯。これを取り戻す事こそが、今の今川家の最優先事項であった。

そのために関東管領、上杉憲政を支援し、関東諸将を動かす事で、北条の動きを抑制していた。

その上杉憲政が、今川家に北条へ攻撃するよう要請したのだ。


「かつての仇敵とは言え、北条に対抗するためには必要な相手という事か」


落ちぶれても関東管領。北条に傾いていた古河公方を味方に引き込んだ手腕は流石と言えた。

更に、関東管領、古河公方の両威光を用いて関東諸将をまとめあげ、北条に対抗させている。


「広忠が勝っても、まともに統治できるとは思えぬ。河東を取り戻してからゆっくりと三河を獲り込んでも十分間に合うわ」


「そうですな。しかし信広が勝った場合はどうなさいます?」


「あの戦力差では無理であろう」


「万が一がございます」


雪斎は、信広にどこか異常なものを感じていた。

しかしそれが何かははっきりとはわからないため、言葉にはしない。


「信広が勝てば、広忠の求心力は地に墜ちる。しかし信広もただではすむまい。結局は矢作川東岸は暫く荒れるであろう」


「…………」


しかし雪斎は納得がいっていないようだった。


「弾正忠家で動きがあるかもしれません」


「信広が勝つとそうなると?」


「ええ。嫡男は虚けとの噂。これほどの戦果を挙げた長男を推す者も出て来るかと。それに、嫡男と信広の不仲も伝え聞いております」


「ほう、やはり信広も今の立場は不満と見えるの」


「嫡男の方も危機を感じておるのでしょう。信広を暗殺しようとしたとか、信広と嫡男の家臣団が揉めた事もあるそうで」


「後者はともかく、前者はただの噂であろう」


「そうでしょうな。しかし、そのような噂が流れるくらいには、二人の仲は良くないと見るべきです」


「ふむ、それなら信広を支援して弾正忠家を継がせても面白いかもしれんな」


「あるいは家督争いを煽り、三河で独立させてもよろしいかと」


「そうよな、三河の支配は苦労するであろうから、その手助けをしてやるのも良いな」


そうして家臣を領内に入れ、徐々に服属させていく。松平に仕掛けていた手と同じだ。

しかし雪斎の表情は渋い。


信広を手懐けるには良い手だ。しかし、あれ(・・)に構い過ぎると、逆にこちらが呑み込まれてしまうような気がしていた。

だからと言って、あまり距離を取り過ぎると、信広を取り込む事ができないかもしれない。

どちらが正しいかはわからない。

だから雪斎は、何も言えなかった。


「せいぜい三河を疲れさせて貰おうではないか。最後に笑うのはこの今川家よ」


雪斎の憂慮を他所に、義元は高らかに笑うのだった。


松平家の動員に関して、これまでにある程度描写していたと思ったのですが、どうも不足していたようなので雪斎さんに補足して貰いました。元のプロットより若干長くなりました。


前回の後書きで書いた内容ですが、書き方が悪かったようで多くの方に誤解させてしまいました。

信広の一万は、一向一揆の30万から算出したのではなく、信広の一万を出した後、これが不可能ではないという確認のために、一向一揆の30万を参考にしたのです。

実際の算出方法は、同時代、この地域で起こった戦に動員された兵数から一つの城(=領地)の動員数を設定(算出ではないのでご注意を。こういう所で、具体的な数を出すならしっかりと計算すべき、という人に呆れられるのだと思います)し、これを戦に参加する城の数だけ積み上げて、包囲網勢の戦力を出しました。

信広は、防衛戦という加算分を足しても、その戦力で果たして守り切れるのか? という数字として一万を設定しました。

「その後に」この動員が物理的に可能かどうかの確認のために、参考資料として一向一揆を持ち出したのです。


活動報告「戦国時代の文化についてあれこれ「一揆」「石高」」でも言い訳いたしておりますので、よろしければご覧ください。

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