安城包囲網 参
三人称視点です。
「服部半三保長」
「御前に」
岡崎城、松平広忠の私室にて、甲冑に身を包んだ広忠がその名を呼ぶと、一人の男が姿を現す。
そこには確かに誰も居なかった筈だ。若干、部屋の調度が影を作っていた程度。そこに潜むなど、普通は不可能だ。
「今回儂は必勝を期してこの策を用いた。そして儂の思惑通りに周囲が動いておる」
「流石と存じます」
「だが、万が一がある。万が一にも織田信広を討つ事が叶わなかった時、目標を下方修正しなければならぬ」
「素晴らしいお考えかと」
「上和田城だ。不遜にも矢作川東岸に突き出した安祥織田家の影響下にあるあの城だけは、必ず落とさねばならぬ。しかも城主の忠倫は松平一門でありながら儂を裏切った」
松平信孝もそうだが、まだ彼には、広忠による三木郷横領という理由がある。
納得はできないが、理解はできる。
酒井忠尚も矢作川の西岸に所領を持っている。安祥織田家に影響されても仕方ないと言えた。
「あの不忠者だけは必ず亡き者にしなければならぬ。そして上和田城を取り戻す事で、儂を逃がすために犠牲となった甚四郎に報いる事もできる」
「左様でございますな」
上和田畷の戦いで信広に討たれた大久保忠員は元々上和田城を居城としていた。
新年の挨拶で留守にしている間に、忠倫に城を奪われたのだ。
「半三、頼めるか?」
「我らはそのために存在しております。必ずや、良き知らせをお持ちいたしましょう」
そして再び、保長の姿は闇に消えた。
「……下衆め」
あまりにも常人とは違う雰囲気を纏う保長に対し、広忠はそう吐き捨てたのだった。
それから数日後、松平忠倫誅殺の報が岡崎城に届く。
「上和田城は城主の死亡により混乱している。これより我らは部隊を二つに分け、上野城と上和田城の双方へ向かう! 不忠者である松平忠倫は誅された! ならば、次は同じ不忠者である酒井忠尚を討つ!」
岡崎城評定の間に集められた家臣達は、皆無言でありながら、興奮した様子で広忠の言葉を聞いていた。
「上野城と上和田城を落としたなら、その勢いを駆って安祥城へと攻め込む。上和田城を攻略した部隊は、その途中にある姫城を攻撃。もう一人の不忠者である松平信孝を誅するべし!」
「桜井城の清定はいかがなされます?」
尋ねたのは鳥居忠吉だった。
「安祥城を落とした後で良い。岡崎の横領と信定の死で、桜井松平家は三河での支持を失っておる」
これは事実であった。清定が今桜井の地を治められているのは、信広の支援と、水野家との縁組によるところが大きい。
「この戦に勝ち、三河を取り戻す! 矢作川西岸を取り返す事ができれば、三河に存在する今川方の武将達も我らに従うだろう! そうなれば、今川とはこれまでのような従属ではなく、対等な関係を築く事ができよう!」
「「「おおおおお!!」」」
広忠の強い言葉に、諸将は歓喜の雄たけびを上げた。
「上和田城を攻めるのは内藤清長、内藤正成。松平利長。松平忠定。総大将に松平忠次」
松平利長は松平氏の一族の中でも特に大きな力を持つ、十八松平家の一つ、藤井松平家の当主。松平忠次は同じく十八松平家の一つ五井松平家の当主。
共に、織田信秀による安祥城攻めで敗北した過去を持つ。
松平忠定は十八松平家の一つ、深溝松平家の当主、松平好景の父親だ。忠定は深溝城を奪って分立した経緯があるので、独立性が強い。安祥織田家の影響力が矢作川東岸に及び始めていたため、今回の招集に応じたのだった。
息子を居城に残し、老体に鞭打ち、今回の戦に参加していた。
「上野城攻めは大久保忠俊、本多忠豊、本多広孝、酒井忠次、平岩親重、安藤基能、高力重正、米津常春、杉浦吉貞、杉浦時勝、土屋惣兵衛。そして総大将は儂だ」
今回の戦に際して、これまでは自領に引きこもっていた松平家一門、あるいは松平家家臣も召集を受けていた。
岡崎城だけでなく、彼ら自身も兵を率いてきているので、その総数は八千にも及んでいる。
「それぞれ四千の兵を率い、上野城と上和田城を攻め寄せる。特に上和田城攻略部隊は、今川方の将兵に負けぬ槍働きを期待する!」
「お任せください!」
力強く応えたのは内藤清長だった。
「阿部定吉と鳥居忠吉は留守居だ。儂らの留守に岡崎を狙う、三河の国人がおるやもしれぬ。決して油断するなよ」
「お任せを」
「殿、ご武運をお祈りいたしております!」
忠吉が静かに頭を下げ、定吉が声を震わせて応えた。広忠の成長ぶりに感極まってしまったのだ。
「松平家と近しい座や寺社から矢銭や物資の提供も受けている。この戦、最早負ける要素は見当たらぬ。其の方らの奮戦に期待する!」
「「「「おおおおおお!!」」」」
そして岡崎城に、男達の鬨の声が轟いた。
広忠出陣。
三河全土の松平家一門、あるいは恩顧の武将を掻き集め、上野城と上和田城へと迫ります。
勿論、それで終わりではなく、最終的な狙いは本人の言葉通り安祥城ですね。
以下、感想などで多くいただいた「石高」と「兵員数」に関する解説を。
活動報告にもコピペしておきます。
石高から動員兵数を計算する方法はありますが、これは勘違いしてはいけないのが、絶対的なものではなく、あくまでそれぞれの組織に関しての動員数でしかないという事を覚えておいてください。
豊臣秀吉は家臣達に、「百石につき五人」の軍役を課しました。では百石の領地を持つ武将は兵を五人しか出せないか? と言ったらそんな事はありません。これはあくまで、有事の際に効率良く兵を集めるためのシステムに過ぎません。これを定めておくことで、混乱する事無く、素早い動員が可能になります。
また、このシステムがあれば、誰と誰に出陣を命じれば、どれだけの兵が用意できるかの計算ができますので、戦の準備がしやすくなります。
今川義元の寄り親寄り子制度、北条氏康の「七貫の土地に兵一人」もこれと同じような制度です。今川、北条が安定して強かったのは、こうしてシステマチックされた動員システムがあったからでしょう。そんな両家も、局地戦では割と負けています。これは、他の家、組織はこのような効率化されたシステムを持っていなかったため、戦となれば、とりあえず領地から兵を集めて来るだけだったため、彼らの予想を超えて兵が集まる事もあったためです(武将の優劣などもあったでしょうが)。
石高を基に計算する方法で算出された兵員数と、その土地に存在する戦闘可能な人口の数は=ではないため、計算以上の兵力を集める事は十分に可能です。
そもそも、毎回限界まで動員させてしまっては、連続した軍事行動がとれなくなり、逆に効率が落ちてしまうでしょう。家臣の離反や領民の反乱も起きてしまうかもしれません。
なので、この手の計算式でわかる数は、その土地の限界動員数より相当低く設定されている事が多いです。
では、その土地における限界動員数はどのように知れば良いのでしょう?
少なくとも、作者の持つ資料の中に、これを記したものはありませんし、はっきりとした計算方法も存在しません。しかし、推測する事はできます。
基になるのは一向一揆です。
彼らはどこからともなく人を連れて来て一揆に参加させる訳ではありません。基本は「その土地の一向宗門徒」を煽って一揆を起こさせるのです。つまり、一向一揆参加数=その土地の戦闘可能な一向宗門徒の数、と言えます。
わかりやすいのは加賀の一向一揆。国一つ分ですからね。計算の応用が効きます。この時の門徒兵は30万。眉唾や、盛られているという説もありますが、これを疑い出すと、軍役の計算式や各国の石高すら疑わなければならなくなるので、このままいきます。
三河と加賀を比べて、三河の戦闘可能な人員がこの30万を下回る事はないでしょう。ましてや、加賀はあくまで一向宗門徒限定です。で、三河の戦闘可能人員を30万と仮定し、これを東西と中央の三つに分けます。信広の領地も大雑把に、西三河の更に半分、とすると、30万の6分の1。つまり5万人です。
信広の領地には、5万人の戦闘可能人員が存在している計算になります。これなら、「無理をして1万を揃える」事はそう難しい事ではないとわかるのではないでしょうか。しかもおわかりとは思いますが、この数字、相当低く見積もっていますから、実際にもっと集まっても不思議ではありません。
作者も相当大雑把な計算をして、安城包囲網の各勢力の戦力を出しましたが、決して荒唐無稽な数字ではない事が、おわかりいただけたと思います。
4/1追記
活動報告の「戦国時代の文化についてあれこれ「一揆」「石高」」で加賀一向一揆30万は、幼い子供やよぼよぼの老人まで動員していた訳ではない旨の解説を行っております。↑の説明でも納得できない方はそちらをどうぞ。




