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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第三章:安城包囲網【天文十三年(1544年)~天文十四年(1545年)】
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水野信元

三人称視点です。

若干長めです。


全てが順調だと、水野信元は思っていた。


父が亡くなり家督を継いだ後、すぐに彼は知多半島の統一へと乗り出した。

知多の豪族、水野家に生まれ、次男ながら、嫡男として育てられた信元。

父は勢力を拡大し、周辺の豪族、大名と繋ぎを作り。

そして自分にその全てを残してくれた。


全てが順調だと、思っていた。


しかし、知多半島統一の初戦で、信元はいきなり躓く事になる。


居城の南西にある宮津城を攻め、これをほぼ攻略。

一月かかった事は、兵の損害を少なくするため、積極的な攻勢に出なかったせいであるから問題無かった。


妹が嫁いだ隣の織田信広が、姫城を一日で落としていなければ、胸を張って誇れただろう。


妹、於大は最初三河の松平家に嫁いでいた。

水野家は、織田弾正忠家と今川家の間に立ち、その時勢いのある方につく事で地歩を確保していた。

三河と尾張の国境近くに刈谷城を築き、三河にもその勢力を拡大すると、忠政は娘を松平家の一門や家臣に嫁がせ、その繋がりを強化していった。

信元の妻も、三河松平家宗家八代当主、松平広忠の大叔父、松平信定の娘だ。


松平宗家七代当主、清康の死後、信定が広忠を追い出し、岡崎城を乗っ取った時、水野家と安城松平家で西三河を統治できるのではないか、とほくそ笑んだものだ。

しかしそれも、信定の早過ぎる死と、織田信秀による安祥城攻めで瓦解する。


水野家はこの頃から弾正忠家に傾倒していく事になり、於大が嫁いだのも、松平家宗家との繋がりを強めるというより、弾正忠家のために松平家と和睦するためだった。

しかしこの和議はわずか一年で破られる事になり、離縁された於大は、その原因を作った男とも言える、織田信広に嫁いだ。


水野家のそれまでの動向を考えれば仕方無い事と言えるかもしれないが、織田信秀は事もあろうに、於大を側室とせよ、と言って来た。

今川家と弾正忠家の戦い、小豆坂の戦いに、松平家が参陣したのは、於大が広忠を抑えられなかったからだ、と言われては、忠政も何も言い返せなかった。


それこそ、独立領主である水野家は、その時点で弾正忠家と縁を切れば良かったと信元は思うが、しかし当時の情勢がそれを許さなかったのも確かだ。

安祥城はたった一年で難攻不落の堅牢な要塞へと変貌しており、城主の信広は、周辺領民を良く取り込んでいた。

あの時点で弾正忠家と手切れとなれば、北と東から圧迫されて、水野家は良くて緒川城安堵。最悪、そのまま滅ぼされていた可能性さえあった。


信広は於大を気に入ったらしく、その後水野家と安祥織田家は親密な関係を続けている。

於大もただの政略結婚としてでなく、信広に対し嫁心を抱いているようで、時折届く文には、いかに信広が素晴らしい男性であるかがびっしりと書かれている。


幸せなのは良い事だが、妹の惚気を読まされるのは少々どころか、かなり苦痛だった。


しかも最近では、西三河の北方、西広瀬城城主、佐久間九郎左衛門重行の娘が信広の正室として入って来た。


確かに、地方領主でしかない水野家と、辿れば室町幕府代官の家柄。

今川家と弾正忠家を両天秤にかけ、三河の松平家や各豪族達にも繋がりを作る水野家と比べれば、家格も信頼度も段違いなのは仕方ないだろう。


だからと言って、自分の可愛い妹、もとい、大事な妹を側室に留め置いておきながら、正室を別に連れて来るなど、度し難い行為である事は変わりがない。

だと言うのに、於大は件の佐久間の娘、於広を可愛い可愛いと絶賛している。

「妹ができたようです」ってお前妹いるだろうが、と思わず文に突っ込みを入れてしまった程だ。


それでも武士の娘か、と言いたい。

佐久間の娘を殺して、自分が正室扱いを受けるくらいの気概を見せて欲しいものだ。

松平家というわかりやすい敵が居るのだから、罪をなすりつけるのも容易だろうに。


勿論、信元としても、於大がそのような大胆な行動に出られる性格でない事は承知している。

ただ、子供が腹に居るのだから、もう少し強気に出ても良いとは思っていた。


話を戻して知多半島統一のための初戦、宮津城攻め。

それこそ、弾正忠家と良い関係を築き、知多半島北部でも有数の実力を持つようになった水野家に城を取り囲まれ、降伏を迫られたなら、屈するだろうと信元は思っていた。

家臣格ではあるが、一族郎党雇い入れ、宮津城もそのまま任せる、とある意味破格の待遇を提示したにも関わらず、城主の新海淳尚はこれを拒否し、徹底抗戦を掲げた。

攻略のために一月かかった事は問題ではない。兵の損害も想定通りに抑えられた。

しかし、宮津城城主の淳尚は討死してしまった。


別に惜しい武将だったという訳ではない。

だが、宮津城周辺の領民にはあまり良い顔はされない事は明白だった。


信元は戦略を根底から覆された。

このまま宮津城を支配しても、領民は従わないかもしれないし、敵対組織に煽られて反乱を起こすかもしれない。

信元は、領民の慰撫を余儀なくされた。


まずは宮津城を廃し、新しい城を築く。

これで、この周辺はもう水野家の支配地である事を周辺の領民に知らしめる事にした。


そして築城に際し、周辺領民に日当と昼飯を出して人を集める事にした。

於大の手紙にあった、織田信広が安祥城周辺を支配した際に用いた手である。

自分より年下で、やや思うところのある相手の真似をするのは良い気分ではなかったが、あの父忠政が褒めていた相手だ。

何より、信広は安祥城周辺の短期間での平定を成功させている。

ならば、これを真似る事は決して恥ずかしい事ではない。


結果は上々。城の建築も想定より早く済んだし、民は信元を新しい領主と認めたようだ。

良い結果が出た事が、逆に信元を苛立たせた。


神前神社の裏山に築かれたこの城は、土地の名前に因んで亀崎城と名付けられた。

知多湾奥の衣浦を監視できるこの城に、古くから水軍衆を率いる稲生政勝を入れた。


続いて知多半島東部、衣浦を臨む位置にある成岩城攻め。

近くの小山に砦を築き、ここを最前線として攻撃を開始。


砦を築いて領地を圧迫しつつ、降伏を迫るも、宮津城の時と同じく城主榎本了円はこれを拒否。

結局力攻めにより、榎本氏を攻め滅ぼす事になった。


わずか四カ月の間に、二つの城を落とし、一つの城を築いて支配領域を広げた信元。

結果だけを見れば順調と言って良いのだが、信元には到底そうは思えなかった。


勿論、相手が存在する合戦の事。想定通りに全てが進む方が珍しい。

しかし信元は思ってしまう。


信広だったなら、淳尚も了円もその懐に入れてしまえたのではないか? と。


全てが順調だと思いたかったが、どうしても、そのような考えが頭をちらつく。


そして天文14年二月。

成岩城には家臣の梶川秀盛を入れ、信元はその更に南、長尾城を包囲した。

長尾城城主岩田安広は今川方の武将であったため、今川家に援軍を頼んでいた。

勿論、遠い駿河、あるいは遠江の地から今川がはるばる来るような事はなかったが、今川が来るかもしれない、という希望的観測は、長尾城の陥落を長引かせる結果になった。


「長尾城を落とした後、常滑水野には監物守次に娘を嫁がせる」


長尾城を包囲している陣幕の中で、信元は家臣達に今後の方針を話していた。

知多湾を監視させている政勝から、今川軍やその配下の者がやって来ているという報告は受けていない。

このまま包囲を続けていれば、春までには長尾城を落とせるだろうと予測できる。

そのため、信元は既に長尾城は攻略したものとして考えていた。


「これでようやっと知多半島を横断して支配できますな」


家臣の一人が感慨深げに頷いた。


「佐治氏か久松氏を攻略できれば早かったのだがな」


しかし久松家当主、久松俊勝は同盟相手である弾正忠家の上役、尾張守護斯波氏の家臣だ。

これを勝手に攻撃する訳にはいかない。

最悪、北から弾正忠家が、東から安祥織田家が攻めて来る可能性がある。


斯波氏と弾正忠家があまり仲が良くない事は周辺の勢力にとっては公然の事実だが、それでも弾正忠家が斯波氏の家臣格である事もまた事実だった。

弾正忠家がこのしがらみを断ち切れるようなら、彼の家は、とっくに尾張を統一しているだろう。


そして伊勢湾の交易を掌握している佐治水軍を率いる佐治氏も、弾正忠家と良好な関係にあった。


知多半島北西部の佐治氏と、北部中央に位置する久松家を避けるために、信元は半島東側を南下するように進軍していたのだ。

しかしそれは支配領域が縦に伸びる事になり、防衛に関してはあまり良い戦略ではなかった。

だが、長尾城を攻略し、そこから西に位置する常滑城を居城とする常滑水野氏と結ぶ事ができれば、防衛上の懸念材料は少なくなる。


全てが順調だと、信元は思っていた。


「ご注進!」


その時、陣幕に伝令の兵が駆け込んで来た。

全員がそちらを向く。

まだ陣幕の中には弛緩した空気が漂っていた。

しかし、次の伝令の一言でそれが打ち払われる。


「大野城、阿久比城よりそれぞれ二千の兵が緒川城へ向けて進軍中との事!」


「なにっ!?」


それはまさに青天の霹靂だった。

水野家が佐治氏、久松家を攻められないのと同じく、彼らからも水野家は攻められない筈だった。

また、佐治氏と久松家は互いに領地を巡って争っていた筈だ。

水野家を攻める余裕など無い。ましてや、協力して攻めて来るなど、考えもしなかった。


「なにかの間違いではないのか!?」


「緒川留守居の清六郎様より書状をお預かりしております」


にわかには信じられない事態に、信元が思わず伝令に問いかけるが、彼は信元の弟、忠守からの書状を差し出した。


「殿……!?」


「ぐ……うぬぬ、撤退だ」


書状を読んでいた信元は、その表情が次第に険しいものへと代わり、ついには体も震え出した。

そして、震える声のまま、諸将に命じた。


「殿!?」


「事実だ。大野城の佐治氏と、阿久比城の久松家が停戦を結び、緒川城へ出兵した……!」


「なんと……!?」


「何故そのような……!」


「原因は今は良い。すぐに撤退する。緒川城が落とされれば、我らは分断されてしまう」


「刈谷城へ援軍をお求めになられては?」


家臣のその言葉は、折角長尾城を包囲したのに、これを解いてしまう事を惜しんでのものだった。

その間に、今川が援軍を送って来ないとも限らない。


「これを機に河和戸田が動くやもしれん。このまま長尾に留まるのは危険だ」


知多半島南から、渥美半島にかけて領地を有する、今川方の国人領主、戸田氏の知多半島の居城、河和城、富貴城は長尾城のすぐ南だ。

信元の本軍が緒川、刈谷と分断されたと知れたら、これまで日和見をしていた河和戸田氏が信元討伐に動く可能性は高い。


むしろ、今回の佐治氏と久松家の不可解な講和を考えれば、戸田氏と連携していてもおかしくないのだ。


「刈谷へ援軍は求めぬ。万が一にも緒川を守り切れぬ場合、逃げる場所が必要だ」


刈谷城に援軍を頼み、その上で敗北したならば、刈谷城に逃げ込んでも、まともな防衛が叶うとは思えない。


「弾正忠家に援軍を求めよ」


「佐治氏、久松家との戦いに弾正忠家が参戦するとは思えませんが……」


「むしろ斯波氏の家臣を攻撃する良い材料であろう」


「安祥城へはいかがなさいますか?」


「独立領主のように思われているが、安祥織田家はあくまで弾正忠家の家臣格の一門だ。弾正忠家から援軍の指示があれば動くだろうが、いきなり援軍を求める事は有り得ぬ」


このような状況でも信元は冷静だった。

様々な勢力が覇権を争い、その思惑が複雑に絡み合う、尾張と三河の国境に位置する知多で、その領地を保持するどころか、拡大までした忠政の薫陶を受けただけはあるだろう。

しかし、信元の感情のどこかに、信広への対抗心のようなものがあったのは、間違いなかった。


織田家と松平家と今川家と、土着の豪族が入り乱れる混沌の地、それが知多半島。

史実では順調に推移した水野信元の知多半島統一戦も、信広との戦いを経て成長した広忠によって暗礁に乗り上げる事になりました。

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[一言] 信元やっぱり男の子だから
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