悲運の武将、松平広忠 陸
三人称視点です。
三河国岡崎城評定の間。
「軍備の方はどうなっておる?」
尋ねる広忠の声は落ち着いている。
天文9年の鳴海城での敗戦以降、広忠は一度も戦に勝てていない。
この四年間で領土は削られ、家臣も多くが討ち取られ、あるいは寝返った。
だが、その苦境の中で広忠は成長していった。
最早、初陣の頃の、功に焦る若武者は居ない。
今まで支え続けた自分達の苦労はと覚悟は、無駄ではなかったのだ、と阿部定吉は胸に去来する熱い想いに、目頭が熱くなるのを感じた。
この当主ならば、松平宗家復興どころか、先代清康さえも超える大松平家を築く事もできるだろう、と本多忠豊は頼もしく感じていた。
「兵糧の備蓄は進んでおります。槍、鎧も数が揃ってきました。領民の徴兵も滞りなく」
「信広の奴は今油断している」
大久保忠俊の報告に一度頷き、広忠は話し始めた。
「これまで何度か上和田城を攻めた。碌な戦果を挙げられず、忠員を始め、多くの忠臣を失った」
家臣たちが唸り、顔を背ける。
「だが、それでも上和田城も消耗している。このままいけば落とす事は可能だろう」
とは言え、広忠も理解している。
上和田城と同様に自分達も消耗している。
それでも、今までは準備が整い次第遮二無二出陣していた。
その頃に比べれば、収入以内に戦費が収まるように計算するようになっていた。
相手の消耗を誘い、自分達は微量ながら備蓄していく。
気たる、安祥城との大決戦に備えての事だ。
しかし広忠はまだ甘かった。普段自分達が口にしている飯もその収入から出ている事を失念している。
城や領地の開発にかかる経費は、その時だけのものではない。
維持費という、それこそ開発費を大きく超える経費の存在を意識していなかった。
これは広忠だけではなく、財務を司る武士でさえ同じだった。
一番に考えるのは戦にかかる経費。城の改修や補修、家臣の俸禄などは備蓄から出し、足りなくなって初めて節約を始める。
松平家だけでなく、多くの武家はそうした泥縄的な領国経営を行っていたのだ。
それでも足りなくなれば隣の国に奪いに行く。
こうした前時代的な国が多い中、計画的な領国経営を行っていた今川家は大きく勢力を伸ばしたし、織田弾正忠家は尾張の一国人でありながら、斎藤、今川、松平と、多くの敵と同時に戦いながらその戦線を維持している。
広忠含め、松平家は誰もそれを理解していない。
強い相手には強い理由がある。それをただ当主が優秀だから、家臣が勇猛だから、で止まってしまっているのが多くの勢力の現状だった。
「しかしそれには時間がかかる。今は尾張が乱れていて、美濃とも争っているが、上和田城を落とす前にそれが収まってしまえば、弾正忠家全体がこちらに向く事は間違いない」
確かに上和田城単独ならば、広忠の言葉通りに、松平家以上に消耗しているだろう。
しかし広忠は知らない、上和田城には信広から、それ以上の支援が行われている事を。
上和田城に広忠らが攻めかかったら、安祥城から援軍が来る。
その時に持参した兵糧などの一部を補填として置いていくのは知っていた。
だが、そんなものは微々たる量だろうと思っていた。
いくら協力体制にあるとは言え、昨日の盟友が明日には敵になるのが戦国乱世。
実質的な服属勢力でも、決して警戒を緩めないのが常識だった。
その常識で考えれば、信広の援軍は、上和田城を再び寝返らせないためのアピールでしかない筈だった。
城を一つ見捨てれば、明日は我が身、と他の城や勢力も寝返る事になる。
それをさせないための見せかけだけの援軍。
広忠はそのように考えてしまっていた。
それは信広の策略でもあった。
上和田城を餌に、松平家を消耗させ、今川を釣り出し、これも消耗させる。
その戦略を基準に考えれば、上和田城には消耗しているように見て貰わなければいけないからだ。
大決戦は一度の勝利で全てを得られる可能性があるが、その後に第三勢力に全てを奪われる可能性もあった。
だから信広は、上和田城を一見すると支援しているようには見えないよう、情報の隠蔽に気を使っていたのだ。
現在の広忠、岡崎松平家に、これを見破る力は無かった。
「だからこそ、ここで目先を変える」
「目先を……でございますか?」
「うむ。先にも言ったが信広は今油断している。ここ最近は信広自身が出陣しなくなったのがその証拠。我らの力では上和田城は落とせないと安易に考え、戦力を温存しているのだ、度し難い事にな」
広忠の言葉に家臣達が拳を握る手に力が籠る。
広忠もまた、袴を強く握り締めていた。
ここで感情的になってはならない。冷静に、理知的に話を進めなければ。
そうしないと勝てない事は、広忠にも理解できるようになっていた。
「今出陣の準備をすれば、信広はまた上和田城を攻めると思うだろう。今までずっとそのようにしてきたからな」
「成る程。そこで別の城へ向かえば、安祥織田の援軍が間に合わない可能性がありますな」
忠豊が膝を打ち、大きく頷く。
「その通り。さて、我らが北へ向かえば、信広は我らがどこを攻めると思い込む?」
「ふむ、現在織田に寝返っている城の中ならば、上野城でしょうか。他の城と違い安祥城との距離もありますから……」
「そう信広も思っているから、ある程度の備えはしてあるだろうよ」
「ではどちらへ?」
自分の意見を否定された形の定吉だが、むしろ自分の予想より広忠が上を行っていた事に嬉しくなり、期待で声を弾ませる。
「東広瀬城だ」
「確かにあそこの三宅氏は我らに臣従しているとは言い難いですが、今別の勢力へ戦を仕掛けるのは……」
苦言を呈そうとしたのは、岡崎城にて松平家の財務を司っている鳥居忠吉だった。
他の家臣より経済に明るく、質素倹約を旨とする忠臣。だが、槍働きを第一とする家臣達からは銭武士とやや侮られている。
しかし、銭が無ければ戦はできない。広忠は彼の重要性を理解していた。
「わかっている。東広瀬へ向かうのは三宅と争うためではない。むしろ支援に向かうのだ」
「支援に? そのような余裕も……」
「まぁ最後まで聞け。狙いは矢作川を渡った先、西広瀬城よ」
「西広瀬城主、佐久間全孝は織田方の武将でしたな」
「うむ。それも、安祥織田より弾正忠家との繋がりが強い。つまり、信広も勝手に援軍を出す事ができない相手だ」
「成る程、そして本来援軍を出すべき弾正忠家は国内と美濃に手一杯ですからな」
「うむ、東広瀬だけでは西広瀬を落とす事叶わぬが、我らが支援する事でこれが可能となる。西広瀬城は三宅にくれてやる事になるがな」
「それでは三宅氏の力が大きくなり過ぎませんか?」
現在、松平家宗家の領地は岡崎城周辺だけという訳ではない。
しかし、多くの広忠に従っている領主達は、自分の領土に引きこもったままだ。
信広だけでなく今川家、あるいは、周辺の独立領主から取り込みの働きかけがあるのは容易に想像できる。
へたに取り込んで裏切られたらたまらない。ならば、敵にならない限り放っておくに限る。
今でも、三木城を奪取し、その領地を横領した事は間違いだったとまでは思わないが、迂闊だったとは思っている。
同じ轍を踏む訳にはいかない。今の松平家宗家にとって、それは致命傷になりかねないからだ。
「こればかりは仕方ない。むしろ、そうして三宅に恩を売る事で、北から信広を圧迫して貰う」
「弾正忠家が動けぬ今が好機なのは、三宅氏もわかっているでしょうからな」
「よし、これより東広瀬城へ向かい、西広瀬城攻撃を支援する。大蔵、東広瀬城へ書状を送れ」
「は!」
「平八郎はこれより一月で出陣可能な兵数を出せ」
「は!」
「監物(忠吉の事)はその数を基に必要な物資の量を計算せよ。行軍は一月を想定せよ」
「は!」
こうして広忠は、東広瀬城の三宅氏と連携し、矢作川西岸にある織田方の城、西広瀬城攻略に着手した。
しかし広忠は知らない。
西広瀬城城主佐久間全孝の娘と、広忠の仇敵、信広との間に縁が結ばれた事を。
広忠は知らない。
信広が、例え政略結婚であろうとも、自分の『家族』になった相手を溺愛する事を。
この時の広忠は、知らなかった。
残念、一歩遅かった広忠。
輿入れは広瀬城の攻防戦が終わったら予定しています。




