安祥長広の書状
三人称視点です
加賀一向一揆は、文明年間に起きた、加賀国守護、富樫氏の内乱に端を発する大規模な宗教一揆である。
近くの寺社勢力と結び、戦の手助けを請うのは畿内のみならず日ノ本全土で行われていた。
当時加賀の本願寺勢力を率いていた蓮如は、当初、富樫家による本願寺保護を期待して時の守護、富樫政親の要請に従い内乱に介入していた。
恐らく、そのままならば多少加賀国内で本願寺勢力が強い力を持ちながらも、富樫家による加賀支配は盤石なものとなっていたはずだ。
しかし政親はその本願寺勢力の勢いを脅威に感じ、内乱の終結後、一向宗勢力の弾圧を始めてしまった。
呼び込んだ宗教勢力が制御を外れ、暴走する事はよくある話でもあったため、政親の懸念は杞憂とは言えなかっただろう。
この政親による一向宗勢力の弾圧は上手く運び、加賀から本願寺一向宗を排除する事に成功する。
しかし、弾圧を逃れた一向宗勢力が、越中へと入った事で流れは変わる。
同じく一向宗の勢いに脅威を感じていた越中の国人である石黒家が一向宗を攻撃するも返り討ちに遭ってしまったのだ。
平安時代から続く武家の名門を滅ぼした事で勢いを得た一向宗は、越中でその勢力を盛り返した。
加賀支配をより盤石なものとするため、将軍家との強い繋がりを欲していた政親はこの越中で起きた本願寺一向宗による騒乱、越中一向一揆の最中、足利義尚の六角討伐に従軍していた。
しかし長滞陣により戦費が嵩み、加賀国内で富樫家への不満が高まってしまう。
ここに越中で勢力を建て直した本願寺一向宗が帰還し、不満を抱いていた国人衆を抱き込み一揆を起こす。
結果、政親は能登の高尾城に籠るも攻め落とされ自害して果てる。
流石に守護が滅ぼされたとあっては足利幕府としても加賀一向宗を捨て置けず討伐命令を出すものの、将軍義尚の急死で六角家討伐ともども中止となった。
この一向宗を利用して政敵を排除しようとしたのが管領、細川政元であった。
朝倉家は反政元派であり、北陸の諸勢力も多くがこれに足並みを揃えていた。
そのため、政元はかねてより親密な関係にあった本願寺勢力を通じて、加賀の一向宗に周辺への攻撃を要請したのである。
こうして時に保護を求めて、時に弾圧から逃れるため、権力との結びつきを強めていた本願寺勢力は、その俗世の毒にあてられたのか、彼ら自身も権力を求めて争うようになる。
寺にはそれぞれに縄張りがあり、それが被れば信者の取り合い。
時には信者を率いて襲撃を行う。
敵対する寺社の近くに別の寺を建て、相手の領地を圧迫する。
その動きはまさに戦国大名さながらであった。
その権力闘争の末に、加賀の一向宗は本願寺の一門衆によって支配される事となった。
『百姓の持ちたる国』と呼ばれる加賀であるが、その実、本願寺法主一族による統治が行われているのだ。
「本願寺勢力との結びつきは代々の細川京兆家が強い。その京兆家を継いでいる現管領殿が公方様、弾正忠殿と共に尾張におられる。故にそれを通して、加賀の本願寺一向宗と和睦を仲介するとのことだ」
安祥長広からの書状には、加賀の一向宗の歩んできた歴史、そして畿内の一向宗の歴史。それらと細川京兆家の結びつきが細かく記載されており、延景が口にした結論へと続いていた。
「確かに、これが成れば我々は東への警戒を緩める事ができます。ある程度大きな一揆は解体したとは言え、国内でもまだまだ燻っておりますので、それらが収まるならば願ってもないことです」
そしてこの書状を長広が送ってきた理由も、同時に宗滴は理解する。
朝倉家は昔から細川京兆家とは対立していた。
細川晴元を抱き込んでいる以上、将軍義輝も、織田信秀も、直接的な支援はできない。
名や官位を与えたり、領国支配の正当性を保証するくらいが関の山だ。
だからこその長広だ。
弾正忠家の一門ではあるが、分家として独立した安祥家。
三河一国と遠江半国を支配し、今川と同盟関係にある大大名たる安祥家。
そして三河一向宗を通じて本願寺勢力とも強い繋がりのある安祥家。
「言うなれば、加賀一向宗との和睦の仲介を建前にした、細川京兆家と朝倉家の和睦の仲介だ」
先に宗滴が抱いた推測。
織田弾正忠か細川晴元かは知らないが、反三好連合を作りそこに朝倉家も加えようとしているかのような動き。
長広の書状は、その裏付けとなるものだった。
「公方様の書状と弾正忠殿の書状だけでは見えてこない全貌が、三河殿の書状によって浮かびあがる。故に――」
――面白い。
と延景は締めた。
「これならば、公方様の要請通りに近江に出兵させる事は容易い。それだけでなく、まだまだ情勢が不安定な若狭の支援も行えるでしょう」
「和睦したとは言え、元々は敵対派閥。その若狭の武田家が、これによって反三好勢力に組み込まれるわけだ」
昔を思い出して少々興奮してきた宗滴は、延景のその言葉に我に返る。
「さて、この書状は本当に安祥長広が自ら書いたものなのかな?」
「…………」
真偽は不明だ。確かめる術はない。
だからこそ宗滴は思う。
細川晴元という男の恐ろしさ。応仁の頃から陰に日向に、幕府を振り回して来た、細川京兆家の厭らしさを。
改めて思い知らされたのだった。
感想などで長広がどのような書状を送ったのか楽しみにしていただいていた方々にとっては、少々肩透かしだったかと思われます
ただ今回のエピソードは細川晴元というキャラクターがどういう存在であるかという事を表現するためという側面が強いんですよね
作者は細川晴元に、小物であり嫌われ者であるけれど、狡猾な策謀家ってイメージを抱いているので、まともに描写するのが難しいキャラクターでもあります




