天文壬子の変・その後
三人称視点です
越前を支配する朝倉家は、元々越前守護にあった斯波家の守護代であった。
応仁の乱勃発時、時の当主朝倉敏景は主筋にあった斯波家に倣い西軍に属した。
しかし東軍からの調略を受け離反。
のみならず斯波家が留守にしていた越前で蜂起しこれを奪ってしまった。
西軍において精鋭として図抜けた活躍を見せていた朝倉勢の離反の影響は大きく、これにより東軍が圧倒的優勢となり、乱の終息へと向かう事になる。
戦国時代の幕開けと言われる応仁の乱において、そのただ中で下克上を果たした敏景は、ある意味で戦国大名の元祖と言っても過言ではないだろう。
しかも越前支配を確固たるものとするべく、寺社や公家の荘園を横領しその勢力を拡大していった結果『天下悪行の始祖』とまで呼ばれるほどになっていた。
そんな敏景を父に持つ朝倉宗滴は朝倉家三代に渡って支え続けた宿老であり、朝倉家の大黒柱とも言える存在であった。
ただ宗滴自身、若い頃に宗家継承の野心を抱かなかった訳ではない。
しかし敏景晩年の子である宗滴が元服を果たした時には、兄氏景が家督を継いで既に二十年が経過しており、その支配体制は盤石のものとなっていた。
ここで家督相続を諦め、逆に謀反を唆した叔父を密告して自害に追い込み宗家での立場と発言力を確立するなど、幼いながらにその判断力と合理性は図抜けていた。
親子ほどに歳の離れた兄氏景、その子で年上の甥の貞景に仕え、そして偉大なる父の名を継ぐ孝景の三代にわたって主に軍務、外交面で朝倉家で活躍した事で、日ノ本全土にその名は轟いていた。
敏景こそ軍事政治の両面に優れていたが、氏景以降は政治面での才覚はあるが、軍事においては一門を名代として派遣する事が多かった。
宗滴はその代表格であり、東は加賀、西は若狭。時には京にまで遠征するほどだった。
そして孝景が亡くなって約四年。
跡を継いだ延景もまた、内政面では申し分ない才能の持ち主であったが、軍事面ではいささか頼りない面もあった。
既に宗滴も自身が支えられる時間があまり残されていない事を悟っており、後進の育成は急務であった。
しかし、稀代の名将朝倉宗滴の代わりが務まる人間などそうそういない。
複数人に権限を分けるにしても一人一人の能力も物足りない者ばかり。
更には、当主延景が少々頼りない現状で、そのように権力を分散させたらどうなるかは火を見るより明らかだ。
(言葉の通じない鷹を育てる方が、樂だとはな……)
なんとも皮肉なものである。
後背した京から逃れた公家を保護し、北ノ京と呼ばれるほどの文化が花開いていた朝倉家。それ故に延景は経済にもそれなりの才能を発揮していた。
当然、名物、珍品にも目がない。
そんな彼が遠い出羽に名馬を求めたことで、宗滴はその交渉に赴いていた。
その帰り。
交渉がまとまった事の報告に、延景の居城である一条谷城を訪れた宗滴は報告の後、延景の私室に呼ばれていた。
「大樹が京より持ち去られた事、聞き及んでおるかの?」
数えで二十歳になったばかりの青年が、酒の入った盃を片手に宗滴にそう尋ねた。
彼こそ宗滴が朝倉家に仕えて四代の主君となる朝倉延景である。
「ええ。越後でもその噂でもちきりでしたからな」
盃に口をつけ、宗滴も応じる。
「まぁ織田弾正忠や公方様、管領殿が何を考えているかはどうでも良い。重要なのはそれが朝倉家にどのような影響を及ぼすかだ」
「左様でございますな」
そこで延景は、懐にしまっていた三枚の書状を取り出す。
「中々面白き内容ぞ。読んでみよ」
「拝見いたします」
書状の表には恐らく差し出し人だろう者の名前が記されている。
公式の文書形態ではない。おそらくは、宗滴にわかりやすいよう延景が書き記したのだろう。
この主君は、たびたびそんな悪戯心を発揮する。
それが公家連中には評判が良いため、あまり宗滴も強く諫められないのだが。
「ほう……」
最初に手に取った書状の表に記されていた名前は『足利義輝』。
知らない名前だ。足利一門の誰かであろうか。
などと考え書状を開くと、その中身から差出人の正体が知れた。
誰あろう、第十三代征夷大将軍、足利義藤であった。
京を離れ、再び足利幕府の権勢を取り戻すための決意の証として名を改めた事が記されていた。
そして書状の主な内容は、朝倉家への上洛要請だった。
およそ二十年前、時の将軍義晴が京から逃れていたおり、その帰京の助力となるべく、宗滴は軍勢を率いて上洛し、堺公方足利義維、細川晴元らの軍勢を討ち破った過去がある。
その子である義藤、そして今度は晴元を助けるために再度の上洛とは、なんとも奇妙な巡り合わせだと宗滴は思った。
「京まで攻め上らずとも良いそうだ。朽木か坂本、その辺りに最低でも三千の兵で在陣せよとの仰せだ」
「つまり、三好に好き勝手させるな……と?」
「そういう事であろうな」
いかに将軍義藤が健在であると言っても、遠く尾張の地にいてはその影響力も微々たるもの。
苦労はするだろうが、それでも長慶なら早晩畿内での支配体制を盤石なものとするだろうことは宗滴ならず延景にも想像できた。
そのため京に近い位置にそれなりの軍勢で出征し、彼らを牽制させるつもりであった。
本来その役目は六角家に任せるべきだったが、巨星が堕ちた今の彼の家だけではいささか頼りないという判断だ。
その見返りとして、延景に義の通じを与えるとも記されていた。
「故に、儂は明日より義景と名乗る」
「かしこまりました」
頷きかけた宗滴の動きが止まる。
そこには更なる恩賞が記されていた。
「左衛門督の官途授与……!?」
「宗敦だけでなく、英林をも超えたな」
延景の父だけでなく、宗滴の父敏景も一時孝景を名乗っていた。
特に敏景は先に述べたように寺社から非常に恨まれており、たびたび呪詛の対象になっていた。
しかし文化的教養も身に着けていた敏景は、頻繁に名前を変える事で呪詛を逸らせる事を知っていた。
勿論、生来の合理主義者であった敏景が本当に呪詛、呪いの類を信じていた訳ではない。
ただ、それらを信じる者に対するアピールとして改名を行っていたのである。
ともあれ、朝倉家当主が代々授与されていたのは衛門でも格下の『尉』であったため、これが破格の報奨である事は疑いようがなかった。
勿論、実際に朝廷守護の長官の座に就けるわけではないが、武家官位の中でも特に好まれる左衛門。その多くが僭称でも『尉』を名乗っているのに対し、公式に『督』を名乗れる効果は大きい。
「平安の世なら中納言。応仁の乱以前なら管領と同格であるぞ?」
などとおどけて延景は言うが、宗滴は自分の胸中を支配する様々な感情に翻弄され、まともに反応できないでいた。
「ああ、だが、金吾では其方の方が先達だな」
「お戯れを……」
左衛門督の唐名である金吾と、宗滴の浅井家の美濃乱入に際した逸話をかけて延景は笑う。
そこでようやっと、宗滴に余裕が生まれた。
「だが左衛門督よりは金吾を称するのも悪ぅないかもしれん。偉大な其方に倣う事もできるし、それに一条谷に移って来た公家が言うには、今は唐名を用いるのが風流なのだそうだ」
「はぁ……」
楽しそうな延景とは対照的に、宗滴の反応は薄い。
官途名を唐名に言い換えての名乗りはこの時期の戦国武将に大いに流行っていた。
あの場でそれを告げるのは気恥ずかしかったので曖昧に誤魔化したが、松永久秀が弾正忠ではなく唐名の霜台を名乗っていたのはこのためだ。
決して信秀に遠慮した訳ではなかった。
徳川家康の『内府』も内大臣の唐名である。
ちなみに最終的に太政大臣に任官されているが、その翌月には死去しているので『相国』と呼ばれていたかは定かではない。
次に宗滴が手にした書状には『織田弾正忠信秀』とあった。
「岩竜丸の名代として、越前領有を認める……!?」
そこに記されていたのは、ある意味で、将軍義藤の書状よりも衝撃的な内容だった。
岩竜丸は今は亡き尾張守護斯波義統の嫡子であり、その祖父斯波義寛から越前を奪ったのが宗滴の父敏景であった。
弾正忠家に保護されている岩竜丸の意向がそこに入っているはずがないので、これは間違いなく信秀の独断なのだが、しかし、義藤を擁する信秀がこの書状を送ってきた意味は大きい。
「父孝景の代には越前守護に正式に任ぜられ、名実共に斯波の手を離れているとは言え、それでも武力で奪った地位である事は変わりない。それ故に、越前統一は父の代になるまで果たされなかった」
一時は細川政元から正式に領地返還の要請があったほどだ。
「これは越前の正式な統治者として朝倉家を認めるという以上に、弾正忠家が越前に手を出すつもりがないという証明でもある」
したり顔で告げる延景の言葉を聞きながら、しかし宗滴の思考は更にその先にあった。
信秀の書状だけならば、延景の言う通り、今後の朝倉家と織田弾正忠家の関係性を示すだけのものだが、ここに先の義藤の書状が加わると意味が違ってくる。
これは反三好派への勧誘の書状だ。
言うなれば、織田信秀は、足利義藤は、三好包囲網ともいうべき勢力を築こうとしている。
最後の書状に延ばされた宗滴の手は震えていた。
「それが一番面白いぞ」
その書状の表には『安祥三河守長広』と記されていた。
宗滴の父も、延景(義景)の父もどちらも孝景
ただそれほど描写のない今話序盤でその辺の説明をすると冗長になり過ぎると判断しましたので、宗滴の父の方は敏景で描写しています
一応、孝景より敏景の方が主流らしいので……。




