松永久秀
三人称視点です
「まったく、これだから阿波の譜代は危機感がなくていかん!」
評定の間を後にして、執務室で憤りながら壮年の武士は茶を点てていた。
「しかし、黙っていれば織田弾正忠がそのうち尾張に帰るのも事実ですからな」
その様子を見ながら、二十代半ば頃の青年が窘めるように言った。
「そうではない。そうではないのだ、主税助」
しかしその言葉に納得せず、壮年の武士――松永霜台久秀は声を荒げた。
「殿はできてしまうからわかりにくいが、本当はやりたくないのだ」
「ああ」
久秀の言葉の意味を理解し、主税助――岩成主税助友通は呟いた。
三好長慶は、当時畿内で暴走していた一向宗との和睦交渉を成立させるなど、若くしてその才覚を発揮していた。
更に戦でも一揆衆の撃滅をはじめ多くの武功を立てた。
何より、父の仇である怨敵、三好政長を見事な戦術で包囲孤立させ、討伐を果たしている。
知勇兼備の猛将であり、公家らと交流する文化的な素養も持ち合わせている。
長慶が千熊丸を名乗っていた時から知っている、阿波の譜代家臣からすれば、まさに彼らが理想とする素晴らしき主君へと成長したと言っても過言ではない。
それ故に、彼らは長慶の本質が見えていないと久秀は言う。
「殿はやらなければならないからやっているに過ぎぬ。そしてできてしまうから周囲も期待する。だが、殿がもういいと思ってしまえば、三好家はその瞬間に崩壊してしまうのだ」
長慶は文化人の側面も持つ武将ではなく、その本質は戦に強い文化人なのだ。
長慶が摂津の越水城を拠点とするようになってから登用された、久秀や友通のような外様の方が彼を理解しているというのも皮肉なものだった。
「本来であればとっとと隠居でもして、日がな歌でも詠んで暮らしたい方なのだ。しかし、今の三好家から殿が退けば、どのような事態に陥るかも理解しておられる」
だから長慶は、三好家の惣領としての責務を優先している。
彼は本来であれば、武家の頂点に誰が君臨していても気にしないし、その主君が傀儡であっても構わないと考えている。
ただ、このまま細川京兆家が力を持っていると、三好家の脅威となるから彼らの頭を押さえているに過ぎない。
もしも三好長慶の討伐命令が下ってしまい、それに織田弾正忠家が応じてしまったら、長慶は当然抗うだろう。
けれど、摂津と阿波の安堵を条件に、中央の政治から離れる事を迫られてしまったら。
長慶は講和に応じかねないのだ。
「であるならば、阿波の譜代共の危機感を煽ってみますか?」
「奴らは碌に戦力を連れてきておらん。戦となれば矢面に立つのは我らぞ?」
友通の言葉に、久秀が反論する。
三好家はこの時代の武家としては特殊な権力構造をしていた。
領地を広げるにあたって、新しく支配した土地の豪族や国人を家臣に組み込むことはよくある話だ。
久秀は摂津国の、友通は大和国の出身である。
しかし久秀は武将としても官吏としても、畿内においては長慶に次ぐ発言力を有しており、友通も奉行衆として仕えるだけでなく時には畿内勢力の相論を裁く権限を与えられているほどだ。
外様の武士を重用する事は他の武家でもある事だが、その際には本領で絶えた名跡を継がせるなどして、相応の家格を用意して抜擢するのが普通であった。
あの信長でさえ、明智光秀に惟任を継がせるなどしている。
しかし長慶はそれを行っていない。
阿波の譜代家臣などは、外様との差別化の顕われであると軽く考えているが、そうではないと久秀は思っていた。
これは長慶による人心掌握術の一つだろう、というのが久秀の考えである。
三好家を存続、繁栄させるためには中央の政治に関わり、権力を維持する事が必要不可欠であると考えている長慶は、本領の阿波とは別に、畿内で独自に家臣団を形成する必要があった。
家や土地をそのままに重用する事で、彼らの忠誠を得ようというのが長慶の考えである。
少なくとも、久秀はそう理解していた。
そしてその策は、今のところ上手くいってるように思えた。
根拠は久秀自身である。
「与力や服属領主ならともかく、三好の家臣に名を連ねる者が行動を起こせば、殿も無視する事はできぬ。それでは三好と細川の全面抗争に発展してしまう」
勿論負ける気などなかったが、それでも結果がどう転ぶかはわからない。
単純な三好と細川の争いでは終わらない事が予想できるからだ。
歯がゆかった。
結局、織田弾正忠家が尾張に帰るまで大人しく待つことが最善の策である状況が。
まるで三好が織田家より弱いかのように思えるこの状況が。
悔しくて仕方がなかった。
それ故に、怒りの矛先は事態を楽観視している阿波の譜代家臣達に向けられていた。
そりゃいざとなれば阿波に逃げればいいお前たちは気楽だろうさ、という気持ちを茶にこめて、一気に飲み干す。
「無作法ですな。大通居士に叱られてしまいますぞ」
「息子に茶器でも贈っておけばいい」
「しかし霜台殿、状況は貴殿が考えているよりわるうございますぞ」
「なに?」
二回り以上年上の久秀から睨みつけられても、友通は気にせず続きを口にする。
「どうも、長尾景虎が上洛しているようなのです」
「あの越後の軍神が!?」
この時点で、景虎がわずかな手勢を引き連れて信秀らと合流している事は知られていなかった。
晴元も、窮状を訴える書状を送りはしたものの、天皇の勅命で動いているも同然の長尾家を、信濃から離すのは憚られた。
そのため、晴元や将軍義藤でさえ、景虎が京に入っている事を知らない。
「細川京兆家だけなら問題ないでしょう。弾正忠家が加わってもなんとかなるでしょう。しかし、長尾がその忠誠を示したとなるといよいよまずい」
久秀の眉間に刻まれた深い皺と、頬を伝う汗から、友通は自分の言わんとするところが彼に伝わっている事を知る。
畿内の全ての勢力が三好と将軍家のどちらかについている訳ではない。
その多くは勝ち馬に乗るために状勢を見極めている最中なのだ。
だからこそ、実際に槍を合わせる前に、多くの武士は周辺の土豪や国人に調略を行う。
単純に数だけで見れば、三好の方が細川、織田、長尾連合よりも多いだろう。
しかし、海道に覇を唱える織田弾正忠と初陣以降無敗の軍神の影響力は計り知れない。
その名前だけで、畿内の勢力を味方につける事も可能なほどだ。
「そしてそのような事態になれば、これを機に三好の影響力を排除したいと管領殿は考えるはず。となると、長尾の本隊を呼ぶ手筈を整えるでしょうな」
「武田との和解の仲介か……」
そして久秀の想像の翼は最悪の未来へとはばたく。
和解の餌として現在武田が占有している信濃の土地を保証する可能性があった。
その代わりに、援軍を寄越せと言われれば、武田は応じるだろう。
信濃全土は流石に長尾の心証が悪いから無理だろうが、武田ならば、その後は適当な口実を作って信濃の一部ではなく全土併合の要求を周囲の勢力に求めるだろう。
一部とは言え、信濃の領有を幕府が認めているのだ。
どこまでかを決めるのは幕府であって土地の者達ではない。
信濃の勢力は、誰の土地がどこまで認められるかを正確には把握できないため、武田のされるがままになってしまうだろう。
ならば、武田は細川晴元の要求を呑む可能性が高い。
織田弾正忠、甲斐武田、越後の長尾が将軍義藤の援軍に現れる。
最悪、そこに今川とついでに三河の吉良家も加わるのだ。
果たして三好に味方する畿内の勢力はどれだけ残るだろう。
三好内部ですら、裏切りが続出するかもしれない。
そんな未来を、久秀は想像してしまった。
実際にそうなるとは限らない。
むしろ、景虎が本隊を信濃に置いてきている時点で、長尾家が和解に応じない可能性の方が高い。
しかし、その内情をよく知らない久秀達では、それがわからない。
「戦をするなら、はようしませんと……」
史実を知っているが故に、歪みに対応できずに失敗続きだった武田信廉の策。
しかしその毒は、着実に畿内に回り始めていた。
松永久秀、岩成友通ともに、出自には諸説あります。
拙作では摂津と大和の出身とさせていただきました。ご了承ください




