上洛後
三人称視点です
「まったく、肩がこるわ」
将軍、足利義藤との謁見を終え、旧斯波邸にて寝室として宛がわれた部屋で、信秀は溜息と共に呟いた。
権威が地に墜ちているとは言え、相手は全ての武家の棟梁。
何か粗相があれば、周辺国全てが敵に回りかねない将軍と相対する事は流石の『尾張の虎』でも緊張してしまった。
更に言えば、将軍の左側に管領、細川晴元が座っていたのは良いのだが、その対面には三好長慶が座っていたのだ。
本来なら敵対している者同士がその場に居合わせている事の緊張感。
多くの幕臣を差し置いて、管領に次ぐ序列に納まっている事への嫉妬。
ひりついた空気にあてられて高まる疑念。
そうした様々な感情の混じった空間の中心にいた信秀は、目上の者に謁見する以外の状況が原因で、精神と体力を削られてしまったのだ。
「あれが波及して畿内の独特な空気を作っているのですな。いやはや剣呑剣呑」
信秀に同意し、苦笑いを浮かべるのは今回の上洛に同行している吉良義安だった。
信秀と信長が尾張を離れるにあたって、守りを長広に任せる事になった。
しかし、安祥の下で治まっているとはいえ、まだまだ予断を許さない状況にあるのが今の三河である。
その中でも強い国力と影響力を持つ吉良家の惣領が上洛に同行しているとなれば、変な気は起こさないだろうという思惑だ。
義安としても、安祥を除けば今三河で最も存在感があるのが吉良家であると、将軍家にアピールする目的もあった。
いずれ今川が遠江から完全に退き、駿河一国に納まるだろうという予測を多くの者は持っている。
その時、今川への警戒として長広が遠江に入るとするなら、三河を誰が任されるのかという問題が浮上するだろう事は想像に難くない。
落ち目ながら弾正忠家で養育されていて、生母が長広の側室となっている松平はその候補として有力だ。
弾正忠家との結びつきが強く三河北部に勢力を伸ばしている佐久間家も考えられる。
吉良家は安祥との結びつきこそ強いものの、その影響力は三河だけに留まるため一歩劣るように見られている。
そういう意味でも、この上洛は義安にとっても重要な意味を持っていた。
「三郎殿もご苦労であったな」
気を遣わせた事への反省か。
敵ではないというだけの相手に弱みを見せてしまった事への後悔か。
信秀も苦笑いを浮かべながら、酒筒を義安に向けた。
「これはかたじけない。しかし弾正忠殿、三郎殿は其方にはあまり呼びやすくないでしょう」
「特に気にすることでもないが、ではどのように?」
「上総介がよろしいでしょうな」
「それだと今度は我らと区別がつかないではありませんか」
そんな義安に待ったをかけた者がいた。
今川義元の嫡男、今川氏真である。
「いやいや、勝手に名乗っているようだが、元々上総介は初代良氏以来吉良家が任じられた正式な官職。いつの間にか僭称するようになった今川家と混同されるような事はないでしょう」
東西に分裂し内部争いによって力を落とした吉良家に代わり、今川家が名乗るようになった流れがあるのだが、正式に任じられた官職ではないというのも事実であった。
「本来は親王の補佐としての役割があるのが上総介でしょう? しかし吉良家はその力を失ってしまった。それゆえの名乗りですよ。吉良が絶えなば、というでしょう」
平安時代に数多くいた親王家を維持する財源確保のために作られたのが親王任国である。
成立過程はともかく、皇族が太守となるこれらの国は相応の格を有する必要があり、当時大国であった常陸、上野、上総がこの親王任国に充てられた。
関の外側にある僻地として見られていた坂東の、更に奥地。
当時は魔境として恐れられていた東北地方を鎮守する役割もあったこれらの国は、当然ながら京と比べて危険な場所であった。
そのような場所に皇族が赴く訳もなく、実務上の最高位は国守の次官の国介であった。
そのためこれら親王任国の国介は、他の国の国守と同等、あるいは皇族を担いでいるため格上だと見做される事もあった。
その認識は鎌倉、室町の武家による統治時代を経ても変わる事はなかった。
「つまり地方の統治を任せられた将軍家に連なる者が名乗るべきだと思うのですよ」
「ならば伊勢の末裔に関東を好き勝手されている今川家にも、その資格はないように思われるが?」
流石に、信秀の前で『新興の勢力に押されて勢力を削られている』とまでは言えなかった。
「それでも今の吉良よりはマシでしょう」
「んふふふふふ」
「うふふふふふふ」
「やめぬか、二人共。畿内の空気にあてられたか!?」
睨み合い、険悪な空気を醸し出す義安と氏真を、信秀が一喝する。
気まずそうに顔を逸らすものの、不満は残っているように見えた。
「弾正忠殿の言う通りですな。喧嘩は国へ帰った後で存分にやればよろしい。今の吾らは三好に対抗するため一枚岩でなくてはなりません」
そんな二人を諫めるように、低くよく通る声が空気を切り裂く。
その言葉は、盃などまどろっこしいとばかりに、瓶から直接酒を飲んでいる青年から発せられたものだった。
整った顔立ちに、微かに微笑んでいるようなその表情はどこか神々しく、まさに仏のような雰囲気を纏わせていた。
「それはその通りだと思うのだが、其方がこの場にいる理由をまだ聞いておらなんだな、弾正少弼殿?」
「大樹が三好の専横に苦しんでいるとなれば、どのような時でも駆け付けるのが幕臣というもの。定めし四方が満たされてこその静謐ならば」
そう言って酒の入った瓶を抱えるようにしてあおり、長尾弾正少弼平三景虎は笑ったのだった。
信廉「え? なんでもう謙信がいるの?」




