和睦
今川軍本陣で陣太鼓が打ち鳴らされ、それが徐々に安祥軍の方へと伝わって来た。
俺のいる本陣にまでその音が聞こえてくるようになると、こちらの防衛部隊に苛烈な攻撃を仕掛けていた今川軍の動きが止まる。
「今川治部大輔義元が降伏いたしました!」
暫くして黒祥衆が陣幕に飛び込んでくるなりそう報告する。
最初はその言葉の意味を理解しかねていた。
俺を含め、陣幕にいる人間は全員呆けたような表情を浮かべていたと思う。
まるでシンクロニシティのように、全員が一斉に同じ考えに達し、そして力の限り叫んでいた。
「勝鬨だ! 勝鬨をあげろおおおおぉぉぉぉぉぉおお!!」
「「「えい! えい! おおおおおおおおおおおお!!」」」
安祥軍の本陣から勝鬨があがると、今度はそれがこちらの防衛陣地に波及していく。
勝った! 勝ったんだ!
正直まだ実感が湧かないけれど、それでも俺は勝った。
この時代では戦国最強とも言える大大名、今川家に俺は勝った。
時間と物資が限られた遠征軍でもない。
属国の人間を中心に構成された軍隊でもない。
今川義元が率いる、今川家本隊。今川家そのものに、俺は勝ったんだ!
けれどその後の報告を受け、俺は少々複雑な気持ちになる。
松原福池、討ち死に。
戦に出る以上、それは避けられないリスクとは言え、やっぱり堪える。
他の武将が討ち死にする時に湧く感情は、どちらかと言えば吝嗇に近いものだろう。
あんなに有能なのに勿体ない。これからの安祥家に必要なのに惜しい事をした。
相手が死んだ事に対する悲しみや寂しさも勿論あるとは言え、どうしてもそんな感情が先に立つ。
けれど福池は俺の尾張時代からの家臣だ。
能力もさることながら、その過ごした時間の長さと濃密さを惜しむ。
……傷心に浸るのはあとでいくらでもできる。
今は安祥軍総大将としての仕事をしなければ。
その後、今川家からの使者が陣幕を訪れ、和睦の交渉についての打ち合わせを行った。
条件のすり合わせも何度か書状でやりとりして行い、最終的に俺と義元が顔を合わせる段階にまで至る。
場所は天竜川西岸に拵えられた陣幕だ。
義元に天竜川を越えさせたというだけでも、どちらがこの交渉の主導権を握っているかわかるというもの。
しかも交渉の際、俺は軍勢を引き連れて行ってもいいが、義元は護衛の数名だけ。
勿論、陣幕の後方には今川軍が待機するけれど、これは義元にとって相当屈辱なはずだ。
伝え聞いた話だと、本陣を強襲された事で敗北を悟って降伏したって訳じゃないらしいからな。
討ち死に寸前のところを、降伏する事で命を拾ったという感じだ。
「今川治部大輔義元である」
「安祥三河守五郎太夫長広でございます」
それでも一応、年齢も家格も外から見た立場も向こうが上となれば、それなりの敬意は払わなければならないだろう。
俺の前に現れた義元は、伝え聞いていた通りの肥満体。甲冑はつけず、烏帽子を被り、豪奢な礼服を身にまとっていた。
けれど、わかる。
義元全体から醸し出される雰囲気、オーラのようなものが感じられる。
公家かぶれの愚将なんてとんでもない。
群雄割拠の戦国乱世を生き抜いた、数々の修羅場をくぐった歴戦の戦国大名がそこにはいた。
「和睦の条件は伝えてあった通り。天竜川以西の割譲、二年間の停戦、交易にかかる関税の撤廃。そして太原雪斎の首の返却」
「聞いておる。正直、それで良いのか、という気がせんでもない。天竜川以西の遠江を奪われるのは確かに痛いが、この義元を自刃寸前まで追い詰めた側の要求としてはあまりにも欲がないの」
「我々としては、今川家から今後永久に攻められる事がなければそれでよいですから」
「それならば素直に首を垂れればよかったであろう?」
「安祥家はあくまで織田弾正忠家の分家ですので、他の家を頂くわけには参りません」
今川に降らせたいなら、尾張の割譲を確約するんじゃなくて、尾張への不可侵を約束するべきだったな。
「そこよな。そこを見誤っておった。そちが安祥城に入った時から、余はそれを見抜けなんだ」
俺の言葉に、義元は心底から悔しそうな声を出す。
「そちの行動原理がそこにあるとわかっていれば、もっとやりようがあったものを……」
まぁ、戦国武将、大名としてはかなり異質だよな。
家を守りたい。生き残りたい。
そのために安全に暮らしたいなんてさ。
「安祥家の、織田弾正忠家の安全を確保するには、三河の平定は必須。今川家の立地を考えると、西進は当然なのでこれを阻止するためにも遠江を押さえる必要がありましたからね」
それこそ、三国同盟が締結されていたら、義元は降伏してなかっただろうし、何より俺達との戦にもっと慎重になっていただろうな。
「だがその異質さゆえに、今川家は存在を許される」
言って義元は口元を歪めてこちらを見た。
「天竜川に投入された戦力があれば、こちらが動くより先に川を渡り、もっと東で決戦ができたはずだ。川は防衛に適しているが、同時に反撃も阻害するからの」
義元の言いたいことを俺もなんとなく理解する。
「余の降伏も受け入れず……ち、やはり面白くない言葉だの。まぁよい。余の降伏も受け入れず、そのまま駿河まで進む事もできたはずであろ?」
俺は無言のまま、リアクションも取らない。
「つまり安祥は……そちは、余に生きていて欲しいのだ。今川家が滅んでしまうと困るのだ」
俺の顔を覗き込むようにして、義元は身を乗り出す。
俺の背後で思わず動く護衛たち。義元の護衛は、主君の奇行に動揺している。
「武田や北条に対する、壁が必要だったのだろう?」
「……流石の慧眼でございますね」
素直に俺は義元の言葉を認めた。
「では、本心がわかったところで本題といくかの? そちは余に何をさせたい?」
声のトーンが陣幕に入ってきた時のものに戻った気がした。
見抜かれた、出し抜かれた、というより形式的な和睦の交渉をしたくなかっただけのようだ。
公の場で話す事のできない秘密裏の話。
それを俺から引き出したかったんだろう。
それならそれで話が早い。
義元もその気なら、俺がこれから話す事が弱みになる事がない。
足元を見られなくて済む。
「関税の撤廃は一見すると商人かぶれの安祥にとって有利かもしれぬが、こちらにも利がある。安く品物が手に入るからの。国内の同じような商品を扱う商人にとっては痛手だが」
そう。それはこちらが軍資金を稼ぐと同時に、戦で弱った今川家を支え、建て直す事にも繋がる。
「町が栄えれば人が増え、人が増えれば税収が増える。そして、税収が増えれば国は富む。戦で負けた相手にする方策ではないの」
勿論、やりようによっては全てを奪う事もできる。
安く品物を卸して駿河の商人を壊滅させ、その後交易を制限すれば可能だ。
時間がかかるけどな。間違いなくその前に武田や北条が駿河を食い荒らしにくるだろう。
「先に治部大輔殿が見抜かれた通り、我々は今川家に、武田や北条に対する備えになっていただきたい」
「そちが駿河を食らい、どちらも相手にするという道もあるが?」
「非才なこの身には手に余ります」
「その謙遜は、そちに敗れた余の家臣を侮辱していると理解しておけ」
「申し訳ございません」
言われて気付いた。
確かにその通りだ。俺が非才なら、俺に敗れた太原雪斎や朝比奈泰長はなんだったんだ、って話になっちゃうもんな。
「ただ、東海三国を有していても、それらの大国二つを同時に相手取るのは至難の業。それは治部大輔殿も理解しておられるでしょう?」
だからこそ、義元は外交で必ずどちらかを味方につけていたんだ。
「それこそ、どちらかと結んでもう一方を攻める事もできるのではないかえ? 攻めずとも、そのような状況なら相手から攻められる事もあるまい」
「それで条約破棄に怯えて暮らせと? 花倉の乱で今川が乱れた時、北条は何をしましたか? 川越の戦いに北条の目が向いた時、今川は何をしましたか?」
「むぅ……」
結局問題はそこなんだ。膠着状態を作り出しても、それが崩れる事を常に警戒していないといけない。
崩さないために富国強兵を推し進めたとしても、それを恐怖に感じた他の家が結託してこちらに刃を向けてくる可能性だってある。
義元亡き後の三国同盟。信長上洛後の包囲網。
歴史は何より最良の教師だ。
膠着状態は他の奴らに作らせて、こちらはその陰に隠れる。
情けない話だけれど、俺の狙いはそれだ。
「仮に武田や北条を攻め滅ぼしても、次に待っているのは別の敵です。越後の長尾、関東諸将。大きくなり過ぎれば、弾正忠家さえも敵に回るやもしれません。拙者はそのような連鎖から抜け出したいのですよ」
戦国乱世という泥沼から足抜けをしたい。
それは俺が物心ついてからずっと願っているものだった。
「ふむ、なんとなく理解したわ。それでは三河殿よ、最後に一つ聞こう」
呼び方が変わったな。義元の中で俺の評価が変化した証拠だろう。
「北は武田。東は今川。西は弾正忠家に抑えられ、安祥家は今後どのようにいたす?」
「なにも。三河と西遠の発展に努めます」
「そうか……」
こうして安祥家と今川家は和睦を果たした。
表向きは不戦を前提とした同盟だが、外から見れば今川家が折れた形なのは明らかだった。
さて、これで周辺国はどう動くか。
俺ものんびりしてはいられない。
戦後処理を手早く済ませて次の準備を急がないとな。
一先ず今川との戦が終了しました。
もうちょっとだけ続きます。




