不運な武将、今川義元 漆
三人称視点です。
『秋の葉が舞う季節となり虎の唸り声が聞こえてくる今日この頃いかがお過ごしでしょうか』
安祥家からの使者が持参した手紙はそんな一文で始まった。
『つきましては和睦に向けて前向きに交渉したいと考えております』
そして最後はそう締めくくられていた。
「なんだ、これは……?」
さしもの義元もそのような書状を受け取ったのは初めてだったので混乱していた。
それでも、書の内容を読み解くべく頭を巡らせる。
「秋の葉が舞う季節と言っているが今は夏だ。という事は、これは季節の話ではなく何かの比喩か? あるいは地名か? そういえば遠江と信濃を結ぶ秋葉道という山道があったな」
とすると聞こえてくる虎の唸り声というのは『甲斐の虎』武田晴信にかけた表現だろう。
武田が迫っているから和睦をしたいという申し出だろうか?
いや、武田はまだ信濃で遊んでいる最中のはずだ。
となるとこれは、武田から接触があった事を示していると見るべきだ。
武田と今川は同盟国だ。ならば、これ以上戦をすると今川の援軍として参戦するぞと脅されたのだろうか。
「いや、それならばあの山猿は何も言わずに襲いかかり漁夫の利を得ていくはずだ」
せめても、今川に先に話がくるだろう。
安祥家に先に接触する事は有り得ない。
「ならば和睦の仲介か? だが武田が何故?」
今川家が武田に頼むならともかく、武田家から提案するのはおかしい。
せめても、安祥家から武田家に要望するべき事例だろう。
「しかし何故それを書に記す? 武田家を味方につける事に成功したのなら、こちらには何も言わずに武田に駿河を脅かして貰えばよいだけではないか?」
はったりか?
農繁期に戦を仕掛けて、そのまま戦い続けられる安祥家に時間制限というものは存在しない。
ある程度持ちこたえれば、今川家は駿河に帰らなければならなくなる。
それまでの時間を稼ぐために、武田の存在を匂わせ今川家に攻撃を躊躇させるための嘘?
今川家が武田家に事実を確認しようにも、甲斐に問い合わせるだけでは不十分だ。
信濃に布陣している太郎晴信から直接指示が出たかもしれないからだ。
遠江から駿河。駿河から甲斐。甲斐から信濃へ伝令を飛ばし、そこから再び義元のいる本陣に戻って来るまでどのくらい時間がかかる?
書状一つでその間、今川家を拘束できるというならやる価値はあるだろう。
長広が義元の首を狙っている事はわかっている。
だがそれは、あくまで戦に勝つための方法だと理解しているのであって、安祥家の、ひいては長広の戦略目標を理解している訳ではなかった。
今川家を武田家や北条家に対する壁として残しておきたいと考えていると知らなければ、農繁期に今川家が撤退するまで待ち、その後天竜川を渡るつもりだろうと考えるのは自然な事だった。
「むむむ……」
これをはったりだとして破り捨て、このまま戦を続ける事は簡単だ。
だがもしも、本当に武田家と安祥家が通じていたとしたら?
義元の脳裏に、前に武田家から提案された三国同盟の話がよぎる。
わざわざ当主が同盟の締結のために赴くほど、武田にとっては重要な外交戦略だった。
ならば、あれが形を変えて実行される可能性は十分にある。
武田、今川、北条の三家による相互同盟ではなく、武田、北条、安祥の三家によるものとして。
「そうなれば、食われるのは我が今川家か……!」
武田と北条で駿河を、安祥家が遠江を分割統治する事で話がついていたとしてもおかしくはない。
勿論、三国同盟の話の時に義元と会っていたのは、晴信に扮した信廉であったし、晴信は三国同盟にそこまで拘っていない。
しかし、それを知らない義元にとって、その推測は限りなく事実に近いものとして彼の思考を支配し始めた。
「だがそれならば余計に何故和睦を望む……? いや、それ故にか」
三国同盟を結んだとしても、武田が信濃を攻略中である現在、今川家と安祥家との戦に武田の介入は望めない。
武田を待ってこのまま戦い続けたとして、『その時』が来るのはいつになるのか。
安祥家が今川家に滅ぼされるまで武田が動かなかったとして、そのような長い期間戦が続けば、今川も無事では済まない。
それを武田が待っている可能性もある。
仮に武田の援軍が間に合ったとしても、安祥家が疲弊していれば、武田が駿河を食らった後、遠江を食らわない理由が無いのだ。
最悪虎の牙が、三河を越えて尾張に届く恐れもある。
武田との同盟など、相手に『あいつらとは戦いたくない』と思わせ続けなければ続かない。
戦っても構わない、戦った方が利があると判断されれば、あっさりと反故にされるのが武田との約定だ。
それは、信虎の頃から変わっていない。
それを安祥家が理解してれば、武田が今川家との戦に介入して来た時に備えて力を蓄えておきたいと考えるのも自然だ。
そのための、講和の申し出。
「…………つまりどのみち、すぐに武田は出てこないわけだ」
はったりならば問題無し。本当に武田と結んでいたとしても、武田の援軍には時間がかかる。
ならば、攻めるのは今しかない。
「安祥家の使者は!?」
「ご命令の通り、天竜川渡河点近くの陣に待機させてあります」
「交渉のための書状を改める故、今しばらく待たれよと伝えろ!」
「はっ!」
命令を受けた伝令が本陣を出る。
「天竜川東の部隊からも兵を出す。源之助、すぐに抽出部隊の選別と物資の分配を行え」
「はっ!」
今回の戦で物資の管理を担当している関口氏兼が応えた。
彼は今川家一門衆である、関口家の分家の人間である。
「源五郎氏俊に通達。城を抑える最低限の兵を残し、できる限り攻撃部隊に回すよう!」
「はっ!」
命令を受けた別の小姓が本陣から走り出す。
当然、これらの動きは監視されている。
そのことを義元も理解していた。
そのため、本陣から伝令を出す時、タイミングを合わせて他の陣からも人を出すようにしていた。
あるいは、本陣から出た伝令が別の陣に向かい、その陣から別の陣にまた向かうなど、義元のいる本陣がどこなのかわからないよう工夫がなされている。
だがそれでも、想定外の事態に人は弱いもの。
義元や上級武士がどれだけ気を付けていようと、末端の兵まで冷静でいられるとは限らない。
本陣の近くに生えていた松の木の枝が軽く揺れたが、誰もそのことを気にしなかった。
関口源之助は氏兼の通称ではないようですが、源之助なる人物の詳細、氏兼の通称が不明である事、どちらも関口家本家の人間ではない事から、関口源之助氏兼という一人の人物とさせていただきました。ご了承ください。




