長広と信廉
「お初にお目にかかります。武田刑部少輔孫六信廉と申します。お目通り叶い恐悦至極に存じます」
「お初に目にかかる。安祥三河守五郎太夫長広である」
俺の前に座った、三十歳くらいの武士が頭を下げそう名乗った。
やべぇ、知らねぇ。
武田信廉はなんとなく名前を聞いた事がある。
確か信玄の弟で、影武者を任されたりとかしてた筈だ。
けれど生まれ変わってからはとんと名前を聞かなかったなぁ。
武田方面はあまり情報収集を行ってないってのもあるんだろうけど、それでも信玄や謙信の話はよく伝わって来たもんだ。
「回りくどいのはなしにしましょうか。私は二十一世紀の日本です。そちらは?」
まぁ、伝わってこなかった理由もなんとなく察せられる。
多分、情報を規制してたんだろうな。
俺と同じ転生者か……。
ひょっとしたら生まれ変わりとは違って、タイムスリップ的なものかもしれないけれど、まぁ、現代日本の知識があるのは間違いない。
俺以外にもそういう相手がいる事は想定してあったけど、まさか接触してくるとは思わなかったなぁ。
思わずすぐに通すように言っちゃったけど、普通に小姓や保長に反対されたからね。
身体検査をしてもらって、刀を取り上げてようやっと護衛抜きでの面会を部下たちが許可してくれた。
相手がその条件を飲んだのも、現代日本の感覚が残っていたからだろうな。
「……まぁ、誤魔化す意味もあまりないでしょうね。俺も、二十一世紀の日本です」
俺達が生きた世界が、同じ歴史の上に立つ世界なのかがわからないから、年代を細かく知る必要は薄い。
まぁ、知識や倫理観はそれほど変わらないだろう。
相手が俺なんか足元に及ばないクラスの歴史好きって可能性はあるけど。
そういえば、俺が知っている限り、この時代に牢人だったり、主家であまり良い扱いを受けてなかったりする人材を保長に探しに行かせた時、山本勘助や真田幸隆が既に武田家に雇われてたって事があったな。
あれは彼がいたからか……。
「わざわざ正体を明かしてまで会いに来たのはどうしてですか?」
とりあえず、聞いておかないといけない事がある。
武田家と安祥家の今後の話をするなら、別に転生者である事を明かさなくても良かったはずだ。
同盟関係にある今川家から請われて停戦の仲介に来たとしてもそれは同じこと。
転生者としての正体を明かせば、同じ転生者である俺に会って貰いやすいって利点はあるけど、どう考えてもデメリットの方が大きい。
それこそ俺が転生者だと推測できる理由は、『安祥長広なんて武将いたかな?』という弱々しいものだ。
俺だったら歴史の表舞台に出なかっただけで、そういう武将もいたのかもしれない、で流しちゃいそうだよ。
少なくとも、何かしらの理由で歴史が変わったか、俺の知ってる歴史とは別の歴史の戦国時代、と判断しちゃって、転生者だとは思わなかっただろうよ。
ああ、そのための『合言葉』か。
「簡単に言うと、武田家と安祥家で同盟を結びたいのです」
「それならわざわざ正体を明かさずとも、普通に使者を寄越してくれれば良いのでは?」
「早々に正体を明かしたのは、同盟を結んだあとにその方が便利だと考えたからですよ」
「というと?」
「武田家の史実の動きや、この世界でのこれまでの武田家の動きを知っていれば、同盟を結んだ後も裏切りを警戒する事になるでしょう。それでは真の信頼など得られません。しかし現代日本の歴史知識があると知っていれば、織田家に連なる安祥家との同盟を蔑ろにしないと信頼して貰いやすいでしょう?」
「ふぅむ……」
言いたいことはわからないでもない。
多少の歴史の差異はあれ、ある程度は『史実』に沿った世界になってるみたいだからな。
そら、将来的に天下統一まで行く織田家を敵に回すような事はしないよな。
織田家、というか織田信長が育つ前に弾正忠家を滅ぼしてしまうってのも一つの手だけど、武田の立地だとそれも難しいし。
しかも、彼は武田家の当主である信玄じゃなくてその弟だ。
今川や斎藤家と結んで無理矢理尾張に軍を派遣するのも難しいだろう。
…………。
「同盟の申し出は有難いが、具体的にはどのような関係をお望みですか?」
少々思うところがあって、そんな事を聞いてみる。
「尾張から西は織田家、東は武田家。いずれ信忠と松姫が結ばれるでしょうから、征夷大将軍は代々その家系、でいかがでしょうか?」
「随分と先の話ですね。しかも規模が大きい」
「あなたがただ二十一世紀の日本で生きていただけだというならこのような提案はしませんが、安祥家で行われている数々の事業を見れば、歴史の知識が相当あるのがわかります。自分で言うのもなんですが、私もそうです。その私達の知識を存分に使える武田家と安祥家が手を組めば、天下を取る事はそう難しい事ではないと思われます」
まぁ、歴史の流れを知ってるってだけでなくて技術も相当先取りしてる自覚はある。
安祥家と織田弾正忠家だけだとそれでも中々難しいけれど、それに武田家も加われば確かに相当有利に話は進むだろうな。
今のままでも史実より相当早く天下統一に辿り着けそうだけど、それがより早まるのは間違いないだろう。
「信玄……大膳大夫殿は今回の事を知っておられるのでしょうか?」
「はは。信玄で結構ですよ。今この時だけならば、晴信でも構いません。信長や秀吉と呼んだ方が我々にとってはわかりやすいでしょうし」
そう言って笑う信廉だけれど、どうやら口調まで変わった事には気付いてないっぽいな。
これはいよいよ俺の危惧した通りかもしれないな。
「兄晴信は今回の事を知りません。まぁ、内政に関してはある程度は私にも独自の権限が与えられていますので、事後承諾でも問題無いでしょう」
「武田家と今川家は同盟中でしょう? その今川家と戦をしている安祥家と同盟を結ぶ事が問題ないのでしょうか?」
「それこそが今回秘密裏に伺う事になった最大の理由でして……」
そこで信廉はにやりと笑う。
恐らく、本人的には渾身の策なのだろう。
「駿河を武田、遠江を安祥でいかがでしょう?」
つまり今川家を史実の通りに滅ぼすという事だ。
史実の徳川家の立場が安祥家だな。
「史実とは違って今川家は義元が健在ですよ。武田家も、信濃統一が済んでいない状況でそれは厳しいのでは?」
「駿河の海が手に入るとなれば、兄上も信濃よりも優先するでしょう。史実において、逃げた村上が越後の助力を得て再び北信濃に戻ってくるまでに時間が少し空きますからね。その間に片づけてしまいましょう。それまでに終わらなかったとしても、村上が北信濃で勢力を回復するのは史実通りですから、問題ありませんよ」
気楽に言うが、問題はそこじゃない。
「本当に、大膳大夫殿を説得できるのですか?」
「ん? まぁ二つ返事とはいかないでしょうが、説得は可能でしょう。すぐに駿河に派兵できるようになると……」
「武田家が駿河だけで満足するように説得できるのですか?」
俺が改めてそう問いかけると、信廉は口を噤んだ。
「刑部少輔殿が大膳大夫殿から全権を与えられていない事は、現在の武田家を見ればわかります。歴史を知っているなら、信濃に手を出す事は控えさせるでしょうし、信濃の制圧が必要だとしても、村上との戦はもっと慎重に行っているはずです」
けれど俺が集めた情報だと、それほど史実と変わらない道を歩んでいるように思える。
少なくとも、村上家に敗れた二度の戦、上田原合戦と砥石崩れは回避していたはずだろう。
歴史好きを自称する信廉が、この二つの戦を知らなかった訳がないし、大敗が確定しているこの戦について信玄に進言しない訳もない。
「故に、大膳大夫殿から刑部少輔殿があまり信頼されていない事が推測されますね。少なくとも、こと軍事外交関係に関しては」
「ぐ、軍事はともかく何故外交関係まで……!?」
図星だったのか、信廉が困惑した様子でそう尋ねた。
「外交を任されているなら、安祥家と結ぶより先に三国同盟を締結しようと考えるのでは?」
信廉がいつ俺の事を知ったか知らないが、今接触してきたという事は最近の可能性が高い。
武田家による天下統一、あるいは将来的に脅威となるだろう信長を先に潰す事を考えるなら、弾正忠家が尾張を統一するまでに倒すのが一番だ。
そのためには、今川家を対三河、尾張に集中させる必要がある。
それを成す事のできる三国同盟は早い段階で結ぶべきだろう。
「いや、三国同盟の提案自体は通ったのですよ。ただ、既にその時太原雪斎が討たれていたので、義元公を抑える人間がおらず話がまとまらなくてですね……」
俺の指摘に信廉はそう弁明する。
おお、雪斎を早めに討っていた事がここで活きるとは。
「それは申し訳ない事をした。ただ、これも戦国の倣い。こちらもただ蹂躙される訳にはいかなかったもので……」
「いや、戦の結果ですし、まぁ、それは……」
俺が頭を下げると、信廉は慌てた様子でフォローしようとする。
ただ、悔しさというか俺に対する不満を隠しきれてない。
「しかし三国同盟の提案が通ったのが太原雪斎が討たれた後、という事はやはりあまり外交の面で信頼されていない証拠では? しかも三国同盟締結を失敗しておりますから、更に信頼を失っていると推測できます」
「う……」
「武田家と同盟を結ぶ事自体は我々としても喜ばしい事です。それによって今川家と安祥家の和睦を仲介して貰うことだって可能な訳ですからね。しかし今川家を両家で分けるという取り決めでの同盟は有り得ません」
「それは何故ですか?」
「武田家を信用できないからですよ。駿河を得て信濃を平定した武田家が、関東ではなく東海、尾張を攻める気運が高まった時、刑部少輔殿はそれを止められますか?」
「と、止めてみせます……!」
そこはどもらず即答して欲しかったなぁ。
ああやっぱりこの人、戦国時代にあまり馴染んでないな。
戦国大名同士の約束なんて裏切られる前提のものだという事を理解してないっぽい。
だからこそ、相手と約束する時は、その前提があっても相手に自分を信じさせる何かが必要になるってのをわかってないんだ。
それは物理的なものだけじゃない。決死の覚悟なんて精神論でもいいんだ。
信廉からは、それが感じられない。
戦国時代の感覚に馴染み切らないうちに、乱世から足抜けしようと考えていた俺が、いつの間にか戦国時代にどっぷり浸かってしまっている。
思えば遠くに来たもんだ……。
「史実の通りに進むなら、武田家は織田包囲網に参加する事になりますが、その時にこれを止める事ができますか? 首尾よく天下を二分したとして、その後天下の全てを握るために武田家が戦を始めないと断言できますか?」
「う……む……」
「我々としても駿河を武田家に抑えられるくらいなら、今川家にそのまま支配して貰って、武田、今川、北条、安祥で膠着状態に陥る方がマシなのですよ」
「それは、どうしてでしょうか……?」
「武田や北条と領地を接したくない、というのが今までの理由でした」
そう今まではそうだった。けれど、今は事情が変わった。
「今は、刑部少輔殿が武田家にいるからです」
「それは何故!?」
「転生者に関東平野は渡せない」
「……!!」
ついに、信廉は絶句した。
「刑部少輔殿なら、この意味は理解できるでしょう?」
織田家と武田家で天下を二分する。その考え自体は悪くない。
素早く天下統一を果たし、この国から戦乱を無くすという意味ではかなり良い案だ。
けれどそれは、体勢が決まった頃に、武田家が織田家に弓を向けないという前提があって初めて成り立つ。
武田家が織田家を裏切らないという前提なら、武田家に関東平野を渡しても問題無い。むしろ東日本で絶対的な優位性を確保するためにも、早い段階で抑えて欲しいくらいだ。
しかし信廉の今の立場では、それを望む事ができない。
「今川家との和睦の仲介を前提とした同盟なら、受け入れる事は可能です。ただ、領地の配分は天竜川の東西で分ける事になりますが……」
「それは、今川家が納得しないでしょう……」
だろうな。俺もそう思う。せめて曳馬城あたりまでは譲歩しないと無理だろう。
けれどそれは安祥家の敗北と同義だ。
機を見て今川家が安祥家に戦を仕掛けてくる事は目に見えている。
「であるならば、同盟の話は安祥家が今川家と決着をつけた後にまたお伺いしましょう」
「……残念です」
仮に今川家が武田家の仲介を受けて、和睦案を受け入れるとしても、それには信玄が自ら動く必要があるだろう。
どのみちすぐに信廉がこの場で返事をすることはできないわけだ。
その辺りも甘いよなぁ、と思う。
ここでは信玄は自分の言いなりだ、とハッタリをかますべきだろうに。
あくまで信廉は俺を転生者仲間だと考えて話をしていたんだろうな。
自分と同じように、この戦国時代に染まっていないと思っていたんだろう。
戦国大名同士なら、交渉の場でハッタリやブラフをかます事は重要だし、空手形を切る事も普通の事だ。
けれど信廉は俺を戦国大名安祥長広ではなく、転生者として接してしまった。
まぁ、この殺伐とした世界にあって自分と同じ転生者を見つけたら、仲間意識が芽生えてガードが緩くなるのも仕方ない事だとは思う。
現に俺も最初は警戒が緩んでいたからな。
信廉が武田家でどういう扱いを受けているのか知らないが、それなりに悪くない待遇なのは想像できる。
強い兄の庇護下で暮らす信廉と、早々に独立してむしろ弟達を守る立場になった俺との違いが、こうした思考の差に現れているんだろう。
俺も転生したのが信広じゃなくて、信行だったなら、信長の下でぬくぬくできたんだろうか。
「まぁ、すぐに武田家と安祥家で戦になるという事もないだろう。案外、我らと今川家の戦に決着がついたら、大膳大夫殿と父、弾正忠の間で約定が交わされるかもしれんわけですし」
「そうですね。これからですよね……」
俺の言葉に力なく笑う信廉。
「部屋を用意する故、今宵は泊まっていかれよ。清酒をはじめ、安祥家で作った様々な食べ物を用意させましょう。久しぶりに、日本の話をしたい」
「おお、それは是非」
俺の誘いにあっさりと乗る信廉。
同盟の話を断ってしまった事に罪悪感を覚えた俺が気を使っているとでも思っているのだろうか。
やっぱり色々甘い。
いずれ敵になる可能性のある家に存在する、俺と同じか同等以上の知識を持った転生者。
そんな危険な存在を前に俺が大人しくしていると考えられる甘さ。
しかも彼は、俺に今回の来訪を信玄に秘密にしている事を教えてしまった。
ここで信廉を殺しても武田に伝わる可能性は非常に低く、その上で将来的な懸念材料を取り除く事ができる。
それに思い至らないあたり、やっぱり甘いな。
翌日。日が昇るより早く護衛をつけて信廉を送り出す。
一応信廉自身も護衛を連れてきていたけれど、曳馬城まで近付くには一人で行動する必要があり、護衛は山間部と遠州平野の境目辺りにある宿場町に置いてきたそうだ。
さて、武田家の助力を得る事は適わなかったけれど、信廉は良いタイミングで来てくれた。
「祐筆を呼べ。これより今川家と和睦いたす」
これは間違いなく、義元の背中を押す良い材料になる。
これで駄目だったなら、まぁ俺も覚悟を決める必要があるだろうな。
幾つもの実戦を経験した事で随分と戦国時代に染まってしまった長広。
一度も実戦を経験していないせいで戦国時代に馴染んでいない信廉。
二人の思考の差異はこれからの武田家と安祥家の関係にも影響を及ぼすでしょう。




