天竜川の戦い 伍
今川軍と睨み合うかのように、膠着状態に陥って暫く、戦況は悪化していないが好転もしない状況が続いていた。
今川軍の動きも鈍っているけれど、縦に伸びていた戦線を整理し、強大な一個の塊となってじりじりとこちらの防御陣地を進軍している。
天竜川東には今だ幾つもの部隊が残っていて、義元は当然そのどこかに隠れたままだ。
その本陣と天竜川を越えた部隊との連携が途切れていないのは、攻撃部隊の統制が取れた動きを見れば明らかだった。
うぅむ、しぶとい。
天竜川渡河後から部隊を二つに分けた今川軍の攻撃部隊はこちらの半分もない。
けれど、こちらも相手の別動隊のせいで、防御陣地周囲の城や砦から援軍を出せないでいた。
それでもまだこちらの防御部隊の方が、相手の数より多い。
攻撃側には防御側の三倍から五倍の戦力が必要という定石に則って考えれば、今川軍が曳馬城まで到達する事すら不可能なはずだった。
ただあくまでそれは、それだけの数がいないと拠点の攻略に失敗する、という話であって、防御側が攻撃側を壊滅させられるという話じゃない。
勿論、通常の戦であれば、拠点の防衛が叶えば、それは防御側の勝利だろう。
今回だって、今川軍が攻勢を諦め、撤退したならばそれで俺達の勝利だと言えるはずだ。
けれど、それではこれまでと同じ。
また同じように暫くしたら今川軍と戦が始まり、また同じように戦う事になるだろう。
今川軍の撤退によるなし崩し的な勝利じゃなくて、義元を交渉の場に引き摺り出し、不可侵条約なり同盟なりの書面を交わさなければならない。
けれどそのためには、必要な何かが足りない。
義元が交渉の場に来なければならない理由が、今のままじゃ足りないんだ。
とは言えどうするか。
多少の被害を覚悟してでも、攻撃部隊に対して包囲殲滅戦を仕掛ける?
しかしそれで義元本隊に逃げられたら意味がない。
本隊が駿河に帰り着いたあと、駿河が無事な状態で義元が講和に応じるかと言われると微妙だ。
期間を限った停戦なら可能だろうけど、それ以上となると難しいだろうなぁ。
それを望むなら駿河まで進軍しないといけないだろうし、その間、弱った今川家に対して武田や北条が大人しくしていると思えないし。
今川家を滅ぼすだけならそれでもいいんだけど、関東や武田の壁に利用するなら、あくまでこの戦の延長として講和を結ばないといけないんだよな。
ならこちらの城や砦と睨み合っている別働隊を叩くというのはどうだろう?
これが叶えば今川家としても無視できない打撃を受けた事になるし、攻撃部隊が包囲殲滅される恐れも出てくる。
その段階で和睦を申し入れれば向こうも乗って来てくれる可能性は高いだろう。
攻撃部隊と違って大きな損害を与える事は難しいだろうけれど、その分こっちの被害も少なくて済みそうだしな。
問題はそのための戦力をどうやって確保するかだな。
抑えられていない砦や城から戦力を回す事もできるけれど、今川軍の別動隊が他にいないとも限らないし。
三河から呼び寄せるのが一番確実か。
「殿、よろしいでしょうか?」
曳馬城に用意された自室で今後の方針を考えていると、扉の向こうからそう声がかけられた。
「何用か?」
「殿にお目通りを願っている者が参っております」
「何? その者の素性はわかっているか?」
今のこの状況で俺に会いたいとは誰だろうか。
今川家の和睦交渉の使者とかだと有難いけれど……。
「武田家の遣いだと……」
「武田家ぇ!?」
この状況で武田家が何の用だ?
確か今武田は北信濃攻略の真っ最中のはず。史実だとそろそろ村上義清が越後へ逃れる時期か?
信濃平定の算段がついたから、こちらに接触を図ってきたんだろうか?
信濃の美濃や遠江、三河との国境沿いにはうちと同盟関係にある江儀遠山家をはじめ、いくつかの小勢力が残っているけど、西に向かう気がないなら無視して構わないだろうからなぁ。
会って話だけでも聞くべきか?
ひょっとしたらこれが今川を降伏させるための最後のピースになるかもしれないし……。
「……殿がお会いするのを渋るようでしたら、一言伝えて欲しいと言付かっております」
俺が中々返事をしないでいると、扉の向こうの小姓がそんな事を言い出した。
なんだろう? 困惑しているような感じの声色だな。俺を挑発するような言葉でも伝えられたか?
「千五百八十二年、本能寺の変……」
「すぐに通せ! そして護衛を含めて誰も部屋に近付けるな!」
小姓が言い終わるか言い終わらないかのうちに、俺はそう叫んでいた。
誰が訪ねて来たかは丸わかりですが、一応伏せたまま次回に続きます




