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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第六章:遠江乱入【天文二十年(1551年)~天文二十一年(1552年)】
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天竜川の戦い

三人称視点です。


「やはり天竜川の対岸には野戦陣地が構築されておるか」


天竜川東岸より一キロ程の位置に本陣を置いた、今川義元は独り言のように呟いた。

彼と同じく周辺地図に目を落としていた武将達も無言で頷く。


「矢作川の時と同じですな。しかしそれより幾分大規模なようで」


「人員が多ければ規模も大きくなる。当たり前の話であるな」


「しかしそれを見越して準備をなさっていた治部大輔様はさすがでございます」


「ふん、虎の子をを狩るにはその巣穴に潜らねばならぬ。ならばそのための準備をするのは当然ではないか」


部下の露骨とも言える称賛の言葉に、そうとは知りながらも義元は悪い気はしなかった。


「戦とは実際に矢や槍を交えるまでにどれほどの準備を整えられるかにかかっておるでな」


そう言って義元は口元をにやりと吊り上げた。

この戦に対して、義元は百隻以上もの小舟や筏を用意していた。


長広を討つにあたり、天竜川を越える必要がある事はわかっていた。

そして、渡河中の軍隊は敵にとって良い的である事も。


一万を超える部隊を揃えたとしても、その部隊が縦に並んで川を渡れば、全部隊が渡河完了するまでに凄まじい時間がかかるだろう。

そして、その時間はそのまま敵から無防備に攻撃を受ける期間となる。


ならばと義元は考える。

天竜川をまともに越えようとすれば決して看過できない損害が出る。

ならば、まともに越えなければ良いと考えた。


大軍が一度に天竜川を越えるようにすればいいのだと考えたのだ。


縦に並べば、相手は先頭から順番に攻撃すれば良いだけになる。

だが、横に並べばその限りではない。


迎撃の手は間違いなく足りなくなるし、全部隊が渡河完了するまでの時間も短縮できる。

言うなれば、対岸に拵えられた野戦陣地に対する飽和攻撃。


しかし、これは言うは易しの典型例でもあった。


何せ天竜川は、昔から『暴れ天竜』と呼ばれるほどの激しい流れを持つ川だ。

それ故に、限られた渡河点は重要地点として認識されているのだ。


筏と船を用意すれば、どこからでも渡れるというものではない。


だから、まともな指揮官であれば思いついてもこのような策は却下する。

敵に殺されるのとは別に、川に飲まれる事で兵に損害が出るからだ。


しかし義元は決断した。


強引な渡河によって生じる損害より、敵の想定内で戦う事を嫌ったためだ。


その判断が正しかったかどうかは、義元にさえわからない。

ただ彼は信じるだけだ。


『海道一の弓取り』と称される自分の才覚を。

その才能を花開かせてくれた、今は亡き師の慧眼と手腕を。





天竜川の西岸には、南北五百メートルにわたって長い塹壕が掘られていた。

それが五列。

しかもそれぞれの塹壕の手前には、突撃防止のための太い丸太で作られた柵が拵えられている。


「今川軍、渡河開始しました!」


「鉄砲隊、構え!」


物見からの方向を受け、陣地の一部を任された井伊直盛が、長広から預けられた兵に命令を下す。


昨日今日降ったばかりの武将にこうして兵を託す。

それも、まだよその国では運用どころか、数を揃える事さえできていない鉄砲隊をだ。

その長広の度量の広さに、直盛は今この時にも驚かされていた。


今川義元という強大な敵を前に、使えるものはなんでも使うと考えただけかもしれないが。


井伊谷周辺の領民でなければ、直盛が反旗を翻そうとしても従わないかもしれない、という打算もあるのかもしれない。

降った兵を前線に配置する事で、自分達を危険から遠ざけるというのはよくある話だ。


それでも、渡河してくる敵を迎撃する部隊などという、重要な役目を任される事に、多少自尊心が満たされないでもなかった。


理由は一つではないのだろう。

幾つもの理由があるのだろう。


だからこそ、直盛は思う。上手い、と。


「敵はどの地点を渡って来る? ここから攻撃可能か!?」


「はい、虎松さま。可能です。何せ敵は我らの目の前を渡ってきておりますから」


「なんだと? 我らの前はそこまで渡河に適した場所ではなかった筈だが?」


「敵は大きく横に広がり、ほぼ全軍で同時に天竜川を渡って来ております。現在、天竜川は今川軍で埋め尽くされております!」


「なんと……!? そのようなことをすれば少なくない被害が出るぞ……!」


「義元が稀代の愚将でないならば、その被害よりも渡河を優先せねばならない理由があるのでしょう」


言われれば直盛も納得する。

まともな方法で渡河をしようとすれば、この野戦陣地を攻略する事は難しいだろう。

それは、全容を説明された訳でもない直盛でさえ想像がついた。


そしてそれを理解したからこそ、義元もまともな方法を取らなかったのだ。


そしてそれを理解すると同時に、直盛は自分が戦っている相手の強大さに身震いする。


今川軍は天竜川東岸に到着したのち、僅かの休憩を挟んで渡河を開始した。

それはつまり、事前にこの無謀な渡河のための準備をしてあったという事だ。


三河での安祥家の戦い方を知っていれば、安祥軍が天竜川の対岸に防衛陣地を築いている事は予想できるだろう。

だが、それに対してこの無茶な作戦を立案できる義元の知略に驚かされた。

その無茶な作戦を、家臣達に納得させ、兵に実行させてしまう統率力に震えた。


「だが、ならば異形の虎も負けておらんな」


そして義元が、自分達の策に対応してくるだろうと見抜いていた長広に尊敬にも似た驚きの感情を抱いていた。


南北に五百メートルを超えるという長い防衛陣地。

そして、そこに満遍なく部隊を配置している。


一見無駄とも思えるこの配備は、今川家が全軍で同時に渡河してくる事がわかっていたようではないか。


巨人同士の腹の探り合い、先の読み合い。

戦とはどれほど机上で策を練ろうとも、結局実際に戦う者達の練度がものを言うと直盛は思っていた。


しかし、最早この戦は、彼の考えの及ばない領域に達しているのだと理解した。


「射程内に入り次第、射撃を開始させよ!」


すぐに直盛は考えを切り替え、部下にそのように命じる。

何も深く考える必要は無い。直盛が命じられたのはこの地点の防衛であり、移動や撤退が必要なら、その都度命令が下される事になっている。


ならば、それに従うまで。


「考えが及ばない者が勝手に動いて、この盤上を崩す訳にはいかぬ」


そして直盛の部隊が、渡河中の今川軍に射撃を浴びせかけたのと同じ頃、陣地のあちこちから銃声が聞こえたのだった。


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