機を待つ間に
刑部城の落城を受けて、俺は部隊の一部を刑部城に入れた。
庵原家とその家臣と話をするためでもあったけれど、一番はこの刑部城を今後の遠江侵攻の拠点とするためだ。
次の目標は浜名湖内に突き出した中で最大の半島、庄内半島北部に築かれた堀江城。
ここを支配する大沢家は、その祖を中臣鎌足まで遡るとされている、戦国武将の中でも屈指の歴史の長さを誇る家だ。
しかも、多くの武将が家系図を捏造したりして、無理矢理自分達のルーツを源平藤橘に結び付けているのに対し、大沢家は紛れもなく名門の血統なのだという。
大沢氏は貞治年間(1362~)に丹波国大沢村から地頭職として下向して来たと言われている。
その時はまだ藤原姓を名乗っていたが、下向後に大沢を名乗るようになったみたいだ。
その後も周辺の支配を続けていたが、戦国時代に突入すると、守護である斯波氏に仕える事になる。
今川家の斯波氏打倒後はそのまま今川に仕え、浜名湖の船の往来を支配する権限を与えられるほど信頼を得るまでになっていた。
堀江城は三方を浜名湖に囲まれた要害で、間違いなく攻めるのが難しい城だ。
けれど井伊谷城を支配下に置き、刑部城を抑え、そして浜名湖の北東部、細江湖に面した位置に砦を築いた事で、一応はこの堀江城を閉じ込める事に成功した。
勿論、浜名湖が今川家の支配下にある以上、完全に閉じ込めているとは言い難い。
そのための対策は当然ながら講じていた。
その一つが吉田城から太平洋岸を通って浜名湖南へ出陣した西尾吉明の部隊だ。
浜名湖北西部で戦が始まった段階で、浜名湖の西側の勢力の多くは宇津山城に入っていた。
渥美半島の東、多米峠から部隊が遠江に入っていたなら、国境に置かれた勢力はそのまま部隊を受け止めて、宇津山城からの援軍を待つ。
今回俺がやったように、遠江の北側、本坂峠や宇利峠から入った場合は、宇津山城に兵力を集めて浜名湖の水運を使って各城で連携を取る。
それが西遠の今川方勢力の防衛戦略だった。
けれど、俺が部隊を二つに分け、宇津山城を抑えている間に浜名湖北部を攻略しているため、彼らの戦略は根本から破壊された。
宇津山城が攻撃を受けている状態では、各城に援軍を出したり物資を運んだりできる訳がない。
反対に、他の城も攻撃に備える必要があるから、宇津山城への援軍に向かえない。
浜名湖の水運を用いた連携構想は、現在その半分が機能不全に陥っているんだ。
浜名湖の東側から物資の供給や援軍を送る事しかできない。
それにしたって、俺が刑部城を抑えたせいで、各城の動きが消極的になってるんだよな。
元々遠江の防衛構想は東三河の勢力が色気を出して遠江にちょっかいを出してこないようにするためのものだ。
せいぜい、西三河や美濃、信濃の勢力を後ろ盾にした小勢力が嫌がらせで攻めてくるくらいの想定だっただろう。
三河を完全に支配下に置いて全力で殴りかかって来る相手を想定していないんだ。
宇津山城に浜名湖西の勢力を敢えて入れさせ、陸路を附城で塞いで籠城させる。
当然、中の人間が多ければ物資の消費は早くなり、宇津山城の陥落は早まる。
浜名湖周辺の勢力も援軍を出そうにも、北部から北東部にかけてを俺に押さえられているから動けない。
そして浜名湖南。
明応の地震で浜名湖と太平洋が繋がって以降、津波や大雨の被害に度々見舞われたその地は、殆ど捨てられた地のようなものだ。
東海道の難所として関所が置かれたのは江戸時代に入ってから。
勿論、渡し船は現在でも存在してるけれど、通常の川と比べて波が高く、流れが読みにくいこの今切を行軍しようなんてバカはまずいない。
そのため、今川勢も、宇津山城から直線距離で南南東に約6キロ、今切から北西に約4キロの位置にある小高い丘の上に築かれた松田城に、この地の抑えを任せきりだ。
東海道を監視できる位置でもあるので、確かに本来ならばこの城一つで十分ではあったのだろう。
新居内山の麓に築かれ、東側は浜名湖に守られているので、浜名湖南を抑えるには十分すぎる堅城だった。
今川氏親の時代に、当時今川家所属だった北条早雲が三河侵攻の拠点にしていたという話もあるくらいの重要拠点だったんだ。
宇津山城が築かれるまでは。
防衛構想の中心が宇津山城に移ってしまったので、この城の価値は下がった。
誰も通らないだろう浜名湖の南。
仮に通る者がいても、松田城だけで十分対処可能な数しか有り得ない。
刑部城と同じく遠江の東西を繋ぐ要衝でありながら、気の緩んだ空気が蔓延していたのは、仕方のない事だろう。
湖西連峰の南を通り抜け、新居内山から攻め寄せて来るなんて、完全に想定外だった筈だ。
とは言え、吉明の部隊で松田城を落とせるとは思っていない。
奇襲で落とせるなら越した事はないけれど、まぁそこまで期待していない。
無理はするなと言ってあるしな。
彼らの役目は、浜名湖周辺の勢力に、今切を安祥軍が渡ってくるかもしれない、と思わせる事だ。
浜名湖の水運は堀江城の大沢家が支配している。
それは、浜名湖南の渡し船も同じ事だ。
安祥軍による浜名湖南への強襲の報を受けた大沢家が取る手段は当然一つ。
渡し船を全て隠してしまう事だ。
まぁ、渡れなければ立ち往生するしかないんだから当然だよな。
勿論自前で船を用意する事も相手は想像するかもしれないけれど、国境の険しい峠道を、多数の兵を運べる船を持って超えて来るというのは現実的じゃない。
現地徴発で間に合わせるつもりだと、誰だって考える。
そう考えさせるために、吉明の部隊に船や筏を曳かせていない。
彼らの役目は松田城を囲んで、援軍を抑える事。
今切から浜名湖の東へ抜けるつもりだと思わせる事。
そして浜名湖南部沿岸に置かれているだろう船を隠させる事。
それによって、今切から浜名湖内部へ突入する艦隊を邪魔する相手がいなくなるんだ。
「それで三河守様、今後の弾正忠家とはどのような関係を続けていかれるおつもりですか?」
「どのようなもなにも、これまで通り宗家と分家の関係だ。父上が当主の今も、代替わりした後も、それは変わらない」
「弾正忠家から経済的な支援を受けているという事ですが、三河はそれほど貧しいのですか?」
「すぐに銭が必要な時だけ頼っているだけだ。基本的には三河は三河で独立して生きていける」
「吉良家の人間を何人も雇っておられるようですね、将軍家との関係は?」
「今のところは何もないな。弾正忠家なら、斯波家を通してある程度の繋がりはあるだろうが」
「正室は既におられるようですが、男子を産んだのは側室とのこと。二人の相手にわだかまりは?」
「儂が見ている限りは無いな。そもそも肩書の違いだけで、儂は正室、側室で扱いに差をつける事を好まぬ」
刑部城で周辺の取り込みと、調略を行いながら状況の変化を待っている間、俺は庵原忠良からの質問攻めに遭っていた。
俺も彼も決して暇ではない筈だが、時間を見つけては俺に色々な事を聞いて来る。
しかも、俺の手が空いた時を上手く見計らってくるから逃れられない。
「三河守は自称ではなく朝廷より直接賜ったそうですな。公家との今後の関係は?」
「良い関係を築いていきたいと思う」
「仮に今川家からの反撃を受けた場合どのようになさるおつもりで?」
「国境まで下がる事になるだろうな。そこでなら、十万の兵に寄せられても、防衛は叶うと考えておる」
「普段は奥方とはどのように接されておられるので?」
「仲良くしている。詳細は個人的な話故、避けさせて貰おう」
軍事、政治、経済の話に混じって、ちょくちょく家族の話、それも妻の話が出るのは何故だろう。
いや、流石にここまでくれば俺でもわかる。
蛇姫を嫁がせるのに相応しいかどうかを見定めているんだろう。
何せ、一族皆殺しの脅しよりも、蛇姫の無事と婚姻の自由を保証した方が交渉が上手くいくんだからな。
ちなみに、蛇姫の姿は見ていない。
そこまで隠されると逆に気になるのが人間というものだけど、使者を任せていた井伊家の奥山朝利から、
「奥方を好いておられるならお会いにならぬ方がよいでしょう」
というもの凄く気になる忠告を受けてしまった。
しかも朝利は声を聴いただけってんだから、余計だ。
「庄太郎殿、蛇姫の婚姻はそちらから申し込むものだけに限るとは言ったが、あまり無茶は……」
「わかっております。武家にはやはり格というものがございますからな。代々今川家に仕える名門の血筋とは言え、我らは所詮分家。あまり高望みはしませんよ」
つまり、新興の初代当主なら釣り合うって事か。
しかも事細かに聞いて来るって事は、その上で、俺に当主としての魅力が必要だと考えているんだな。
安祥家の方が庵原家より下に見られてるって事ね。
まぁ、力関係はともかく、家格で言えば向こうの方が確かに上なんだけどさ。
というか俺の中で蛇姫の容姿のハードルがガンガン上がってるんだよな。
余程の美人じゃないともう驚けないぞ。
土田御前も相当美人だったし、信長なんか凛々しさが加わって輪をかけて美人に育ったからな。
帰蝶も二人程ではないとは言え、美人の部類に入るだろうし。
「ところで吉良家は将軍家に連なる家ですよね。その子孫がいずれ将軍家を継ぐ可能性はあるのでしょうか?」
「無いとは言えないだろうな……」
結局高望みしてんじゃねぇか。
義安が子供いないし丁度良いかと思ってたけど、これ逆に紹介するとまずいな。
年齢的にはうちの吉次あたりが妥当か?
血筋に上手く騙されてくれればいいけれど、親バカとは言え、いや親バカだからこそ、その辺りは入念に調べそうだしな。
ああ、雅勝。
早くお前の声が聞きたいよ。
雅勝とは伊丹雅勝。安祥家の水軍衆を率いています。彼からの報告が無いと現状動けません。
答えちゃいけない事まで答えさせられてるかも……。
井伊家救援の前に安祥軍が築いた砦が堀川城の代わりになる感じですね。




