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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第六章:遠江乱入【天文二十年(1551年)~天文二十一年(1552年)】
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庵原家

三人称視点です。


「今、安祥家の大軍がこの刑部城へ向かっている!」


浜名湖北東に位置する刑部城は浜名湖に注ぐ都田川に三方を囲まれた要害の地に築かれている。

姫街道を扼する事のできる場所でもあり、遠江の東西を繋ぐ要衝を抑える位置にあった。

丘陵部の先端に築かれている事もあり、正攻法で攻め落とすのはいかにも困難を極めそうだった。


「彼らの目的は遠江の東西を繋ぐ要衝の地であるこの地の掌握、そして――」


その刑部城の城内で、数百の兵を前に、一人の武将が声を張り上げていた。

彼は刑部城城主、庵原忠良である。

忠良の生家である庵原家は、今川家に代々仕える譜代の臣であり、義元の教育係にして、宰相も務めた太原雪斎の生家でもあった。


忠良の祖父が雪斎の父にあたり、忠良の父は雪斎の弟である。

つまり彼は雪斎の甥なのだ。

庵原家の分家であるとは言え、遠江を支配するうえで非常に重要なこの地を任されているのも、納得の血筋だ。


「――我が娘、蛇姫だ!!」


忠良の言葉に兵達が怒りの声を上げる。

勿論、安祥家からそのような要求は来ていない。


降伏の使者こそあったが、城と領地の没収。忠良をはじめとした家臣は俸禄で召し抱える、という条件が伝えられただけだ。

しかも、遠江の支配が落ち着くまで、城代、代官の任命権を忠良に預けるという厚遇ぶりである。


土地に拘りのある武士でも、その働き如何では、その土地を治める役割をそのまま引き継がせて貰えるとあって、仕える家に拘りがなければ、転んでもおかしくない条件だ。


「安祥長広がこのような好条件を提示して来たのは、ひとえに、蛇姫が欲しいからに他ならない! 我らを下しておきながら、蛇姫を欲しがらないなど意味がわからないからな!」


「そうだ!」


「たしかに!」


兵達の間から同意を示す声が上がる。


「安祥長広の父親は、あの『尾張の種馬』織田信秀だ! ならばその息子が色狂いでも何らおかしくはない。むしろ、その可能性の方が高い。長広は敵対していた相手の妻をかどわかし、年端もいかぬ幼子を手籠めにする程の男だ! 血は争えぬ!」


随分とひどい言い草ではあったが、信秀に側室と子供が多いのは事実であったし、於大が元々は長広と敵対していた松平広忠の妻であったのは確かだ。

正室である於広が嫁いできたのも、12歳の時である。

結婚年齢が低いこの時代でも、若いと驚かれる年齢だった。


「三河を支配しておきながら室はたった二人。信秀の息子としてはあまりにも少ない」


ならば、長広と信秀は違うのか、と言われれば、忠良は否、と答えるだろう。


「長広は長男でありながら側室の子であるため、織田弾正忠家の後継者となれず、分家を設立した経緯を持つ。つまり、やつは弾正忠家に気を遣い、室を増やしてこなかったのだ!」


兵達の間から感嘆の声が漏れた。

ある意味事実なのでたちが悪い。


「だが、三河を支配し、遠江に手を伸ばすという事は、そうしたしがらみから解放されたという事でもある。ならば、信秀の血が解放された長広が望むものはなんだ!」


そう、女である。

それも、とびきりの美姫。

少なくとも、忠良はそう思っている。


「故に、奴らは金襴たる蛇姫を狙ってこの城を攻めるのだ! その事実を前に、其方らはどうする?」


「戦いますよ!」


「姫様をそのような鬼畜に渡す訳にはいかねぇ!」


「姫様が欲しければ、義元公でも連れて来いってんだ!」


「天子様か将軍様か、どちらに姫様を任せるのか、それが問題だ……」


怒号が飛び交い、熱気は渦となって彼らを飲み込み、狂わせる。


「ならば我らに負けはない! 鬼三河なにするものぞ!」


「「「おおおおおおおおおお!!」」」


「……あれを素でやっておるなら大したものなのだが」


そんな様子を見ていた、今川家家臣である刑部城城代を任せられている、長谷川秀匡(ひでまさ)が呆れたように呟いた。

しかし忠良は、家臣の士気を上げるためにわざと長広の悪評を流している訳ではなかった。

忠良は、心底から自らの娘が日ノ本一の美女だと信じているし、誰も彼もが彼女に惚れて欲しがるものだと思っていた。


「まぁ、兵らが心酔するのも無理はないがな」


そして、秀匡もまた、そんな姫の美しさにあてられた一人であった。




結果として長広は敗北した。


と言っても、長広もとりあえずの様子見で攻撃しただけであり、損害は軽微。

負傷者は軽傷者が数名出ただけで重傷者はなし。死者も出なかった。


形としては降伏を促すために、城を囲みながら、少数で城門に寄せただけ。

思わぬ反撃を受けたので撤退した、というのが真相だった。


「いや、士気高過ぎだろ」


それでも、その状況を見ていた長広はそう呟いた。

先鋒の部隊が城門に近付くと、雄叫びと共に城兵からの攻撃があった。


その迫力に驚いたのか、部隊の動きが止まってしまったところで、矢や石のみならず、様々なものが城壁の上から放たれたのだ。

多少反撃してみたが、一切怯まず、むしろ攻撃の激しさが増したくらいだった。


そのまま泥沼の戦いに引きずり込まれても困るので、長広は部隊を一時下げるよう命じたのである。


当然、刑部城側は、安祥軍を追い返した、と興奮しきりである。


「あれが、件の姫様に忠誠を誓う不屈の軍団か……」


「言い得て妙ですな。野戦で正面からやり合えば気にするほどでもないのでしょうが、城に籠られていてあの士気の高さは厄介です」


城から少し離れた場所に作られた野営地にて、長広は部隊の隊長格を集めて軍議を起こしていた。


長広の呟きに答えたのは井伊直盛だ。

だから言っただろう? という表情を浮かべている。


「殿、ならば降伏を促す書状に、件の姫の処遇について追記してはいかがでしょう」


提案したのは、砦の守備から合流した第二大隊に所属する中隊長の石川勝正だ。


「うむ、その内容は?」


「相手は我々が姫を攫ってしまうのを憂いているのですから、それを保証してしまえばよろしいでしょう」


「蛇姫の婚姻は、必ず庵原忠良の許可を得なければならない、とかだろうか?」


「しかしそれですと、主君にあたる殿から強引に婚姻を言い渡された場合、断る事はできないのでは?」


長広の意見に反論したのは細井勝宗だ。

今まさに長広に逆らっているから説得力にいまいち欠けるが、その言い分は長広も理解できた。


上司から勧められた縁談を断れる人間は少ない。

現代でも、最終的にどうなるかわからなくてもとりあえず会わなければ話は済まないだろう。

それが戦国時代ともなれば、最早結婚する以外に道は無いと考える者は決して少なくない。


仮に長広がそんなつもりはないと言っても、事情を汲んでしまうのが武士というものだ。

主君の面目を潰すような真似が、武士にできる訳が無い。


長広が念を押せば押すほど、圧力を掛けているようにさえ思えるから不思議だ。


「ならばどうする?」


「そうですね。婚姻は庵原家側から申し込む以外認めないようにしてはいかがでしょう? 勿論、それを相手が受け入れるかどうかは別として」


庵原家の意向で自由にして良い、などと条件をつけては、敵対する国の家臣や、庵原家どころか、安祥家より格上の家に申し込まれた場合に困った事になる。

公家や将軍家、ましてや天皇に申し込まれたなら、忠良だけでなく、長広の首も危ない。


「申し込むのは庵原家から。しかし直接申し込むのではなく安祥家を必ず通す。この辺りかな?」


「そうでしょうね。それが良いかと思われます」


しかし、結果は否、だった。

当然、ならば攻め落とすか、という方向に軍議はその舵が切られる。


「これが最後の勧告だ。先の条件を飲めなければ、一族郎党根切りにする事も厭わぬと伝えよ。勿論、その中に蛇姫が含まれていても知らぬ、と」


使者として刑部城に向かったのは井伊家家臣の奥山朝利だった。

書状を庵原忠良に渡すが、相手はそれを読むとすぐさま破り捨てた。


「何度来ようと同じ事だ! 我が姫を奪われるくらいなら、ともに死ぬ道を選ぶ!」


「共に死ねたら、良いですなぁ」


激昂する忠良に向けて、朝利は言った。


「どういう事だ!?」


「いえ、そのような激戦となれば、兵らは奮い立ち、昂る事でしょう。猛り、荒ぶる兵の行動を止めるのは、少々難しうございますれば……」


「ま、まさか……!」


「自害する前に雑兵に捕まってしまえば、どのような美姫であっても、いえ、むしろ美姫であるからこそ、その扱いは粗雑なものになるでしょう。中には、死体でも構わぬという者も現れるやもしれません。何せ、日ノ本一の美しさなのでしょう?」


「うむむ……」


負けた相手に勝った側が何をするかなど、戦国武将たる庵原忠良はよくわかっていた。

むしろ、これまではそれを為す側にいた事が多いため、その凄惨さを知っていた。


「しかしそれほどの覚悟とあらばいたしかたありません。三河守様には、庵原家は一族郎党城を枕に討死する覚悟、とお伝えさせていただきますよ」


「ま、待て……!」


「待ちましょう」


「ぬぬぬ……」


「ちなみに、現在城を囲んでいる兵はおよそ四千ですが、更に安祥から二千ほどの援軍が来ているそうですよ」


「にせん……」


四千もそもそも盛った数字だが、城に籠っている忠良には正確な数は測れない。

援軍も真偽は定かではないが、遠江を今回の遠征で平らげようというのなら、必要に応じて援軍があってもおかしくない。

そう思わせるだけの準備は、長広はしてきたのだ。


実際に向かっている援軍は千であると朝利は聞いている。

しかし、長広が言っていた、西遠北部を開発する作事衆の数を含めればそのくらいになるだろう、という考えがあった。

傍から見れば、それが戦を行うための援軍なのか、畑仕事をするための人足なのか見分けがつかない筈である。


「当然、それだけの援軍が到着したなら、力攻めした方が簡単でしょうな。他の城への見せしめにもなりますし」


「父上」


と、その時襖の向こうから声がした。

鈴の音が鳴るような、とはまさにこの事。

聞いただけで耳のみならず、胸が幸福で満たされる、そんな声だった。


齢六十を超える下腹に血が巡るのを朝利は感じた。

同時に、この声の持ち主の姿を見てはいけないと、本能が警鐘を鳴らす。


「私の身で皆が助かるのであらば、差し出してください」


「お蛇、なにを言う!?」


幸いにも、相手は襖の向こうから声をかけてくるだけで、評定の間には入って来ないようだった。

ほっと、朝利は胸を撫で下ろす。


「安祥に降れば庵原の名が残るというならそうするべきです」


「しかし、それでは今川家に申し訳が立たぬ……」


蛇姫の身を気遣いながらも、忠良の目は今川家から目付として城代を任されている秀匡に向けられた。


「もしも安祥家が今川家に負け、遠江から逃れるような事があれば、その時こそ、私の出番ではないでしょうか?」


「姫様の身を差し出したとしても、治部大輔様がお許しになるとは限りませんよ」


そこで、秀匡が口を挟む。

蛇姫の容姿を知っている彼は、恐らく義元は許すだろうと考えていた。

それでも、ここではそう言うしかない。


刑部城城兵の士気の高さならあるいは、と思っていたが、やはり敗北は避けられそうにない。

しかしそれならそれで、限界まで抵抗させるのが彼の役目だ。


「そもそも、今川家が援軍を寄越さぬのは何故でしょうか?」


そこで再び、朝利が嘴を挟む。


「それは、まもなく田植えの時期であるから、大軍を遠征させる事はできぬから……」


「つまり今川家にとっては、刑部城は駿河の米と比べて優先度が低いという事ですな」


「そ、そんなことはない!」


反射的に秀匡が否定するが、声が裏返っていては説得力が無い。


勿論、重要な城であったとしても、一つの城と一国の収穫を比べた場合、後者の重要度が高くなるのは当然だった。

これから安祥家と戦をしようとしているなら尚更だ。


当然、それは忠良をはじめ、庵原家家臣も理解している。


理解はしていても、いざ口にされると、納得しかねる話でもあった。


「庄太郎殿、ここは降ってしまいましょう」


今一番欲しい言葉が、誰あろう、秀匡の口から飛び出した事に、忠良は驚かされた。


「安祥家が敗北した場合、今川家には某からも口添えさせていただきますとも! ここまで譲歩して貰って、なお意地を張るのでは、それこそ武士としての恥ですぞ」


朝利も状況がつかめず、ぽかんとしているところで、秀匡は忠良ににじり寄る。


「安祥家を追い出したのち、今川家による遠江の再支配に必要なのは、力を多く残しておりかつ自分達に近い家です。かの太原雪斎殿と祖を同じくする庵原家ならば条件を満たします」


朝利に聞こえないよう、秀匡はそっと耳打ちした。

ここで無傷で降れば、刑部城には無傷の城と兵が残る事になる。

今川家が安祥家を遠江から追い出したとしても、そのまま今川家の部隊を遠江に置いておく事などできない。一部を残して駿河に戻る事になるだろう。

そして今川家による遠江の再支配は、その残した一部に主導させて、土着の国衆や土豪に任せる事になる筈だ。


その時頼りになるのが、城も兵も無傷であり、西遠の要衝である気賀の地を治める庵原家だ。


決して少なくない損害を受けるだろう今川家が、敢えて力を残した庵原家を叩き潰す利点は少ない。

遠江支配に利用するのが最も効率が良い。

そして、今川義元とは、効率的な政治と軍事のシステムを構築した武将なのである。


蛇姫を差し出す必要くらいはあると思ったが、それは言わないでおく。

姫本人が口にするのと、今川家の家臣である秀匡が口にするのでは、重みが異なるからだ。


「次郎右衛門殿……」


自分達の身を案じる秀匡に、忠良は感動していた。

勿論、秀匡が降伏を促したのは、そんな単純な話ではなかった。


彼が今川家から求められている役割は、このような時に徹底抗戦を選ばせる事である。

しかし、既に降伏に傾き始めている庵原家内で、そのような声を上げたところで、最悪排除されてしまうだけだ。


敗北は決定的。徹底抗戦も無理。

ならば次に考えるのは、遠江全体の事である。


刑部城の敗北の決定は、今川家が援軍を出せないせいだ。


農繁期に戦をするなど、最悪な時機に乱入して来た安祥家を疎ましく思うが、その感情を排して考えれば、この上ないタイミングだろう。

周辺の城に援軍の要請をしても良い返事は貰えなかった。

拒絶理由で最も多かったのが、『刑部城が落とされた後、どうやって遠江を守るのか?』というものだった。


刑部城に兵力を集めても、それで負ければ遠江は安祥家のものになってしまう、という事だが、都合の良い方便でしかない。

それでいて、反論できないのだから腹立たしい話だ。


他の城の者達は自分の領地に閉じこもってしまった。

刑部城より東に領地を持つ者達は、刑部城を生贄に差し出したのだ。


このような事態に陥ったのは、農繁期である事は勿論だが、やはり今川家の本隊が援軍に来ない事が大きい。


仮に今川義元が、遠江の者達は刑部城に集まって安祥軍を撃退せよ、と命じても、その集まりは悪かっただろう。

その命令は、今川家本体が遠江に迫っていて初めて効力を発揮するからだ。


本当に嫌らしい時機にやって来たものだ。

勿論、伝え聞く長広の評判を鑑みれば、狙ったのは間違いない。

そして、狙ってこの時機に兵を動かせる安祥家の周到さに舌を巻く。


さておき秀匡の役割の話。


今川家が援軍を出せなければ、徹底抗戦を選択しても潰されるのは目に見えている。

そして、それを見た周囲の家はどう考えるだろうか。


一族郎党撫で切りされても今川家に見捨てられるのなら、自らの首が胴体と繋がっているうちに安祥家に頭を下げようと考えてしまうだろう。


言ってしまえば寝返りの連鎖だ。

それだけは、防がなければならない。


だから秀匡は考えたのだ。

刑部城が速やかに、無血開城したならば、それは今川家の責任にはならないのではないかと。


徹底抗戦の末に落ちたとなれば、今川家が見捨てたと見做される。

だが、その間もなくあっさりと降ったならば。


それは庵原家が薄情なだけで、今川家が援軍を出し渋ったとは思われない。


それでも寝返る家は出るだろうが、戦って負けるよりは、その数は少ないだろう。


だから秀匡は忠良に速やかな降伏を促す。

せめても遠江に、今川家が大軍を動かせるようになるまで粘って貰うために。


「……わかり申した。因幡守殿。庵原家は先の降伏の条件にて安祥家に降りもうす」


「庄太郎殿の英断に敬意を表します」


こうして安祥家は、刑部城を大した損害も出さずに降伏させる事に成功したのだった。


Q:蛇姫を弾正忠家や将軍家から差し出せと言われたらどうするの?

A:遠江が治まるまでは言ってこないからへーきへーき


果たして彼ら(長広、忠良、秀匡)の思惑通りに進むのでしょうか?


ちなみに刑部城の伝承にある、金襴の蛇に姿を変えた美しい姫の名前は残されていませんでした。

伝承からとって蛇姫としています。ご了承ください。

あと、伝説の通りに美しい容姿の姫です(日ノ本一かどうかは議論の余地あり)。長広達の前にはいずれ姿を見せると思います。

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