井伊家の思惑
三人称視点です。
井伊家は元々遠江国司の藤原共資の子、共保が井伊谷に移り住み、井伊氏を名乗った事に由来すると言われている。
普段は平城の井伊城にて生活している井伊家だが、いざ、という時は小高い城山の上に築かれた井伊谷城へ拠点を変える。
井伊谷城は井伊谷川と神宮寺川が合流する地点の北部に築かれており、南方を神宮寺川、三方を山に囲まれた堅牢な要害であった。
自分達が出陣する際は勿論、攻められた場合でも、難攻不落の城として、相当な期間、敵の攻撃に耐える事ができるだろう。
安祥家が遠江に侵攻するという情報が遠江に流れてすぐ、井伊家は居城を井伊城から井伊谷城へと移した。
それ自体は、戦の前の井伊家のいつも通りの行動であったので、誰も不審に思わなかった。
思われない、はずだった。
しかし、南方から今川方の旗を掲げた豪族が攻め寄せ、井伊谷城南東麓にある井伊城はあっさりと陥落してしまう。
それ自体はある意味予定通りであるので、井伊家に動揺が走るような事は無かった。
およそ二千の軍勢に囲まれながら、井伊谷城に篭り、しぶとく防戦を続けている。
「今日もなんとか生き延びたな」
井伊谷城の評定の間、その上座に座った井伊家当主、井伊直盛が、敵の撤退の知らせを受けて、安堵の溜息を吐きながら呟いた。
それはここ数日繰り返された光景だった。
敵は日の出と共に井伊谷城を攻め、そして日の入りと共に退いていく。
敵の交戦の意思は硬いようだが、決して士気が高いとは言えなかった。
その原因は、敵が今川軍そのものではない事が大きかった。
今川家の命令を受けたか、あるいは、今川家への心証をよくするために集められたのか。
どちらにせよ、何としてでも城を落とす、という気概が感じられない、というのが実際に指揮を執って敵と戦った直盛の感想だった。
それに対して井伊家の士気は高い。
元々今川家とは敵対関係にあり、何度も反攻している気質のせいもあるが、彼らには朗報が伝えられているからだ。
安祥軍が三河との国境を越え、既に遠江に入っているという知らせが届いていた。
直盛は当初、宇津山城を落としてから、安祥軍は遠江への本格的な侵攻を始めるものだと思っていた。
だから安祥軍に動きがあると知ってすぐに立場を表明するのではなく、あくまで戦支度をするにとどめていたのだ。
宇津山城は国境を守る重要拠点であり、浜名湖の水運を用いて、西遠と中央を繋ぐ役割も担っていた。
ここを落とさずに東進すれば、遠江中から敵軍が集まり、あっという間に殲滅されてしまうだろう。
そう、直盛は思っていた。
しかし安祥軍は、部隊を二つに分け、宇津山城の目の前に砦を築き、これを拘束。
その間に別動隊で浜名湖北部を抑えようとしている。
それはつまり、井伊谷への援軍が、想定よりずっと早い事を意味していた。
既に浜名湖北西部を支配する、浜名家の佐久城を落とし、浜名湖北東部にある細江湖の傍に砦を築き始めているという。
その砦から井伊谷城までは一日とかからないだろう。
「安祥軍への寝返りは正解だったな。三郎大夫、其方の言う通りにしてよかったわ」
「恐悦至極に存じます」
直盛に話を振られた武将、鈴木重時が頭を下げる。
彼は安祥家と同盟関係にある、佐久間家に取り込まれた、足助鈴木家の出身だった。
その繋がりで、安祥家による遠江の勢力への調略に、いち早く乗るよう進言したのである。
事前に義理の兄である菅沼忠久、同僚の近藤康用を味方につけておくという根回しも行っていたため、彼の提案はすんなりと通った。
しかしそれを面白く思わなかった者もいる。
井伊家家老の小野道高であった。
父が元々今川家の家臣という事もあり、今川家との繋がりが強い彼であるが、井伊家への忠誠心は決して低くは無かった。
当主直盛に男子がいなかったために、叔父である直満の息子を養子にするという話が持ち上がった時、反対したのが道高だった。
だが、分家の人間が宗家の家督を継ぐという事に嫌悪感を示したための行動であり、この時彼に賛同する家臣は多かった。
結局はその息子を、直盛の同い年の娘の婿とし、家督を継ぐのはあくまでその子供、という事で話がまとまっていた。
しかし天文13年(1544年)、直満、直義兄弟に今川家に対する謀反の疑いがかけられてしまう。
駿河へ赴き潔白を訴えたが、許されず二人は自害と相成った。
この時義元に密告したのが道高だと言われている。
しかしその後も彼は家老として井伊家に仕え続けた。
だが、先年の安祥城攻略の失敗と、その際に直盛の父、直平が命を落とした事で、井伊家内では今川による支配からの脱却を望む声が強くなっていた。
今川と繋がりが強く、また、今川からの目付である関口氏経に重用されていた道高の立場は悪くなっていく一方であった。
結果として、安祥家からの調略の使者が来ると同時期に、彼は氏経と共に城を出て駿河へと逃れた。
当然、井伊家に謀反の兆候あり、と今川家に伝えたのは彼である。
「彦次郎様と平次郎様が謀殺された時に、和泉守を処断していれば良かったのです」
そう言うのは井伊家家老の中野直由だ。
同じ立場である道高には、良くも悪くも思う所が当然あった。
直由の言葉に、重時も大きく頷いている。
直満の正室は重時の叔母であったため、彼は直満を自害させた今川家を、その原因を作った道高を良く思っていなかったのだ。
「そうは言ってもな。今川と同盟を結んでいる武田に備えるために兵を準備していたのだ。謀反と取られても仕方あるまい」
あの時点では、道高は間違いなく、井伊家のためを思って行動していた。
だから直盛は彼を許したのだ。
「その武田が信濃に進出後、我が領にちょっかいをかけていたのではないですか」
鋭く切り込むのは家臣の奥山朝利。
井伊家の分家筋にあたり、親類衆を率いている重臣である。
彼の娘は中野直由の妻となっているなど、井伊家と家臣の結びつきを強める役割を担っていた。
「その辺りがよくわからんのよな。例えば今川家との密約で、井伊家を武田家にくれてやるつもりだったというなら、何故逃亡した亀之丞を武田の陪臣が匿っているのだ?」
「そもそも、お父上の仇とも言える武田の家臣の元で暮らす亀之丞様の御心がわかりませぬが」
直満が謀殺された直後、その累が及ぶのを恐れた直満の家臣が、彼の幼い嫡男を連れて信濃へ逃れた。
最初の逃亡先である龍泰寺は、直盛の父、直平が住職を入れた寺であるので、そこへ逃れるのは理解ができる。
だが、嫡男亀之丞は、何故かそこから武田の陪臣である塩澤氏の領地に移っているのだ。
しかも塩澤氏の居城である富田城に住まう事まで許されているという。
「しかもあちらで元服したという話も聞きますぞ」
更には塩澤氏の娘と婚姻の話が進められているとも言われている。
井伊家の者達からすれば、不思議で仕方なかった。
「結局のところは、粛清されるべくして粛清されたという事でしょう。大叔父上も、亀様も」
直盛の近くに座った、年若い尼僧がそう結論つけた。
ばっさりと切り捨てるようなその言い方に、家臣達は苦笑いを浮かべるが、誰も異を唱える事はなかった。
「そのような言い方はどうかと思うぞ、次郎法師よ」
「事実です」
「しかし、叔父上達はあくまで井伊家のためを思ってだな……」
「結果として今川から疎まれ、二度ならず三度までも兵を送り込まれ、三河への遠征に無理矢理従軍させられる事態を引き起こしたではありませぬか。父上が助かったのはあくまで幸運によるもの。あの時、井伊家が滅びていてもおかしくなかったのですよ?」
その尼僧は直盛の娘だった。
次郎法師と呼ばれる彼女は、許嫁であった亀之丞の逃亡により出家し次郎法師と名乗るようになった。
この時出家した寺は、亀之丞が一時逃れていた龍泰寺であったので、この時点では二人の縁は絶たれていなかった筈である。
何か思う所があったのか、それとも危険が迫っているとでも思ったのか、亀之丞はそこから更に信濃の松源寺へと逃れ、現在に至っている。
まるで次郎法師がフラれたかのようだ、と口さがない者は言った。
それが彼女の耳に届いたかどうかはわからないが、亀之丞が寺を去った翌年、次郎法師は還俗。
しかし井伊城には入らず、日頃から井伊谷城で暮らすようになった。
「将来を誓いあった男子が自らの元を離れ、別の娘と結婚しようとしていると知れば、悪く言いたい気持ちもわからんでもないが……」
「それは関係無いと何度も言っているでしょう!? あくまで私は、井伊家の将来のために、俗世に戻ってきたのです!」
言い争う二人、特に次郎法師を見る家臣の目は優しい。
「父娘仲がよろしいのは結構ですが、そろそろ今後の話をしましょうか」
冷静に、直由が話を戻す。
「安祥家からの密偵の協力もあって、ようやっと相手方の勢力が判明しました。新田家、尾藤家、山村家の連合軍のようです」
直由が出した名前は、浜名湖北部に勢力を持つ土豪達だった。
「であろうな」
予想していたのか、直盛の反応は淡泊だった。
「彼らの性質は変わりませんね。強きに従い弱きを挫く。斯波、大沢、今川と阿る先を次々と変えております」
「小勢力にとっては仕方のない話でもある。我らも今川が不利と見るや反抗し、彼らが勝てば従って来たではないか」
辛辣な評価を下す次郎法師を、直盛が諭した。
「堀江城の大沢家、刑部城の庵原家が動いておりませんので、今川家から命令を受けている訳ではないようですな」
「ふん、今川にとって我らなどその程度の存在という事よ」
「ならば我らが持ち堪えている隙に、安祥軍に堀江か刑部を落として貰ったらどうだろうか?」
「しかし防戦が可能とは言え、攻撃を受けているのは確かなのだ。何か不測の事態が起きぬとも限らぬ。安祥軍には素直に助けて貰った方が良いのでは?」
敵の正体と、周辺の情勢が判明した事を受けて、家臣達がそれぞれ意見を出し合う。
「三郎大夫」
「はっ」
その議論を暫く無言で聞いていた直盛は、重時の名を呼んだ。
「安祥軍に伝えよ。援軍無用、刑部城の攻略に向かわれたし、とな」
「よろしいのですか?」
「そう伝えて相手の反応を見るのだ」
籠城を続ける事を選択した直盛に、重時は聞き返した。
「安祥家に寝返る事を選択したとは言え、信用に足るかどうかはまだ判断ができぬ。もしも今後、安祥家と今川家が遠江の覇権を争い戦った時、安祥家が負けたならば、今度こそ我らは許されぬだろう」
それ故に、直盛は確かめる必要があったのだ。
家の存亡を賭けてでも、味方をする価値が安祥家にあるのかどうかを。
「場合によっては、後ろから討たねばならぬ」
戦国武将が優先するものはいつだって、お家の存続なのだから。
次郎法師(直虎)の生誕年は不詳ですが、拙作では有力説の一つ、天文5(1536)年生誕と設定しております。
ちなみに、この説を採用すると、永禄3(1560)年没の父直盛の年齢がおかしくなるそうです。
直盛の生誕年にも諸説あり、有力なのは二つの説。永正3(1506)年に合わせると祖父との年齢に齟齬が生じ、大永6(1526)年に合わせると直虎との年齢に齟齬が生じるそうです。
なので間を取って永正13(1516)年生誕とさせていただいております。ご了承ください。
菅沼忠久の正室は、史実では鈴木重時の娘となっています。
鈴木重時の年齢を考えると、娘と釣り合う年齢だと忠久はこの時点では元服もしていない可能性が高いです。
史実における徳川家の遠江乱入は拙作より約十八年後なので、その年齢でも不思議ではありません。
ただ菅沼忠久は生誕年不詳なので、拙作では既に元服している設定になっています。
それに合わせて妻も、重時の父、重勝の娘としました。ご了承ください。
史実では井伊直満の正室は鈴木重時の妹となっていますが、直満こそ生誕年不詳ですが、重時の生誕年が1528年であり、直満の息子の直親の生誕年が1536年なので、年齢的に有り得ないため、拙作では重時の父、重勝の妹と設定しています。
ご了承ください。
2018/9/6追記
龍泰寺は龍潭寺の事です。
龍潭寺という名前は、1560年以降に、直盛が葬られてからつけられた名前らしいので、拙作ではそれまで使われていた龍泰寺を使用しています。




