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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第六章:遠江乱入【天文二十年(1551年)~天文二十一年(1552年)】
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不運な武将、今川義元 陸

三人称視点です。


天文二十年、駿河国、今川館。


「どうしていつもいつも奴らはこう時機の悪い時に動くのだ!」


その評定の間にて、今川義元が手にした扇を砕かんばかりに握りしめていた。


「武田は信濃攻め、北条は上野攻め。厄介ごとを片付ける絶好の機会だと言うのに……!」


安祥家による遠江侵攻の報告を受けて怒りを爆発させる義元に、家臣は顔を俯かせ、無言を貫いていた。

へたに触って飛び火しては叶わない。自分達の頭の上を通り過ぎるのを待っているのである。


実際、義元も無為に家臣達に当たり散らしている訳ではない。

言ってしまえば不満を愚痴にして吐き出しているだけで、この時の義元に何か進言したとして、理不尽な怒りを買う事はなかった。


本来なら義元と家臣団の折衝を太原雪斎が担っていたのだが、その彼は既にいない。


義元の信頼厚き『両翼』朝比奈泰朝、岡部元信両名も、安祥家の動きを警戒してそれぞれの居城に入ったままだ。

特に朝比奈は、分家の泰長が遠江三河の国境防衛の要衝、宇津山城に入っている事もあって、これの援護のために暫く動けないだろう。


言うなれば、この場には義元の癇癪を恐れず提言できる者がいなかったのだ。


「太郎の間抜けはまんまと信濃の山奥におびき出されておきながら甲斐の守りを頼むなどとぬけぬけと抜かしおるし。それを見越してか、伊勢の阿呆は小田原を留守にして悠々上野に攻めあがっておる……!」


天文十七年二月、甲斐を治める武田晴信は信濃北部に勢力を広げる村上義清と上田原で戦い、これに敗れている。

多くの重臣を失い、大敗とも言える敗北を喫した武田軍は、同年四月、同じく信濃北部に勢力を誇る小笠原長時に攻撃を受けた。


これは何とか撃退したものの、武田家は暫く身動きできない状態に置かれてしまう。

天文十九年に晴信は北信濃への再侵攻を強行。小笠原長時の居城、林城を攻め落とし、彼の領地を支配下に置く事に成功した。

その後は村上家攻略のために注力している武田家だったが、元々信濃侵攻自体、武田家家臣のみならず、一門衆からも反対されていた事もあり、その屋台骨は揺らいでいた。


これを周辺の勢力が見逃す筈も無く、晴信の政策に批判的な家臣、豪族らに対し調略を図り、切り崩しを行っている最中であった。


今川家も例外ではない。

表向きは同盟中であるので、信濃侵攻中の武田家の背中を守っているが、隙あらば掠め獲るつもりであった。


だが、いざその時になってから準備していたのでは遅い。

機を突くにはそれなりの前準備が必要であった。


北条家は天文十五年の対北条包囲網により一時滅亡の危機に瀕していた。

しかし、河越夜戦にておよそ八倍の兵力を誇る包囲網連合を撃破、見事連合軍を瓦解させる事に成功する。


この包囲網瓦解の原因の一つに、西から寄せていた今川家の撤退があるのは間違いない。

これにより、小田原から動けなかった北条氏康が河越城の救援に向かう事ができたのだから。


正直に言ってしまえば義元は、連合軍が北条を滅ぼすなどと思っていなかった。

河越城を落として武蔵を獲ったとしても、連合軍を率いているのが元々対立のある扇谷上杉と山内上杉家である。

更に、昔から関東の支配権を巡って、関東管領の家系であるこの上杉家と争っていた古河公方まで加わっていたのだ。


纏まる訳がない。


武蔵の支配地域の分配で揉めるのは目に見えていたし、相模に進入したとしても、小田原に籠られては手も足も出なかっただろう。

そのうちに連合軍に厭戦気分が蔓延り、解散。

それだけならばまだいいが、逆襲に出た北条軍に破られる未来が見えていた。


武田家の支援を受けて、駿河東の河東奪還に乗り出した義元が、目的を達成してすぐに引き返したのはこのための布石でもあった。


戦が長引いた時、連合軍参加勢力に、抜ける口実を与えるためだ。


北条に関東を平定されても困るが、武辺者が跳梁跋扈する関東の蓋になってもらわなくては困る。

そのため義元は、北条と連合軍との痛み分けを狙っていたのだ。


まさか河越城すら落とせないとは当時の義元だけでなく、今は亡き雪斎を始め、今川家の誰もが思わなかったのだ。


ただ北条も包囲網瓦解後、すぐに動けた訳では無かった。

武蔵を始め、支配地域に散った連合軍残党を処理する必要があり、領国経営は停滞してしまう。

更に、天文十八年には関東を襲う大地震が発生し、これの復興に追われる事になった。


この時発令された公事赦免令は、その後の北条家の支配権強化に繋がる税制改革となる。


さておき北条は、武田が信濃攻めに苦戦していると見るや、上野攻略に注力するようになる。

これは、北条の支配領域と隣合う今川家が、武田家の支援で動けない事を見越しての行動であった。


今川家から見ると、今の北条家は狙いやすい相手なのだが、敵は河越夜戦を勝利に導いた実績がある。

わざと隙を見せて誘っているのではないか、と疑心暗鬼にかられて迂闊に手が出せないでいた。


そのうえで、対武田と同じように、その隙が本物であると判明した際にすぐに動けるよう、こちらも準備していたのである。


おまけに時期は春。

もうすぐ田植えという状況で、家臣や協力している国衆、豪族の多くは自領の方に意識が向けられていた。


つまり、武田と北条に備えて身動きできない事に加えて、今川家家臣団の意識がばらばらの時に、安祥家は攻め寄せて来たのだ。


義元でなくても文句の一つも言いたくなるほどの嫌らしさだった。


勿論、これは義元自身の意識も、安祥家より、武田、北条を優先させているせいでもあった。

だが、新興の勢力と昔から結んだり争ったりしている両家を比べて、後者の比重が大きくなるのは仕方のない事でもあった。


「ふぅ。ともあれ今すぐに大掛かりな軍事行動は取れぬ」


ある程度わめき散らして気が晴れたのか、義元の声は落ち着いていた。


「すぐに田植えの季節であるからの。今纏まった兵を集めようと思えば時間がかかるであろうし、集めたところですぐに戻さねばならぬからの」


勿論、農作業の時期になったからと言って、すぐに兵らが居なくなるわけではない。

だが、ただでさえあまり高くない士気が大きく低下してしまうだろう。

そのような状況で安祥軍と戦い、万が一にも負けたなら、それこそ一大事だ。


「出陣は皐月の頃だ。それを踏まえて準備するよう伝えよ。投入する戦力の規模は次回の評定の時にでも話し合うとするかの」


「安祥軍の動きを見てからでも、遅くはありませんからな」


義元の機嫌がある程度回復したのを見計らって、家臣の一人がそう意見を口にする。


「うむ。どのような手法を用いたとして、遠江を一月足らずで落とす事などできまい。仮に駿河との国境まで兵を進められたとしても、遠江の支配は盤石になっておらんだろう」


「なるほど。その際にこちらが遠江を少し突いてやれば、奴らは背後を脅かされるでしょうな」


「そのような状況になれば三河も静かなままではいられぬであろうよ。だが、それは些か高望みが過ぎるの」


安祥家を新興、長広を若造と罵ろうとも、松平家を倒し、今川家を追い出し、三河を平定した事は事実なのだ。

侮って良い相手では決してない。

そして、長広がある程度優秀であると仮定するからこそ、まだ慌てるような時間ではないと断言できるのだ。


「安祥軍の侵攻は慎重にならざるを得まい。例え、我らの援軍が予想できていたとしてもの」


遠江はそう簡単には落ちない。義元にはその自信があった。

元々は今川家の土地ではないからこそ、内からの反発にも、外からの攻撃にも強くなるよう苦心して采配がなされた土地なのだ。


「そう簡単に、陥とせるものか」


言うなれば、それは義元の政治的才覚と長広の軍事的才覚の比べ合いであった。

ならば負ける訳がない。負ける訳にはいかない。


怒りの炎が渦巻く義元の瞳の奥には、僅かな歓喜の色が見て取れた。

しかしこの場に、彼の抱く複雑な感情を正確に読み取れる者はいなかった。


そしてそれが今川家にどのような運命を齎すのか。

それは義元自身にもわからなかった。


今川家による遠江本格介入まであと一月と少し。

三河にかかった時間を考えれば、それまでに遠江を奪い取るのは絶望的です。

それは長広にとってタイムリミットとなるのか、それとも……。

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