織田信安
三人称視点です。
天文二十年一月。
新年の挨拶も、あちこちで開かれる新年の祭も終わり、世の中が落ち着きを取り戻した頃、乱世の空気もまた、世間に戻りつつあった。
「こたびの安祥新年祭も盛況であったな」
尾張国、那古野城にある居館。その中の自室で、信長は尾張で広まっている果実酒を片手に上機嫌だった。
通常の酒では、一口舐めた程度で酔ってしまう程の下戸であるが、その果実酒はお気に入りだった。
三河で栽培が盛んになっている、蜜柑という果実を原料にした酒だ。
信長が口にしているのは、『三郎好み』と呼ばれる配合で作られた酒で、蜜柑の果汁を同量の水で割り、そこに全体量の一厘程度の果実酒を混ぜたものである。
子供でも飲める、という触れ込み通り、そうと言われなければ酒だと気付けないだろう。
「東三河の統治で忙しく、本人も野田城を居城としていると聞き及んでおりましたので、どうなる事かと思いましたが、昨年並みか、それ以上の盛り上がりでございましたね」
その信長と相対している帰蝶が飲んでいるのは、尾張を中心に上級武士、豪商の間で流行っている清酒だ。
澄んだ水のように透き通ったその酒を楽しむために、最近では椀の底に模様を描いた器が出回り、相乗効果で爆発的に売れていた。
この器を考案したのは水野家だという話だが、そこに長広の入れ知恵があった事を、信長は知っている。
信長は信秀に進言し、尾張の中で、土が良いとされる地域でも同じものを造らせようとした。
調べさせたところ、春日井郡の東、三河との国境付近にある、瀬戸の地が適当であった。
その辺りは、元服してから信長が、尾張統一事業の一環として平定を任されていた辺りの近くであった。
丁度良い、と考えて更に詳しく調べると、それよりも数年前、長く松平家の支配下にあったが、長広によって弾正忠家に返還された、品野城の近くであった事が判明した。
まさかこれを想定していた訳ではないだろうが、何故か負けた気になってしまった。
ともかく、瀬戸でも器が作られ始め、弾正忠家に更なる銭が入るようになった。
件の土地は信長の支配地ではないので、そのほんの一部が信長に齎されるだけだったが。
「父上が稼ぐ銭は将来おれのものになるから、おれが稼いでいるのと同じだ」
いつも通りの強がりを口にして、信長は胸にかかえたもやっとした気持ちを気にしない事にした。
「殿」
そんな時、障子が叩かれ、近習から声がかけられた。
「どうした?」
「お目通りを願う方がいらっしゃっております」
「誰だ?」
「軽々に名乗れないとおっしゃっていました。一族の方であるそうです」
「誰だ……?」
今度の呟きは自問のそれだった。
しかし、流石に思い当たらない。名乗れない、という事は那古野城に来ている事を知られるとまずい人物だろうか。
「……適当な客間に通して酒か茶を出しておけ。すぐに向かう」
「は!」
「なんぞ、悪だくみでしょうかね? 大丈夫ですか?」
謀に向いてないとはっきり言われているだけに、信長は帰蝶の言葉に渋い表情をした。
ここで舐めるな、と突っ撥ねるのは簡単だ。しかし、それで陰謀に巻き込まれては意味がない。
「……必要があれば呼ぶ。近くにひかえておれ」
「かしこまりました」
刀を持って立ち上がる信長に、帰蝶はそう言って頭を下げたのだった。
「久しいな、三郎」
果たしてそこにいたのは、確かに一族の者だった。
そして、軽々に名乗れないというのも納得できる相手だった。
そこにいたのは、三十を超えた頃の中年の武士。
身なりが良く、所作も洗練されている事から、上級武士だとわかる。
「おじうえ、一体なんのご用でしょうか?」
「固い固い。儂と其の方の仲ではないか。まぁ、まずは座れ」
一つ鼻を鳴らし、信長は座る前に、相手が飲んでいるものを見た。
酒だ。
真面目な話ではないな、と信長は溜息を一つ吐く。
「それで、おじうえ。なんの用だ? というか、岩倉を放っておいて良いのか? 父上にとられるぞ」
「義兄殿が欲しければいつでもくれてやるわ。若様の名を使えば簡単だろう」
「相変わらずだな。そんなだから美濃で見殺しにされかけるのだ」
「はは、あの頃は儂も若かった。義兄殿に負けてなるものか、と躍起になっていたのでな」
信長を訪ねてきたのは、岩倉城城主、織田伊勢守家当主の織田信安だった。
かつての織田弾正忠家はあくまで尾張守護の陪臣格でしかなく、守護代である伊勢守家は本来弾正忠家より格上である。
しかし、信秀の父、信定が津島を支配した事で、実質的な力関係は逆転する。
同じ守護代ではあるが、早くに守護、斯波義統を抱えていた織田大和守家に対抗するため、信安の父、敏信は弾正忠家を取り込む事を画策し始める。
病に伏せた敏信は、今際の際に、信安が家督を継ぐ際、信定に後見となるよう言い残した。
その約束は果たされ、幼い信安が家督を継ぐとなった時、歳の近い信秀の弟、信康が補佐として家臣となっている。
更に信定は、信秀の妹を信安に嫁がせた。
「かつては猿楽も一緒に楽しんだ仲だというのに、今や身分を隠さねばこうして会う事もできぬ」
「しかたあるまい。おもて向き弾正忠家は伊勢守家より格下だが、もはや力関係どころか、周囲の認識も逆転した。おじうえの家臣は面白くないであろうな」
「うむ、それよ。最近家臣が騒がしい。息子を担ぎ上げて何かをしようとしておる」
「いっそそれにのってはどうだ? 一戦して負ければ降りやすかろう」
「伊勢守家だけの話ならばそれでも良いのだがな」
「周辺の勢力を巻き込むなど当たり前の話であろう」
「犬山だ」
信安の言葉に、信長の眉根が寄る。
犬山城は信安の補佐として伊勢守家家臣となった、信康の居城であり、現在はその息子、信清が城主として治めている。
「与次郎おじうえは、おじうえの家臣であったのだから、その子供も家臣なのではないのか?」
「与次郎義兄上が美濃で討死した時、息子は元服前であったからな。元服するまでは犬山の家臣は出仕しなくて良いと伝えてあったのだ」
当時は、大きな損害を被った伊勢守家の権勢を少しでも守るため、信康の勢力を自分達の元に留めておく必要があった。そのための恩情措置である。
当主が不在で跡取りも幼いとなれば、家そのものが滅びる可能性もあったので、まずはしっかりと立て直すように、との配慮だったのだが。
「そしてそのまま忘れていた、と」
「いや、元服した際には挨拶に来たし、その際出仕するよう伝えたはずだ。何故か独立していたが……」
「そもそも、その関係性ならばおじうえが烏帽子親になるのが普通ではないか? なにゆえ元服したあとに挨拶しにくるのだ」
「うぅむ、何故であろうな……」
実際は信秀が、清洲を暴走させるために仕掛けていた経済戦争の対処に忙殺されていたからなのだが、信安はその背景を知らないし、信長は信清の元服時期を知らない。
この場には、情報を正しく結び付けられる者がいなかった。
「犬山は、父上もおじうえが管理していると思っていただろうからな。独立していたなどという話はいっさい出ていないぞ」
「まぁ、ともかく、犬山の織田信清と結んで、何やら企んでおるようなのだ」
「ふん、まぁ、今の伊勢守家の勢力なら、普通に負けるだろう」
信長は、犬山と岩倉の勢力が弾正忠家に戦を仕掛けるつもりだと思っていた。
だが、最早その力の差は歴然で、万が一にも負ける事はないと考えた。
それこそ、信長がさっき口にしたように、あえて負ける事で、弾正忠家への降伏を、家臣達に納得させるためではないかと推測する。
「うぅむ、そのくらいは家臣達もわかっていると思うがなぁ」
「歴史の長さを自分達の力と勘違いして、相手との力量差をはかれぬ者はどこにでもいよう」
その結果、滅びた名門は枚挙に暇が無い。
「まぁ、それだけならばわざわざ三郎に話すほどではないのだ」
「何か気になる事でもあるのか?」
「城下にあまり見ない商人が出入りしておるのだ」
「那古野で座を廃止したからな。そのせいではないか?」
「いや、それがどうにも、手の者に調べさせたところ、美濃の商人のようでな」
「美濃だと……?」
今度は信長の肩眉が跳ね上がる。
「まぁ、美濃も一部の町で座を廃止しているというから、そこからやってきた商人なのかもしれぬが、それなら普通美濃の他の町へ行くのではないかと思うてな。尾張に来るとしても、清洲へ行くだろう」
たまたま立ち寄っただけというならともかく、岩倉に居座る理由が無い、と信安は言った。
自らの城下町に対して、評価が低いのではないか? とも信長は思ったが、確かに清洲や那古野、古渡の城下町に比べると、商人が集まる理由に乏しい。
「まぁ、美濃を治める斎藤家は、弾正忠家と同盟関係にあるし、美濃守護殿は義兄殿の手中にあるのだから、考え過ぎだとは思うがな」
「そ、そうだな。あれだ、父上が美濃と共謀し、岩倉や犬山と戦をする口実を作ろうとしているのかもしれんぞ」
「ははは、義兄殿の考えそうなことだ」
その後信安は、酒を飲みながら信長と暫く談笑すると、赤ら顔で帰って行った。
「食えぬ御仁でございますな」
信安が客間を後にすると、信長の背後の襖が開かれ、帰蝶が姿を現した。
「あれでも長らく尾張の上四郡を支配していた、伊勢守家の当主だ。一筋縄ではいかぬ相手よ」
かつては自分もうつけの振りをして敵意から身を守っていた。
だから信長にも、信安の態度が擬態であるとわかった。
「どう見る?」
「美濃と結んで何かを企んでいる、のではなく、主導は美濃なのだと思います」
「ふぅむ。蝮殿は国をとった手段が手段であるから、治めるのに苦労していると聞く。伊勢守家と犬山をひきこんで、敵対勢力をおさえるつもりか?」
「おっほっほっほっほ」
信長が考え込みながらそんな事を口にすると、帰蝶はころころと笑った。
信長の顔が歪む。
「父がそのようなわかりやすい手段を取るのであれば、守護殿は美濃を追い出されていなかったでしょうね」
「というと?」
とっとと結論を話せといつも思うのだが、それを口にすると、いつにも増して迂遠な言い方をされた経験がある信長は、辛抱強く帰蝶に尋ねた。
「守護代殿の家と犬山の織田某殿を引き込んで美濃支配の助けとする。これはその通りでございましょう。しかし、目的は統治ではなく簒奪であると思いますよ」
「簒奪……!? つまり蝮殿の家臣が……」
「力づくで権力を奪おうとする者が、家臣しか思い浮かばないのですから、婿様はやはり幸せなのですね」
馬鹿にされたようには感じなかった。
帰蝶の言葉に含まれていたのは、羨望、あるいは嫉妬だった。
「蝮殿の息子の誰か、あるいは全員か……?」
「誰か、などとは考えるまでもございませんよ。そのような真似をなさるのは、新九郎兄上をおいて他におりませんゆえ」
新九郎。斎藤新九郎義龍。
帰蝶の父である斎藤道三の長男であり、跡取りとされる。
しかし、二人の親子仲がよろしくないという情報は、尾張にまで流れてきている。
実の子ではなく、それ故に、道三は他の息子に家督を継がせたがっているという噂まで出回っていた。
長男であるが側室の子。更に、その下には正室との男子がいる。
「婿様の兄上は、お優しい方で、羨ましいですね」
帰蝶の呟いたその言葉は、果たして皮肉なのか自虐なのか。
表情と声色からでは、判断できなかった。
織田信安は調べると、意外と、どころかかなり織田弾正忠家に近い人物なんですよね。
息子が信長との決戦前に信安を追放したという話と合わせると、弾正忠家との争いには消極的だったのかもしれません。
そして美濃で何やら不穏な動き。ちなみに史実における長良川の戦いは、本文より数年後です。はたして。




