牧野家

「あの阿呆は何を考えているのか！？」

牛久保城にて、城主、牧野貞成(さだなり)が憤っていた。

理由は、従兄弟の牧野成定(しげさだ)である。

安祥家に降る条件として、牛久保城の安堵を申し出たところ、牛久保城を譲渡する代わりに瀬木城を安堵すると返答があった。

脅迫にも似た文言も添えられていたが、互いの力量差を考えれば仕方ないと思えた。

独立領主としての牧野家が残るなら、と貞成はこれを受け入れた。

事後承諾になるのもまずいと思い、瀬木城に事の次第を記した書状を送ったのだが、返って来たのは首だけになった使者だった。

成定は確かに、家臣というより分家の長のようなものだ。

牧野惣領の決定とは言え、従う義務は必ずしもあるとは言えない。

だが、これは確かな宣戦布告だ。

おまけに、これに前後して、瀬木城周辺で戦支度が始まっているという。

兵糧物資が次々に瀬木城に運び込まれているのを見ると、籠城する気だとわかる。

貞成も戦支度をしつつ、状況を伝える書状を安祥家に送った。

「吉田城より兵が参る。協力して解決にあたれ」

返って来たのはそんな言葉だった。

だが、これはある意味僥倖だった。

安祥家本隊は五井松平家と合流して岩略寺城を攻略するという。

成定の突然の造反は、間違いなく今川家と繋がっているはずだ。

だからこそ、岩略寺城が落ちれば降伏せざるを得ないだろうと貞成は考えていた。

牧野家は三河守護、一色氏に仕えていた守護代の家系だ。

元々は応永年間に牧野成富(しげとみ)によって築かれた牧野城を居城としていた。

文明九年（１４７７年）、当時牧野家が仕えていた一色時家が、家臣の波多野全慶の謀反によって討たれた。

この波多野家に対抗するため、明応二年（１４９３年）、牧野家が築いたのが瀬木城だった。

灰塚野にて波多野全慶を討ち、一色時家から奪っていた居城、長山一色城を奪い、牧野家当主成時(しげとき)は同城へ移住した。

この時牧野城は廃城となり、瀬木城には孫の成勝（しげかつ）が入った。

永正二年（１５０５年）に成時は今橋城を築き拠点を移した。

長山一色城には瀬木城城主だった成勝が入り、瀬木城には成勝の次男、氏成（うじしげ）が入る。

その後、享禄二年（１５２９年）に成勝が牛久保城を築いて移住した事で、長山一色城は廃城となった。

この氏成の息子が成定であり、牧野家惣領の血筋が、戸田氏、松平家に今橋城を攻められて三河から逃れた際、牧野家は牛久保牧野と瀬木牧野に事実上分裂してしまった。

瀬木牧野家は牛久保牧野家に従いながらも従順とは言い難く、その背景には、勝手に惣領を名乗るな、という思いがあった。

この牧野家の対立が、東三河に進出してくる安祥家への対処を巡って表面化してしまったのが今回の顛末である。

勿論、そこに今川家の介入があったのは明白だった。

今川家とて、今橋城を奪還してすぐは、牧野家から返還の要求を受けていたので、彼らが快く思っていない事は理解している。

岩略寺城の朝比奈元智から、牛久保牧野に造反の兆候ありとの報告は受け取っていたので、成定と接触していたのだ。

西から来ようと南から来ようと、牛久保城と牧野家の領地は安祥家にとって要衝となる。

牛久保城と瀬木城が争えば、多少なりとも安祥家を足止めできるだろうという思惑だった。

「吉田城からどれほどの兵が来るかはわからぬが、頼り過ぎては瀬木城さえも没収されかねん。できれば、その前に瀬木城を囲んでおきたい」

しかし、牛久保城単独でそれは難しい。東三河の諸勢力の力を借りる必要があった。

「まずは久保城の奥平貞能(さだよし)に書状を送れ。九八郎殿には妹が嫁いでいるから協力してくれるはずだ。そして母御殿は安祥家と婚姻同盟を結んでいる水野家の一族。先年亡くなられた先代九八郎殿の継室は菅沼定継の妹。田峯菅沼にも協力が頼めるやもしれぬ。野田菅沼家の新八郎定村殿は、安祥家と同盟を結んでいる深溝松平家の娘を妻としている。こちらも協力してくれるだろう」

言ってしまえば、瀬木城を囲む東三河の勢力は、その殆どが牛久保牧野か安祥家と繋がりがある。

この情勢で反抗した成定の先見性の無さを蔑むと同時に、そのような情勢で成定を寝返らせた今川家の手腕にも驚かされる。

「西郷や設楽家にも手が伸びているかもしれんな。奥三河の山地に拠点がある設楽家はともかく、豊川のすぐ東に領地を持つ西郷家が今川方だとまずいな。吉田城を狙われてしまうやもしれぬ……」

更に、奥平家や設楽家、田峯菅沼家にも分断工作がなされている可能性がある。

「兵を引き上げておいてこの影響力、流石は幕府の名門今川家という事か……」

決して楽観できる状況でない事を理解し、貞成は改めて、今川家の強大さを実感したのだった。

一方の瀬木城評定の間では、成定は不安そうな表情を浮かべて家臣を見ていた。

「ひ、平右衛門、本当にこれで良かったのか？　牛久保城の新二郎殿と協力して、安祥家に降った方が良かったのでは……？」

「何を仰います。伝統ある牧野家が、安祥家のような新興の家に従う必要はございません」

反対に自信満々に、成定家老の稲垣重宗が答えた。

「その通りでございます。新二郎様の血筋も、殿の血筋も、どちらも牧野家惣領の庶流。新二郎様に従う必要はございません」

同じく家老の稲垣氏連が肯定する。

「然り。そもそも新二郎様は、殿の祖父殿にあらせられます民部丞様の嫡流ではございませぬ」

同じく家老の稲垣氏俊が言った。

「ならば新二郎様は牛久保牧野家の当主ですらございませぬ。本来の当主であらせられます、田三郎様が駿河におられる事を良い事に、家中を牛耳っておられる」

同じく家老の山本成行(しげゆき)が続いた。

「むしろ、これを討つ事こそ天道と言えるのではないでしょうか」

そして再び、重宗が口を開き、そう締め括った。

「そ、そうだな。間違っておるのは新二郎殿の方だな」

成定の父、氏成が早くに亡くなった事もあり、彼は父の代からの宿老である重宗を始めとした稲垣三兄弟を頼りにしていた。

成行も、歳が近く、兄貴分のような存在であったため、ついつい頼りがちだ。

言ってしまえば瀬木城は、この四人の家老によって牛耳られているのである。

「おそらく新二郎様は、妹御が嫁がれている奥平家、そこと繋がりのある田峯菅沼家に協力を仰ぐでしょう」

「しかしどちらも三河の奥地。些かの脅威もございませぬ」

「野田菅沼家は今川家と結んで渥美の田原戸田家を攻めたほどの仲。しかもその際に安祥家と一戦を交えておりますので、協力する事は有り得ませぬ」

「だ、だが、野田菅沼の当主、新八郎殿の奥方は、今年の初めに安祥家と結んだ深溝松平家の娘であるはずだ」

重宗と氏連の言葉に、成定が反論する。

「むしろだから、でございますよ、殿」

しかし氏連は慌てない。

「然り。深溝松平家の同盟は、安祥家の武力に恐れてのもの。言ってしまえば安祥家の脅迫に屈した形でございます」

氏俊が言葉を続ける。

「生家がそのような情けない姿を、奥方が黙って見ているとお思いですか？　歴史ある、松平家の分家の姫でございますよ」

「むぅ……」

成行にそのように言われて、成定は口を噤んだ。

「更に言えば、田峯菅沼家にしても、当主定継の弟、定直も田原城攻めに帯同しており、そこで安祥家と争っております」

重宗が更に成定を安心させるための材料を積み上げる。

「その通り。今川家からの要請を、父や兄から押し付けられていた定直が、大人しく定継に従うとは思えませんな」

「然り。奥平家も決して一枚岩とは言えませんゆえ」

「牛久保城に近い西郷家は、遠江国の今川家からの影響を最も受ける位置にあります。瀬木城は決して孤立しておりませぬぞ」

「う、うむ、そうだな」

家老達からそのように言われて、成定はすっかり信じてしまった。

勿論、彼らは決して嘘は言っていない。

ただ、彼らの望み通りにならない可能性に言及していないだけだ。

「我らは城に籠って援軍を待てば良いのです」

「その通り。牛久保城単独の戦力では、瀬木城を落とす事叶いませんからな」

「然り。これこそが、殿と新二郎様が同等の証にございます」

「彼らの頼るべき援軍は、我々の協力者が抑えてくれます。西郷家からの援軍があるだけ、我らが有利でしょう」