三河統一に向けて
天文19年三月。
松平家宗家との講和が成り、それに合わせて他の松平家分家が降伏してきたり、和睦を要請してきたりした。
これによって、松平家との抗争はほぼ終了。
あとは東三河を始めとした、三河の独立領主を調略しつつ、岩略寺城を攻略すれば、三河の統一は完了する。
もう四年もすれば竹千代が元服するから、信長の姉妹と婚姻させて岡崎城に戻せば、それで三河は治まるだろう。
その後の領地配分によってはもうひと揉めありそうだけど、その前に遠江をある程度支配していれば、岡崎城近辺の領土を松平家のものにしても、安祥家内での不満は少なくて済むだろう。
ただそうなると、東海道は岡崎城にかかっているので、街道の権利をどうするかは考えておくべきだな。
いっそ吉田城から吉良家の勢力圏を通り、三河湾沿岸から熱田へ繋がる街道をしっかり整備して、そちらを主要街道にするべきか。
西尾湊から伊勢への航路の安全がしっかりと確保されれれば、そう認識してくれる人も多くなるかもしれない。
そういう意味では、佐治水軍の取り込みと強化、志摩水軍との交渉は重要だな。
親爺には是非、尾張統一後は美濃ではなく伊勢へ向かって貰いたい。
山中城は大草松平家に返却したけれど、資金と人手を投入して周辺を開発して東三河への圧迫に利用する。
うちの作事衆や警邏衆が、有事の際には兵になる事は三河では知られているからな。自分達を攻める準備をしているのではないか、と疑心暗鬼にかられる可能性は十分にある。
勿論、降伏を促すための書状は送っている。
とりあえず、吉良家と繋がった深溝松平家と繋がる野田菅沼家は良い手応えが返ってきている。
菅沼氏惣領の田峯菅沼家は比べると頑なだな。こちらとは一戦交えないといけないかもしれない。
田原城救援の際に一度戦ってるんだけど、連合軍だったから向こうとしては負けたつもりがないみたいだ。
西郷家は独立志向なのか、降伏ではなくて同盟を提案してきている。
その領地は東三河の中部から北部にかけて山がちであるので、それもアリかと思っている。
奥平家は、田原城救援の際に当主貞勝が討死した事で、若くして後を継いだ貞能が迷っている感じだ。
母親は忠政さんの妹で、つまり於大とは従兄弟にあたる訳だけど、既に水野家に戻っているし、奥さんは牧野成種の娘だからな。
ただ、こちらは牧野家をなんとかすればなんとかなりそうな感じだ。
という訳で三河湾沿岸を、東へ向けて進軍し、鵜殿家と牧野家の領地を攻める準備をする事にする。
当然、吉良家に先に書状で通知しておかないといけない。
そう考えて書状を送ったら、割とすぐに返事が来た。
まぁ、所謂軍事通行権の要請だけだし、謝礼も約束しているからな。そんな悩む事でもないんだろうし。
「…………安楽、これは真か?」
その書状を持って来た、安楽に俺は尋ねた。
声が震えていた。それほど、衝撃的な内容だった。
評定を開く前に書状を確認しておいて良かった。
「はい。間違いなく、上総介義安様より受け取りました」
「…………」
そもそもが、この書状を安楽が持って来る事自体がおかしい。
黒祥衆には確かに書状の配達も頼んでいる。
自領内であったとしても、敵がどこに潜んでいるかわからないからな。途中で書状を奪われたら事だ。
そのため、そうした隠密行動に長けた黒祥衆の重要な任務とされている。
しかし、吉良家は弾正忠家の同盟相手だし、安祥家の同盟相手だ。
黒祥衆に手紙の受け渡しを頼んでいたとは言え、技量が最も高い、安楽がその役目を負う必要は無い。
普段から、危険度の低い任務は安楽以外が請け負っている。
だったら、今回が特例って事だ。
その特例の理由がこの書状の内容だとするなら、この情報は限りなく真実だという証明になる。
「吉良家にて、造反の動き……」
簡潔に書状の内容をまとめると、そういう事だった。
ただ、義安自身が安祥家との契りを断とうとしている訳ではないらしい。
吉良家家臣の間で、吉良家が三河を支配しようという動きがあり、大草松平、深溝松平を巻き込んで、安祥家に対抗しようという動きがあるそうだ。
ただ、すぐに何かがある訳じゃない。吉良家の三河支配、足利幕府の名門吉良家の復権を望む彼らにとって、今川家の下につくのは勿論、結ぶ事も許されない行為だからだ。
今安祥家と敵対しても、今川家の力を借りないと打倒は無理だし、それこそ、今川家に漁夫の利を与える事になるかもしれない。
だから彼らは、安祥家の三河統一が見えてきたので、背後から殴りかかって掠め獲ろうという魂胆らしい。
当然、吉良家の領土を通り、吉良家を背後において、上ノ郷城や岩略寺城を攻める今度の戦は、まさしく好機と言えるだろう。
だから、義安はこのタイミングで安楽に書状を渡したんだろうな。
通常の書状なら他の黒祥衆でも良かったが、この書状は、吉良家の家臣に奪われるだけでも義安自身に危険が及ぶ。
そもそも吉良家は、東西吉良家を統一したと言っても、あくまでうちが西条吉良家を滅ぼして、東条吉良家を、吉良家惣領として認めただけの話だ。
だから、現在の吉良家は、東西吉良家の家臣が混在している訳じゃなくて、完全に東条吉良家としての色が残っているんだ。
そして現当主の義安は、元々西条吉良家の出身。
もともと養子として東条吉良家を継ぐ予定だったとは言え、一度は西条吉良家の都合で西条吉良家を継いだ身だ。
会う時にいつも感じていたことだけど、多分義安は家内でも肩身が狭いんだろう。
傀儡にされていたり、押し込められていないだけマシか。
「…………」
「…………」
問題はこれからどうするかだ。
義安はわざわざ教えてくれたけれど、実際にはまだ何も起こっていない。
うちと吉良家は対等の同盟であるから、その家臣が、三河の支配に関して希望を持つ事自体はなんらおかしい話じゃない。
安祥家と吉良家の分割統治のつもりだった、なんて言われたら、それ以上追及できないからな。
勿論、荒っぽくいっていいなら、追及なんてする必要もない訳だけど……。
いずれ吉良家が安祥家に降るつもりだったとは言え、あれは俺と義安の雑談の中で出ただけのものだ。
家臣が知る筈もないし、その話は正式に決まるまでしない方が、吉良家に協力してくれる家も多く出るだろうって話にもなってたからな。
うぅむ、三河南部を吉良家に任せていると楽だったからって、ちょっとほったらかしにし過ぎたな。
「……監物と小左衛門に現在安祥城城下におる足軽大将以上の武士を評定の間に集めるよう伝えよ。今日中に安祥城へ参集できる位置におる足軽大将以上の武士にも召集を命じよ」
「はっ!」
ともかく、俺一人じゃ結論が出ない。
安楽に命じ、俺も資料を集めるために自室を後にした。
「吉良家が造反とは……」
その日の午後、とりあえず数が集まったので評定を開いた。
俺が義安から届いた書状の内容を伝えると、場内は騒然となる。
その中でも、吉明が蒼褪めた顔をして呆然と呟いていた。
「まだ確定ではないが、我らが東三河へ出向けば、かなり高い確率で発生するであろうな。上総介殿も、そうなれば家内の意向に従うほかあるまい」
義安にとって幸いだったのは、吉良家が安祥家に反抗しようとする時に、始末される危険性が低い事だろう。
義安には子がおらず、東条吉良家出身の男子は、みな安祥家に仕えている。
それこそ、義安を討ってしまうと、安祥家に吉良家奪還の大義名分を与えてしまう事になる。
そうなった場合は荒川義弘が継ぐ事になるだろうか。
いや、こういう事を今後起こさせないために、現在の義安の妻を、俺が側室として、於大の次男、鳳凰丸を吉良家の養子に出す、というのが一番かもしれない。
まぁ、そうならないのが一番良い。
とりあえず、義安には早まった真似はしないよう書状を送っておいた。
正直、目まぐるしく情勢の変わる三河で独立を保つ事に疲れてるっぽかったからな。
自分が死ねば、安祥による吉良家の取り込みがうまくいく、とか思われてもまずい。
「ふむ、ここはひとつ、安祥家の力を見せるのが良いのではないかな?」
意見をしたのは広虎だ。
俺は無言で頷き、続きを促す。
「吉良家は安祥家と直接戦った事が無いのだろう? だから、安祥家の強さを実感しておらんのだ。今回吉良家側につくという二つの松平家を含めれば、領地の広さはそう変わらんからな」
「これまで統一叶わなかった東西吉良家を力づくで統一させた安祥家の力を過小評価するなど、そのような者が三河を統べられるとは思えませぬ」
広虎に同調するかのような意見を口にしたのは富永忠元。
実際にうちに敗北して降っただけに、安祥家の力をよくわかっている事と、父親は東条吉良家の家老だった事から、元主家の愚かさに憤っているのかもしれない。
「今回書状で知らせてくれたように、上総介殿は安祥家との争いを望んでおらぬ。可能であれば穏便に済ませたいが……」
「無理でしょうな」
碧海広大がすっぱりと断言した。
安祥家分立後、多くの戦に参加して手柄を立てているため、彼の発言力は増している。
そろそろ父親の古居も隠居を考える年齢だから、そういう意味では頼もしい。
「少なくとも、大草松平、深溝松平のどちらかとは戦になるでしょう。そして、どちらかと戦になれば、吉良家も参戦せざるを得ません」
「ただ、うまくすれば大草松平家だけを分断する事はできるかもしれません」
「小左衛門、理由は?」
「はい。大草松平家は、大草と山中の地をそれぞれ領しており、山中にある山中城には、現在領地開発の名目で安祥の兵が入っております。そして山中城には大草松平家当主、松平昌久の嫡男、三光が入っておりますれば」
「ふむ、人質として使えるな」
「いえ、逆です」
広虎が理解を示すが、吉次は否定する。
「三光を安祥家に取り込み、大草松平家を分断します。大草松平家の当主を三光に名乗って貰い、これに従わない昌久を討つ、という大義名分を得ます」
「可能か?」
「山中城の部下から聞いた限りでは、可能です。三光は元々吉良家ではなく安祥家寄りです。山中城からの脱出とこれの奪還、更に、無償で返却した事で我々に恩義を感じているそうです」
「しかし、昌久につく者もいよう」
「むしろ、そうでなくては困ります。大草松平家に安祥家の力を見せる機会が無くなってしまいますので」
「成る程、一理ある。しかし小左衛門、それでは結局、深溝松平や吉良家も参戦してくるのではないか?」
「いいえ殿、それは大丈夫でしょう。勿論、そうなる可能性もありますが、極めて低いと断言できます」
「どうしてそう思う?」
「既に吉良家が安祥家との対立姿勢をうちだしているというなら別でしょうが、現状では、吉良家は安祥家と友好的であるという態度を崩しておりません。そして、あくまで大草松平のお家騒動に、新しく当主になった三光からの要請で安祥家が介入する形です。吉良家、深溝松平ともに動くのは難しいでしょう」
「だが、それで昌久が討たれてしまえば、吉良家の勢力は削られてしまうぞ」
だから、昌久に味方するのではないか? と広虎は尋ねる。
あ、目の奥が笑ってる。あれは正解を知りながらあえて聞いている時の目だ。
「安祥家の力を測りかねているとは言え、今川家を撃退し、太原雪斎を討った実力は認めているはず。正面から戦って勝ち目があるとは思っておらんでしょう。わざわざ勝てるかどうかわからない、昌久の救援に赴き、安祥家に吉良家攻撃の口実を与えるような真似はしないと思われます」
「それがわからぬほど、吉良家の家臣共が阿呆であれば、楽ではあるがな」
どうやら吉次と同じ考えだったらしく、にやりと笑いながら広虎はそう言った。
「確かに、安祥家が東三河を攻めている間にその背後を討つ、あるいは、矢作川西岸を襲うというなら、大草松平家は見捨てても可能だろうからな。それを成功させようと思えば、大人しくしているか……」
広大が吉次の意見に納得したように頷く。
「しかし、それでは結局吉良家の脅威は残るのではないか? 昌久を討っただけで安祥家の力が伝わるとは思えんぞ」
ようやく、頭が現実を受け入れたのか、吉明が疑問を口にする。
「それこそ、その時点で上総介殿に、安祥家に降るよう表明して貰えば良いのです。家臣が従わないようなら、安祥家が吉良家を攻める口実になります。恐らく、上総介殿は幽閉される事になるでしょうから、ある意味その身の安全は確保できます」
確かに、義安を殺してしまえば、仮に吉良家が安祥家に勝ったとしても、誰が吉良家を継ぐのか、という問題が出て来るからな。
家老の大河内あたりが息子を養子として継がせる可能性が高いか。しかし、それはそれで、大河内家による吉良家の乗っ取りが予想される。それを、他の家臣が認めるとは思えない。
まぁ、最悪そんな動きがあったら、義安は安楽や服部保長あたりに助けさせよう。
できれば生きて欲しいが、義安の降伏宣言さえあれば、生死がどうだろうと攻め入る口実になるからな。
「安祥家の力を見せつけ、そのうえで相手の勢力を削った状況で上総介殿が降伏を宣言すれば、吉良家家臣の中にもそれに従う者も出て来るでしょう」
「ふむ、ならばその通りにいたそう。まずは山中城の三光にこの事を伝え、昌久の隠居か追放を宣言して貰わねばな。その時に、青野松平、形原松平に、三光を支持するよう声明を出して貰おう」
青野松平は安祥家に降っているし、形原松平も、吉良家とは勿論だけど、安祥家とも同盟を結んでいるからな。
あくまで大草松平家のお家騒動への声明だ。形原松平が吉良家に配慮する必要は無い。
そして、吉良家には、安祥家と戦になれば、それだけの松平家が敵に回る事を意識させる事もできる。
義安の降伏に説得力が出るし、義安に従う家臣も増えるだろう。
可能なら宗家をはじめとした、他の松平家にも声明を出して貰いたいところだけど、逆にこれを好機と見て、蜂起されても困るから、伝えないのが一番か。
「ならば竹谷松平も味方にしましょう」
「確かにあそことも誼を結んでいるが、あくまで人質をとっての従属のようなものだぞ」
現当主の清宗の母が、形原松平家当主、松平家広の姉だ。そして家広の妻は於大の姉、という繋がりで、うちに従っている状態だからな。
「清姫様を娶りましょう」
あー、そういう話か……。
今川家で人質になっていた清宗の姉。田原城救援の際の人質交換でうちにやって来た女性だ。
竹谷松平に臣従を迫る際に返却しようと思ったんだけど、忠誠の証にそのままうちに置いておいて欲しい、と言われたのでそのままだ。
一応、女房衆として働いて貰っていたけど。
「松平家を全て従えたあとならともかく、現時点で竹谷松平家だけを特別扱いはできぬ。そうだな、玄蕃允殿に書状を送り、安祥家の家臣に嫁がせる許可を貰うというのはどうだ?」
勿論、そんな駆け引きなしでも従ってくれるならそれでいいけど。
「ならば助十郎はいかがでしょう? 父である安芸守殿は安祥家分立前から殿に従っていましたし、三河一向宗門徒の総代だった家柄です。その跡職も助十郎が継ぐそうですし、安祥家にとっても、三河にとっても、その家柄は十分ではないでしょうか?」
石川清兼の息子である、家成を持ち出す吉次。
ちなみに、石川家自体は兄の康正が継いでいる。
ていうか、そこはお前が娶る流れだろう。
「安祥家にとっての重臣であり、かつ三河にとっても名門というなら、小左衛門もそうではないか?」
と、にやにや笑いながら広虎が俺の心を代弁してくれた。
「う、む、まぁ、そうですが……」
吉次の歯切れが悪い。
やっぱり、自分にお鉢が回って来ないように家成を生贄に差し出そうとしていたのか。
「年齢的にも、助十郎よりは其方が妥当であろうな、小左衛門」
という訳で俺も乗っておく。
「それとも、誰か狙っておる女子がいるのか? それなら考慮するが……」
好いた惚れたの話じゃなくても、政治的に相応しい相手がいると考えているなら、吉次の意見を重視しよう。
三河の複雑な政治的な繋がりは、俺だと把握しきれていない部分があるからな。
「いえ、とくにそういった相手はございませんが……」
ここで嘘を吐けないのが小左衛門の良いところであり、短所でもある。
まぁ、それは誰だ? と聞かれたら困るというのもあったのかもしれない。
「ならば、竹谷松平家の許可が下りれば、小左衛門は清姫と夫婦になれ。勿論、そのような駆け引きなくとも竹谷松平家が協力するようなら、其方の婚姻はまた別の機会と別の相手、としても良い」
「はは」
とは言え、竹谷松平家は吉次との婚姻を断らないだろうし、吉次は真面目だから、万が一を考慮して、竹谷松平に婚姻の話を持ち掛けるだろう。
さて、とりあえず吉良家の造反に対する方針は決まった。
あとはこれによって状況がどう推移するかだな。
今川家の影響力の強さで三河支配が進まない可能性は考えていたけど、これは完全に想定外だ。
うまく収まってくれるといいけど……。
あそこはうちより強いから、素直に従っておこう。
皆が皆こんな考えなら、そもそも戦国乱世になんて陥っていませんよね。
安祥家による三河支配が現実味を帯びて来て、それのお陰で吉良家も勢力を伸ばしているからこそ、「これ安祥倒せば俺達いけんじゃね?」と思う輩が出てきてしまうという事ですね。
特に吉良家はなまじ名門なせいで、そこにプライドを持つ家臣が多そうです。家老の大河内家は、東海道全土に広く一族が分布しているので、余計歴史の浅い安祥家を侮っていそうです。




