第三次安城合戦 参
三人称視点です。
それを見た時、本多忠高は頭の中が真っ白になる程の衝撃を受けた。
今川軍への与力として、松平勢を率いる忠高は、当然のように先鋒を任された。
今川軍ができる限り損害を出したくないのは当たり前だし、忠高の目的である、長広捕縛を果たすためにも、この配置は都合が良かった。
目の前に広がる広大な平原。そして、その先にある城郭施設。
石垣を見た時、忠高は、無意識に『勝てない』と思い込んでしまった。
轡を並べる阿部定吉ら、他の松平家武将は気付いていない。
石垣には気付いていても、その効果に気付いていない。
せいぜい、ただの木塀より破壊が大変そうだ、くらいの認識だった。
それは仕方がない事でもある。
古来から石垣、石塁の類は、実力者の居館の防御に用いられていた。
しかし、十四世紀頃から、石垣は防御のためでなく、城郭施設を支える土台として用いられる事が多くなった。
結果、戦国時代には、石垣を防御施設に用いた城はなく、再登場は1556年の観音寺城まで待たなければならない。
今でも城郭寺院をはじめ、寺社には曲輪敷地を支えるための石垣は残っている。
忠高以外の松平勢は、その類だと思っているようだ。
だが、昔の兵法書や合戦絵巻を読み込んでいる忠高は、その防御効果の高さに気付いていた。
何より、日ノ本が外国から受けた数少ない侵略戦争、元寇において、彼らの猛攻を食い止めるのに一役買ったのが、博多湾沿岸に築かれた、石築地と呼ばれる、石垣の防塁だった。
防壁の一部に石垣を用いているからと言って、絶対に落とせない訳ではない。
しかし、安祥城の外周をぐるりと囲む石垣を見た瞬間、忠高は自分達が鎌倉武士に散々に打ち破られた元軍と重なり、敗北を悟ってしまったのだ。
それを理由にここで膝をつき、攻撃を諦められたなら楽なのだが、忠高は松平勢の寄せ手大将を任されている。
松平家宗家の存亡がかかったこの戦で、それを理由に離脱するなど許されない。
雪斎ほどの実力者なら、あの石垣が敷地が崩れるのを防ぐためではなく、明確な防御のためだと気付いていると思うが、何も特別な指示は無かった。
「むしろありがたい」
忠高は呟く。
安祥長広捕縛を目的にしていると言っても、数の少ない松平勢ではそれを成せない事は忠高にだってわかっている。
松平勢に先鋒を任せると言っても、今川軍も含まれているのがその証拠だ。
今川軍だって、安祥城の攻略を目的にしている以上、松平勢をただ使い捨てにするような真似はしない。
だから、雪斎には恐れて貰っては困る。
大国今川家の矜持でもって、今川軍一万で押し寄せて貰わなければならない。
「松平家の存亡この戦にあり! 進め!」
忠高の号令と共に、蛮声を上げて松平勢が柵の内側へと突入する。
数が少ない事が幸いして、兵士の多くが常備兵であったため、非常に士気が高い。
城から火矢が一本飛んで来たと思った直後、忠高はとてつもない轟音と眩い光と凄まじい衝撃を受けて、後方へ吹き飛ばされてしまった。
「平八郎、無事か!? 平八郎!」
自分を呼ぶ声と、体が揺さぶられている事に気付いて、忠高の意識が覚醒する。
「う……五郎右衛門殿……なにが……?」
しかしまだ朦朧としている。何が起きたのか思い出せない。
「安祥の策だ! 空堀が爆発した! 爆発そのもので被害は出なかったが、吹き飛ばされて怪我をした者や、後方の味方の槍に刺された者が出た!」
大久保忠俊の言葉に、徐々に忠高の記憶が鮮明になってくる。
同時に、感覚もその機能を取り戻し始めていた。
目に映るのは激しく燃える空堀と、草原。死んでいるのか気を失っているだけなのか。周囲に雑兵が倒れている。
あちこちから痛みに喘ぐ怨嗟の声が聞こえる。
まさに地獄絵図だった。
「拙者はどのくらい気を失っていたのですか!?」
「爆発があってからそれほど経っておらぬ。今は大蔵らと手分けして兵らを落ち着かせておる」
「そ、そうですか。再突入は可能ですか?」
「可能だ。今川の腰抜け共は躊躇しておるが、先鋒を任されておる以上、ついて来ぬわけにはいくまい」
「それは重畳。しかし、炎が消えるまでは進むに進めないのでは?」
「大丈夫だ、平八郎、あれを見よ」
指差された先を見ると、炎が不自然な位置で止まっているのが見えた。
「火薬が無いだけで空堀が続いているならあのような燃え方はせぬ。あそこに炎を阻む何かがある証拠よ」
「空堀が全て繋がっているのではなく、途切れ目があるという事ですな」
空堀全てに火薬が敷き詰められているという事も考えにくい。
空堀がどれだけ掘られているかわからないが、それは莫大な量になるだろうし、そのような造りでは、引火して勝手に爆発してしまい、効果的な罠にならない可能性が高い。
「おお、平八郎殿、目覚められたか!」
「大蔵殿、ご心配をかけしたようで、申し訳ございませぬ」
忠俊と忠高の下へ、阿部定吉が近付いて来る。
「死んでしまったり、骨を折ったりした兵は二十二人だ。軽い傷を負った者は百人を超えるな」
「そんなに……!?」
「五体が無事でも、光で目を灼かれてしまったり、轟音で耳が聞こえなくなった者もいる」
目が見えないのは勿論だが、耳が聞こえなくては指示が聞こえないため、戦には使えない。
「軽い傷程度なら戦う事に支障はない。まだまだ我らは戦えるぞ」
「……ですな」
突入前に感じた敗北感が、忠高の中で膨れ上がるのを感じた。
いっそ、このまま今川軍に撤退を進言した方が良いのではないかとさえ思える。
今川軍一万が健在ならば、東から安祥家を圧迫する事は可能なのだ。
わざわざ安祥城を狙う必要はない。
だが、その時松平家宗家はどうなっているだろうか?
今川に取り込まれるか、安祥に潰されるのか。
「拙者は所詮槍働きしかできん武士だ。国のかじ取りはわからぬ」
呟いて、忠高は立ち上がる。槍を持つ手に力が入った。
「ならば、今拙者が為すべき事を為すだけよ。先鋒隊、集まれ! 炎の途切れ目より再投入を図る!」
そして松平勢を中心とした、今川軍先鋒が再び動き出す。
「雪斎殿、よろしいのでしょうか?」
今川軍本陣にて、一年前と同じく副将を務める朝比奈泰能が雪斎に尋ねた。
曖昧な聞き方だったが、雪斎はその内容を誤解しなかった。
「あの石垣を見て警戒を強めたが、正しかったと考えておる。あの三町の平原にどれだけの罠があるかわからぬ以上、主力を投入する愚は犯せぬ」
忠高が予想した通り、雪斎も安祥城の石垣が防御のためである事は気付いていた。
とは言え、有効な策を所持していない以上、必要以上に恐れるのもまずいと考え、特に指示などせずに先鋒を突入させた。
「松平からの与力だけならともかく、先鋒隊にはこちらの軍勢も加わっておりますよ?」
「遠江の反抗的な家の者を配置してある。諸共滅べばあとの面倒がなくて良い。かといって、すぐに壊滅されては困るがな」
先鋒隊に任されているのは井伊谷城主井伊直宗、直盛親子。今川義元の父、氏親が遠江に侵攻した際、斯波氏、大河内氏と結んで反抗した井伊氏の一族だ。
その後も、義元の家督相続に反対した庶兄、玄広恵探の起こした花倉の乱、北条家による駿河侵攻に端を発する河東一乱などで今川家に悉く反抗した一族でもあった。
そうした過程を経て、現在は義元に臣従しているが、信用ならない一族である事も事実だった。
「せめて、城壁の手前まで辿り着いて貰い、安祥城の防衛施設をある程度暴いてくれると助かるのだがな」
「しかしこのままでは、爆発する堀を幾つか暴いて終わりそうですよ」
「まだ一町ほども進んでおらぬのに、それはまずいな。松平勢の、宗家復興にかける熱意に期待したのだが、所詮はその程度か……。安倍定次の部隊も投入させよ」
「よろしいのですか?」
安倍定次は阿部定吉の弟であり、矢作・緒川の戦い以降に今川に人質として送られた、松平家家臣の子供達のまとめ役であった。
今回の戦でも、人質となっている子供達の中で、元服した者を連れて従軍させられていた。
「攻城に慣れている者では、手の抜き所も心得ておるからな。こういう時には若さゆえの無謀さも必要だ」
「わかりました」
言っている事はもっともだったが、結局は今川軍主力の損害を抑えたいがための方便である事は泰能もわかっていた。
そして、それを当然の事と受け入れている。
それはこの戦国時代において、当たり前の感覚だからだ。
実力の差はともかく、家臣になったら公平に武功を挙げる機会を与える長広の考え方が異質なのだ。
「後方から後詰が投入された模様です!」
「このままではこの平原の全容を解き明かす前に、我々が壊滅するからな……!」
援軍の登場に声を弾ませる雑兵に、忠高は皮肉で返す。
自分達が露払いに利用されているだけなのはわかっている。
城攻めに限らず、先鋒とは多くの場合壊滅する事を前提に投入される。
だからこそ、一番槍とは武士の誉なのだ。
「どの部隊だ!?」
「旗印は阿部家のもの、三郎右衛門定次様の部隊だと思われます!」
「この期に及んで今川家からは出さないのか……」
そういうものだとわかっていても、忠高は今川家に対する不信感が募る。
しかし、逆に言えば好機とも言えた。
松平家が長広捕縛の手柄を立てるのに、辿り着くのが自分達である必要は無くなった。
投入されたのが今川家家臣を中心に編成された部隊であったら、彼らに手柄を渡さないよう、自分達の壊滅は避けなければならなくなっていただろう。
だが、安倍定次が率いるのは松平家家臣の子供達で構成された部隊だ。
どちらが残っても、それは松平家の手柄になる。
「奮い立て! 安祥城攻略の栄誉は松平家で総取りだ!」
「「「おお!!」」」
何度かの爆発で半分程に数を減らした先鋒隊が、忠高の檄に応えるように力強く叫んだ。
「今川家の鼻を明かせるというなら、我らも協力しようぞ!」
「まこと頼もしい。拙者には十になる娘がおる。いずれ嫁がせるなら松平家家臣にお願いしたいものだ!」
先鋒隊として従軍している井伊直宗、直盛親子も、そんな松平勢を見て奮い立つ。
そして、先鋒隊が柵の入口から一町を越えたところで、突然前方から矢が射かけられた。
「なんだ!?」
「空堀からです! 顔だけ出した兵が奇妙な武器を……」
言われてみると、四十間(約72メートル)ほど前方の空堀から、胸から上だけを出した兵士が、先鋒隊に向けて何かを構えている。
クロスボウであるとは、気付けなかった。
間近で見れば、忠高もその正体に気付いたかもしれないが、この距離ではそれを見抜く事は難しかった。
クロスボウから矢が放たれ、部隊に被害が出る。
「弓隊……!」
「ここまでの行軍で壊滅状態です! 三郎右衛門様の部隊の到着を待った方が……」
「ならば距離を取らねば! このままでは的にされるだけだ!」
矢盾部隊も、本人は無事でも矢盾を失っている者がいた。
忠高たちからは見えないが、空堀にはクロスボウの受け渡しを行う係と、矢を設置して弦を張る係の三人一組なっている。
そのため、本来なら間断無く矢が放たれる事を、彼らは知らない。
主力を呼び込んで壊滅的打撃を与える事を安祥軍は目的にしているため、先鋒隊にその全てを見せる事をよしとしなかったためだ。
「ここまで進んで来て損害を受けている。しかも防御手段も反撃手段も乏しい。ならば、奴らはこちらと距離を取ろうとするはずだ。少なくとも、その行軍が止まる、というのが殿の説明だったが、本当のようだな」
空堀の中で、その様子を見ていた富永忠元が、感心したように呟く。
火薬が敷かれているのは外側の空堀のみ。中段以降の空堀には、彼らのようにクロスボウ部隊、連弩兵が配置されていた。
空堀はすり鉢状に造られているので、敵から矢による反撃があったら、頭を引っ込めて、壁にはりつくだけで回避できるようになっている。
しかも、敵の数が多くて抑えきれない場合、空堀を捨てて逃げる際、空堀から出るのではなく、あらかじめ掘られた坑道を使って、他の空堀へ逃げる手筈だった。
その際には、指揮官に渡されている火薬包に火をつけて、坑道の入口を塞ぐよう厳命されていた。
城の中から太鼓の音が聞こえる。
後詰が投入された合図だ。
彼らも火炎堀で被害を受けているとはいえ、先鋒隊ほどではない。
矢盾で守り、矢による反撃が行われる。
安祥軍が距離を取るとする先鋒隊に追撃をかけなかったため、今の位置を射程外だと思っているようで、一斉射撃を行って来た。
「知らないという事は、これほど恐ろしい事なのだな」
先鋒隊を執拗に攻撃しないよう言い含められていた意味を理解し、忠元は長広への尊敬の念を強める。
最初の一射をやり過ごしたのち、クロスボウによる反撃を行わせる。
届くと思っていなかったようで、先鋒隊は明らかに混乱していた。
太鼓の音が、相手からの反撃があるまで射撃して良い事を許していた。
ここぞとばかりに忠元は矢を放たせた。
何とか態勢を整えた先鋒隊が二射目を放ったのは、実に連弩兵がそれぞれ五発矢を放ったあとだった。
そして、先鋒隊がそれを最後に退いて行く。
勝鬨を上げたいところだが、忠元は我慢した。
自分達はともかく、まだ隠された空堀の中に、隠れた兵がいる。自分達の歓声に思わず反応してしまったらまずい。
「……来たか! 気を引き締めろ! 本番はこれからだぞ!」
忠元の前方で、大きく、そして広範囲に土ぼこりが舞うのが見えた。
それは、今川軍が主力を投入した証だった。
西広瀬城の段々畑の時に、石垣云々が出てきました。その時に調べた感じだと、石垣を防壁として用いる技術、知識自体は昔から日本にあったようです。鎌倉時代以降に廃れて、曲輪敷地の強固化のための技術になっていたようですね。
なので、石垣自体を見ても過剰に反応するのは違うかなー? と思ったのでこのくらいの反応です。ご了承ください。
放たれる火矢。上がる爆炎。その中を縫うように走る軍隊。
合戦映画よりは、戦争映画をイメージして貰った方が、悲惨さがわかるかもしれませんね。




