吉祥の女神
天文18年七月。その日、安祥城は騒がしくなっていた。
駿河や遠江に入らせていた、安楽配下の歩き巫女(偽)から、今川家が武具などを買い集めているという情報が入った。
間違いなく戦の準備だ。攻めて来るのは収穫後か? あるいは来年か。
北条を攻める準備をしている、なんて都合の良い事は考えられないからな、こっちも準備をしないと。
とりあえず、親爺には既に話を通してあって、北条に交易船を入港させる許可を得ている。
ガレオン船みたいな巨大帆船はまだ研究途中で実用化には至っていないから、海岸線を行く事になるから不安はあるけど、早速船団を組織して北条へ商業船を向かわせよう。
今川家が戦の準備をしている事は北条家でも掴んでいるだろうけど、その情報も一緒に伝えてみるか。
一昨年はウチを攻めるためのカモフラージュとして、駿河と伊豆の国境線で戦をしていたからな。北条家の方でも戦の準備をして貰えば、今川家の戦力を幾らか駿河に釘付けにできるかもしれない。
そして戦の空気がにわかに濃くなる中、春先から城内の女性陣をやきもきさせていた事項が解決する。
於広、第一子を出産。
体の大きい於広でも、やっぱり出産は緊張する。
同衾まで三年待たせたせいもあって、妊娠が発覚した時の於広の喜びようは忘れられないな。
「殿、申し訳ございません……」
出産が終わったというので、於広の部屋に行くと、彼女はそのような顔をした。
不幸な事があった訳ではないことは、彼女が抱く赤子が元気に泣いている事で察しがつくが、なんだろう?
「男子を産む事叶いませんでした……」
そんな事か! なんて言えないのがこの時代だからな。
「気にするな。男子であろうと女子であろうと、儂と其方の大切な子である事に変わりはない。其方も子も、無事である事が大事なのだ」
慎重に言葉を選びながら於広の傍に座り、肩を抱き寄せる。
「ありがとうございます」
俺の胸に頭を預けながら、微笑む於広の目にはうっすらと涙が浮かんでいる。
やっぱり、正室という立場上、嫡男となる男子を産みたかったんだろうな。
正直、正室、側室関係無く、俺は長男を跡取りにしようと思っているんだが、今それを言ったら、慰めどころか嫌味にしかならないからな。
「於広、我が子を抱かせて貰えるか?」
「はい、殿、どうぞ」
於広から赤ちゃんを受け取る。
おお、産まれたばかりだっていうのに、明らかに獅子丸の時とは感触が違う。
正直、見た目ではよくわからないけど、こんな時から男女でこれほど違いがある、というのは不思議なもんだな。
「よし、其方の名前は於祥だ! 安祥家に吉祥を運ぶ女神となるだろう!」
獅子丸の時と同じように赤ちゃんを掲げて宣言する。
周囲の女房衆が歓声を上げる。中には俯き、肩を震わせている者もいる。
「お方さま、よろしかったですね」
「はい、お姉様も、傍にいていただいてありがとうございます」
於祥が全然泣き止まないので於広に返す。
赤子をあやす於広に、於大が話しかけた。彼女も、涙ぐんでいるようだ。
意外と難産だったんだろうか? 出産中の状況はまるで伝えられなかったからなぁ。
それに、逆算してみるとわかるが、新年祭で大暴れしていた時には、既にお腹に赤ちゃんが居たんだよな。
お腹も目立ってなかったし、この時代だと検査も碌にできないから、誰も気付かなかったからな。
叱りたいのに、気付かなかったせいで叱れない、という微妙な空気が漂っていた。
それは於広も感じていたようで、妊娠発覚からは素直に大人しくしていた。
いつも元気一杯だった於広が消沈しているのは、こっちも見ていて胸が痛んだ。
於大が献身的に接して励ましてくれていたのは本当に助かった。
「ご自身も大変ですのに、本当にありがとうございます」
「ふふ、いいんですよ。私は慣れていますから」
そう言って撫でさする於大のお腹も膨らんでいる。
於大も第二子を妊娠している。
予定日は十月くらいになりそうだと言う話だ。
於大の体調も心配だが、今川軍の出陣時期も気がかりだ。
産まれて来る子を抱くためにも、絶対に生きて帰るんだ。
うん、これフラグだ。
「しつれいいたします」
障子が叩かれ於広が入室を許可すると、舌足らずだが、しっかりとした口調でそんな挨拶が聞こえ、障子が開かれた。
幼い少年武士が立っている。五歳になる俺の長男、獅子丸だ。
真面目そうな、キリっとした表情をしているが、親の贔屓目に見ても地味だ。
すまん、俺のせいで。
「獅子丸、どうさなったのですか?」
「はい、お方さまが無事出産なされたということですので、ごあいさつに」
「獅子丸、於広も母で良いと申したであろうが」
「はい、父上。しかし拙者は長男とはいえ庶子でありますれば」
俺が苦笑混じりに指摘すると、獅子丸はそう答えた。
女房衆も苦笑を漏らす。
「そうですね、所詮私など側室に過ぎませんものね。獅子丸、情けない母親を許しておくれ」
「は、母上! 拙者はけしてそのような……」
袖で目元を隠し、顔を俯かせる於大に、獅子丸が慌てた。
勿論、誰もが於大の演技に気付いている。獅子丸以外は、だが。
「獅子丸」
「は、はい!」
於広に声をかけられ、ぴんと背筋が伸びる。
俺の時と態度が違うよなぁ。
「お姉様と私の立場の違いなど、それぞれを呼び現す呼び名の違いでしかありません。それは、この城にいる、全ての人間が理解しております」
「はい……」
「私とお姉様に優劣をつけない、というのはそもそもお前の父であり、安祥家当主である殿の命令でもあります。お前はそれに逆らうと言うのですか?」
「い、いいえ! 滅相もありません!」
「ならば何故、自分を庶子などと卑下するのです?」
「…………」
「黙っていてはわかりませんよ」
あー、これはきつい。
声を荒らげたり、感情的に叫ばれたりするんじゃなくて、理詰めでこんこんと諭される事ほど、子供にとってきつい叱り方はないよな。
しかし於大も於広も強くなったもんだ。
「獅子丸、お前は確かにお姉様が産んだ子ですが、私もお前を自分の子供だと思って接しておりましたが、それは伝わらなかったというのですか?」
「い、いえ……!」
言いかけて、獅子丸ははっとしたような表情を浮かべた。
それまで、凛々しく自分を叱っていた於広が、袖で顔を隠し、目を背けていたのだから当然だな。
「私の想いは、お前には伝わっていなかったのですね……?」
よよよ、と崩れ落ちる於広。
ちなみに、於祥は既に乳母となる女性へと預けられている。
乳母は先年、米津四椋との間にできた子を産んだ、於大の侍女であるはなだ。
四椋の討死を伝えた時の彼女の様子はちょっと忘れられない。
自分の方が間違いなくつらいのに、真っ先に、乳兄弟を失った俺を気遣う於大を案じたからな。
明かな強がりだったが、それを指摘するのは野暮ってもんだ。
「い、いいえ! お方さまの心遣いは、しっかりと通じております!」
「ならば、私も母と呼んでくださいますか?」
「も、もちろんでございます!」
「では、今ここで呼んで証明してみせよ」
「は、母上……」
父の再婚相手をお母さんと初めて呼ぶ思春期男子のような心境だろうか。
於広や於大を傷つけてしまった、という罪悪感とは別に、羞恥心も感じているっぽいな。
「うーん、それではお姉様と区別がつきませんね」
さっきまでの悲しんでいた様子はどこへやら、けろっとした表情でそんな事をのたまう於広。
しかし、その態度の違いに気付けないほど、真剣な様子で獅子丸は於広の次の言葉を待っている。
「では私の事は広母と、お姉様の事は大母と呼びましょう」
「え? 母上のほうは呼び方をかえる必要はないのでは……?」
「私とお姉様とで差をつけるなと言ったばかりですよ?」
「……はい」
至極もっともな獅子丸の指摘は、於広によって有無を言わさず潰される。
「では、獅子丸、どうぞ」
「ひ、広母上、大母上……」
「「はい」」
弾んだ声で返事をする二人の母親。
「では獅子丸、お前の妹を、抱いてやってくれますか?」
「も、勿論でございます!」
於広の安否を気遣って、と言っていたが、多分それも獅子丸がここに来た目的だろうからな。
ちなみに、護衛の武士は部屋の外で待機しているぞ。
はなから於祥を受け取る獅子丸。赤ちゃんとは言え、五歳児にはやっぱり重いんだろう、若干ふらついたので、慌てて於広と於大が支えた。
勿論、その全員を支えるべく、俺もスタンバっている。
「お、おお……」
自分の腕の中ですやすやと眠る妹を見て、感嘆の呟きを漏らす獅子丸。
好奇心に輝いていた目に、怪しい光が灯るのを、俺は見逃さなかった。
「な、名前はなんというのでしょう?」
「於祥と、殿が名付けられました」
「於祥。よい名ですね。於祥、俺の妹……」
そしてそれはどのような力か。
さっきまで、両側から二人の母に支えられなければ、抱きながら座る事すらままならなかった獅子丸が、両手でしっかりと於祥を支えて、天に掲げた。
「於祥、俺の妹……。まかせろ! 必ず俺が、そなたの幸せを守ってみせる!」
その頼もしい宣言と、麗しい兄妹愛に、二人の母親をはじめ、周囲の女房衆は微笑ましく思ったらしく、優しい眼差しで眺めている。
俺だけは、額に鈍痛を抱えていた。
まぁ、間違いなく俺の子だな……。
カエルの子はカエル……。




