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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第五章:三河統一【天文十六年(1547年)~天文二十年(1551年)】
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不運な武将、今川義元 肆

三人称視点です。


駿河国今川館にも、松平広忠殺害の報告は届いていた。


「雪斎、夏には兵を出せるか?」


評定の間にて、不機嫌さを隠そうとしない義元は、腹心にそう問いかけた。


「難しくあります。先年の損害の回復が終わっておりませぬ。北条家も怪しい動きてしておりますれば……」


「先年の損害はそちの失態であろうが!」


「…………」


叫ぶほどではないが、語気を強めて責められれば、雪斎も黙るしかなかった。


「長沢城に兵を置いておくのも厳しくなってきておる」


小豆坂の戦いののち、雪斎は五千もの兵を長沢城へ残したままだ。当然、彼らへの補給は現地だけでは間に合わないので、駿河や遠江から送る事になる。


「それは安祥家も同じでありますれば……」


「それが長広の策ではないと言い切れるか?」


問われて雪斎は口を噤む。勿論、その可能性を考えない訳ではなかった。

矢作・緒川の戦いまで、安祥家が松平家に対して仕掛けていた消耗戦略を考えれば、形を変えて、今それが今川家に対して行われている可能性は十分にあった。

お互いの国力差を考えれば、有り得ないと一蹴する事もできるが、可能性があるなら、考慮しない訳にはいかない。


そしてそれを考えると、恐ろしい結論に辿り着く。


長広は、安祥城に入ってからすぐに治水開墾に着手し、収穫量の増産に務めていた。

特産品の生産も奨励し、西尾湊を整備する事で、三河の東西を交易で繋ぐ事にも成功している。


商業、軍事といった総合力的な国力では今川家に遠く及ばないだろう。

だが、こと生産力に関しては、今川家に匹敵するかもしれないのだ。


もしも長広が、安祥城に入った時からこの状況を想定していたとすれば?


先年雪斎が描いた、一年をかけた戦略など目ではない、九年をかけた大戦略をもって、今川家に戦争を仕掛けていると言える。

それだけの準備をして挑んでいるのだ。

それに付き合えば、間違いなく負ける。


勿論、長広はそのような壮大な計画で安祥城周辺の開発を行っていた訳ではない。

しかし確かに、目の前の松平家だけでなく、その奥にいる今川家との戦も想定して、開発を進めていた事は確かだ。

今川家が本格的に三河に介入する前に、と急いでいただけであったが、外からそんな事はわからない。


「長広めの小癪な策に付き合ってやる必要はない。一万の兵を率い、長沢城の兵と合流したのち、安祥城を攻めるのだ」


「安祥城を……でございますか?」


「吉田城を攻めて渥美半島を支配したとして、その後はどうする?」


普通に考えれば、その時点で一度兵を戻さなければならないだろう。


「その間に長広めはまた小癪な策を講じるであろうな。その間に松平家宗家をはじめ、西三河を完全に呑み込めば、渥美半島の失陥など気にする事もなくなるであろうの」


それは確かにその通りだと、雪斎も思った。

安祥家が弾正忠家、田原戸田家と協力して渥美半島を開発している事は知っているが、米ではなく、苧麻からむしや麻の栽培に力を入れているという。

勿論、西尾湊を利用しての交易と、津島、熱田を支配する弾正忠家と繋がる安祥家に、銭になる作物がどれほどの力を与えるか、わからない雪斎ではない。

しかしそれでも、矢作川の東から、三河中央部までと比べると、その価値が劣るのは確かだ。


「渥美半島に水軍の拠点を作ろうにも、それはそれで銭も物資も人手もかかる。渥美半島を獲ったからと言って、すぐに海路で西尾湊を襲撃できるわけではない」


恐らくそのような状況になれば、交易、客船に使用されている、西尾湊所属の船が悉く敵に回り、海上が封鎖されてしまう事は想像に容易い。


「だが、他の領地が残っていようとも、長広さえ討ってしまえば、安祥は滅びる。少なくとも、分裂して弱体化するであろうの」


安祥家としての独立を保とうとする派閥、弾正忠家に服属する事を望む派閥、そして、松平や今川に従おうとする派閥。

間違いなく、割れる。

急速に勢力を拡大する以上仕方のない事とは言え、様々な立場の人間を抱え込んでしまっているが故の当然の話でもあった。


「畏まりました。しかし、安祥城を攻めるとなればそれ相応の準備が必要。秋の収穫までお待ちいただけますか?」


「よかろう。新年の宴には、長広めの首を肴に酒を飲めるよう努めよ」


「はは!」


年内に安祥長広を討つ。

それは、ただ戦に勝つだけでは駄目だった。

野戦ではほぼ不可能。包囲殲滅でもしない限り、長広の首を獲る前に彼らは逃げ去るだろう。

それは、昨年の戦で経験済みだ。

そしてそのような状況を、容易く作れるとは思えない。


ならば、方法は一つしかない。


それは、昨年雪斎が一年をかけて回避しようとした状況に、自ら飛び込むという事に他ならなかった。

安祥長広が守る城を攻めるという、考え得る限り、最悪の状況での攻勢。


しかもその城は、長広が九年をかけて防備を強化してきた城なのだ。

この状況ですら長広の想定通りなのではないか?

大口を開けて待つ怪物の下へと赴く気持ちで、雪斎は評定の間を後にするのだった。




「今川家が安祥城を攻めるそうだ」


岡崎城の評定の間に、松平家宗家譜代家臣のみが集まり、会合を開いていた。


書状を取り出し、鳥居忠吉が重臣達に伝える。


「長沢城にいつまでも大軍を置いておけぬのだろうな。それで、目標はわかっているのか?」


「だから、安祥城だ」


「……は? はぁああぁ!?」


尋ねた大久保忠俊は、その言葉の意味するところを理解し、驚愕して叫んだ。


「吉田城でも上和田城でもなく、安祥城だ。今川家は一気に勝負を決めるつもりのようだな」


「そ、それは心強い。松平家宗家の仇敵、安祥家を滅ぼせるというなら我らも是非参戦せねば!」


勇ましく叫んだのは大蔵定吉だ。

広忠の岡崎帰参を今川家に助けられてから、彼は松平家宗家を一番に考えながらも、今川家に恩義を感じていた。

そして、彼を松平家宗家に留めていた理由である、広忠が殺された以上、彼は親今川派としての立場を隠そうともしていなかった。


「果たしてそれで良いのだろうか?」


「監物殿、どういう意味だ?」


忠俊の問いかけに、忠吉は真面目ぶった表情で答える。


「なに、松平家宗家に新しき当主を戴かないのは、嫡男であらせられる竹千代様が生きていらっしゃるからであるし、庶子のお子らが幼いからであろう」


「其方、まさか……!」


忠吉の意図に気付いた定吉が思わず腰を浮かす。


「事ここに至っては、我らは今川だの安祥だのに拘らずとも良いのではないか? 安祥が勝てば安祥につき、今川が勝てば今川につく。ここで今川と共に出陣してしまっては、もしも安祥が勝った時、竹千代様を含め、尾張で人質となっている者達が殺されてしまうかもしれぬ。当然、風前の灯である松平宗家がどうなるかは言うに及ばず」


「それは今川でも同じではありませんか? ここで協力しなければ、今川家が松平家宗家に価値無し、と判断してしまうのでは?」


反論したのは本多忠高。若輩者だが、広忠暗殺犯、岩松八弥を討った功績で、家内での発言力が増していた。


「いやさ平八郎。今川には、反抗しないだけでも十分に忠誠を示せる。能見、滝脇と協力して、吉良家とその一味を抑えるとでも言えば良いのだ」


「なるほど、安祥が勝てば、今川に協力しなかったと言えるし、今川が勝てば、忠誠を示せたと言えるわけか」


膝を打ったのは、忠俊と同じく岡崎五人衆に数えられる、林忠満だった。


「今川家の我らに対する評価が、今より下がる事はないでしょうからな」


消極的な賛同を示したのは、譜代家臣の天野景隆。息子を竹千代の小姓として尾張に送っているため、安祥家とはあまり争って欲しくないと思っている。


「だが、それでは殿の無念を晴らす事ができぬ!」


「それに監物殿、其方の管理する矢作大橋の修復には今川家から銭が出ているはず。その恩を今返さずしていつ返すと言うのです!?」


場の空気が日和見に傾きかけた事を察した定吉と忠高が反論する。


「矢作大橋と橋元町の管理は息子が行っているのでな、儂は関与しておらぬ。今川には確かに感謝しているが、それはこれまでの献身で十分であろう? 松平家宗家は、嫡男を人質に取られながらも、織田弾正忠家に従わなかったのだぞ?」


「むぅ……」


今川家への忠誠を示しながら、今川を三河に呼び込むための広忠の策だったとは言え、その事実は家臣に今川家への献身を消極的にさせる要因になっていた。


「それに、今川家から此度の陣容が通知されている」


言いながら、忠吉は一枚の書状を差し出した。

忠俊が受け取り、一瞥する。


「このようなもの、どうやって……」


「それこそ、息子は矢作大橋修復の件で今川家と親密だと思われているからな。こういう情報も届くのだよ。まぁ、矢銭の要求と一緒にだが」


忠吉がにやりと笑うと、忠俊、定吉、忠高を除く武将らもつられて苦笑いを零す。


「この陣容は本当なのか?」


「そこまではわからぬ。だが、花押は本物だ」


忠俊の表情が憤怒に歪む。理由は、そこにある名前を見つけたからだ。


大久保忠世。


上和田城が松平忠倫に奪われた際、人質として囚われた、忠俊の弟、忠員の長男だ。

矢作・緒川の戦いの後、上和田城を松平家宗家に返す条件として、今川家に人質として送られた。

駿河にて元服した事は知っていたが、まだ18歳。初陣こそ済ませたと聞いたが、人質では碌に戦には出ていないはず。


他にも、同じく今川に人質として送られていた、重臣の子供の名前が連なっている。


「積年の恨みを晴らす機会を与えられたと言えば聞こえは良いが、実際はどうであろうな? 安祥家を本当に滅ぼすつもりなら、このような陣容にはすまい。遠江の家を中心に選出したとしても、若輩者ばかりではないはずだ」


忠吉の言葉に、書状を持つ忠俊の手が震える。その手から書状を奪い、内容を確認して、定吉も愕然とした。


「仮に今川家が、安祥城を落とすだけならこれで十分だと判断したのだとしても、間違いなく、この若者らが前に出る事になるだろう。つまり、犠牲となりやすいという事だ」


「宗家復興のための礎となるなら、それは尊い犠牲でしょう」


「そうだな。重臣の子らが悉く討死しても、松平家自体は残るだろうな」


「…………」


反論した忠高だったが、忠吉の言葉に押し黙ってしまう。


「それで? 家臣を、それも未来を担う若者を多く失った松平家宗家はどうなる? 今川を主筋としながらも三河で独立が保てると思うか? 間違いなく今川家は、安祥家を滅ぼすと共に、松平家宗家の力も削ごうと考えているぞ? 相手が両天秤でいるのに、我らだけ盲目的に忠義を尽くす必要はあるまい」


「そ、それでも! 我らは今川家の先頭に立たねばなりませぬ!」


「何故だ? 平八郎」


「今川家が安祥家を滅ぼすつもりだと言うなら、それは安祥長広を討つという事に他なりませぬ! それでは、尾張にて人質となっている竹千代様を始めとした若者も殺されてしまうでしょう」


「それと松平家が先鋒を務めるのとどう関係がある?」


「我らが先鋒となり、城内へ突入し、長広が自害する前にその身柄を確保いたす! それをもって、竹千代様との人質交換に利用するのです!」


「そう上手くいくものか。大体、既に分家として独立した者だぞ? 人質としての価値があると思うか?」


「長広を見捨てれば、安祥が丸ごと敵に回ります故!」


忠吉と忠高が無言で睨み合う。

忠吉の言葉は正しい。本来、籠城戦で敗北した城主が、生きたまま捕らえられるという事は稀だ。

あの長広でさえ、城主とその嫡男は自害させている事が多い。


だが、忠高の言う事も間違ってはいない。

松平家宗家に、嫡流の男子を戴くためには、砂粒程の確率にさえ賭けなければならないのだ。


「…………はぁ」


先に折れたのは忠吉だった。

歳を取ると持久力が無くなっていかん、とボヤく。


「松平家宗家の台所を任された身としては、今川家への従軍を許す訳にはいかぬ」


「監物殿……!」


再び声を荒げかけた忠高を、忠吉は片手で制する。


「だが、自らの領地から兵を集め、自主的に与力する者を、止める権限を儂は持たぬ」


「……! かたじけない!」


絞り出すように言うと、忠高は一度頭を下げ、立ち上がった。


「甥が参加するというなら、年長として世話をしてやらねばな」


「殿のお子を取り戻すためとあらば、この大蔵定吉、鬼にもなりましょうぞ」


忠俊と定吉も立ち上がる。定吉にいたっては、自らの弟も今川軍に名を連ねているので、余計に従軍しない理由が無かった。


「監物殿……」


重臣二人の行動に、他の家臣も動揺する。


「捨て置け。どうせ使い番殿から出陣要請があるであろうから、丁度良い言い訳になる」


(完全に出兵を防ぐ事は叶わなかったが、これでも十分であろうな)


忠吉の言葉に、何人かの家臣が立ち上がり、評定の間を後にした。

暫くしたのち、忠吉は大きな溜息を吐く。それを恥じているのか、口元を隠す動作に、残った家臣達は表情を曇らせた。

しかし彼らは気付かなかった。隠した袖の内側で、忠吉の唇が妖しく歪んでいる事に。


今川軍の総数からすれば、松平軍が参陣するかどうかは些細な違いでしかない。

しかし、松平家宗家が従うかどうかは、三河の武士達にとっては非常に重要な事項だった。


これで三河の民の心を今川に向けない事はできた。

あとは長広が結果を出すだけだ。


忠吉自体は、息子の忠宗ほど安祥家に傾倒している訳ではない。

しかし、鳥居家の今後を考えれば、今川家より安祥家の方が良い方向に向かうだろう、という考えはあった。


「それに安祥家ならば、松平家宗家を、悪いようにはせんであろうからな……」


広忠という当主を失った以上、最早松平家宗家が三河で独立を保てる可能性は無いに等しい。

ならば、最も良い扱いをしてくれるところに預けるのが、譜代の臣として取るべき手段だ。


勿論、今川が勝ったなら、身の振り方を改めなければならないが。




重臣達は松平家宗家を復興させるにはどうするべきかがわかっていない。

本多忠高は、常々からそのように思っていた。


勿論、彼らに忠誠心が無いという訳ではないし、それは忠高もわかっている。

だが、忠義を尽くす、とは言っても、ただ奉公するだけでは駄目だ。


松平家は三河を支配する過程で、三河の各所に一族を送り、分立させてその土地を支配させてきた。

統一するまでは非常に効率的なやり方だが、支配したのちは、再び宗家に参集させなければならない。


そのために必要なのは強い宗家であり、強い当主だ。


広忠は、悪い当主では無かったと忠高は思っている。

清康が存命であり、滞りなく家督を相続できていれば、分家を纏め上げ、松平家の最盛期を築けていただろう。


しかし、清康の突然の死亡。そして、若い広忠は大叔父、信定に追放されてしまった。

あれこそまさに、松平家分家の、宗家に対する思考であり、態度であるのだろう。


そして、一族に追放され、岡崎城へ戻る際に今川家の力を借りなければならない広忠は、分家に見限られてしまった。


はっきりと見捨てなかった分家にしても、広忠の力量を見極めるため、態度を保留するようになってしまった。


そのため広忠は、松平家分家の力を借りる事ができず、安祥家の前に敗北を重ね、余計に分家の支持を失う悪循環に陥ってしまった。


ここから抜け出すには、従属してでも今川家の力を借りて、安祥家を打倒しなければならない。

松平家の復興はそれからの話だ。


そして、安祥家を打倒した後、松平家宗家が再び権勢を取り戻すには、分家を纏め上げる必要がある。

既に城や領地を没収されてしまった、矢作川西側の分家はともかく、矢作川の東側の分家を味方につける必要がある。

そのためには庶子では駄目だ。庶子では分家が従わない。

嫡流の男子を、当主に戴く必要がある。


なんとしてでも、竹千代を取り戻さなければならないのだ。


それを、重臣達はわかっていない。


サブタイトルになっているのに、義元自身の出番が少ない、というのも不運の一つ。

スパイである忠吉はともかく、忠高と他の重臣との考えの違いは、割と物語の最初の頃から存在している、松平家の悪癖のようなものでもあります。

松平家宗家を復興させる、という目的が同じであるせいで、その手段が違っていても、相手を説得するのではなく、結果を出せば理解されるだろう、と思っている武士が多いのでしょうね。


そして長広を異質だと感じてしまうと、やることなすこと怪しく見える、という、疑心暗鬼に陥っている雪斎。なまじその本質を見抜いている分、理屈が合ってしまうので中々自分の考えを払拭できないのでしょうね。

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― 新着の感想 ―
[良い点] ありがとうございます。 [気になる点] うわあ、五千の兵が野宿に近い状態で駐留中ですか。まあそういう時代とは言え、きつい話ですね。思わず想像してしまいました。( ̄▽ ̄;)
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