悲運の武将、松平広忠 終(じゅう)
三人称視点です。
広忠は長広を激しく憎みながらも、その実力は認めていた。
勿論、そうでないと、そんな長広に敗北を続けている自分が情けなくなるから、という後ろ向きな理由もあったからだが。
それでも、広忠は自分の才覚を信じて疑わなかった。
先代清康や、長広には劣るというだけで、その清康の血を継いでいるのだから、国主としての才能はある筈だ、と考えていた。
だが、その自信は全て吹き飛ばされた。
天文17年の八月より始まった、本格的な今川軍による安祥家討伐。
岡崎城の前を安祥軍に素通りされるという屈辱こそ味わったものの、今川軍に苦戦している安祥軍を背後から、あるいは側面から攻撃する機会が訪れた。
これは積年の恨みを晴らす好機、と考えた広忠だったが、集まった兵力はわずかに六百だった。
先年から、南部では吉良家に、北部では佐久間家と結んだ大給松平家に圧迫され続けた影響だった。
この兵力では戦況に大きな変化を与えられないかもしれない。
出陣の準備が整いながらもそう考えていると、今川軍が安祥軍に総攻撃を仕掛け、安祥軍が押し込まれているという情報を得る。
安祥軍の敗北はほぼ決定。ならば、相手はすぐに撤退してくるだろう。
そこを突けば、この兵力でも、長広を討てるかもしれない。
「殿、流石に無謀です。危険ですよ」
「黙れ、平八郎。安祥長広を討てる好機を逃す訳にはいかぬ」
本多忠高に諫められるが、広忠はこれを拒絶し、出陣を決意する。
「あ奴さえ討てれば、儂の命などどうなっても構わぬ。あとは仙千代でも松丸でも好きに推せ」
しかし広忠の決死の想いは実らなかった。
岡崎城から出陣し、長広の撤退進路を予想し、待ち構えていたところへ、安祥家の留守居部隊が襲い掛かったのだ。
その数は千を超えており、数のうえでも不利であっただけでなく、心理的にも物理的にも完全に奇襲であった。
なんとか撤退に成功したものの、今度は岡崎城下にて、蜂起した一向衆が略奪を行っていると知る。
こちらは三百程の数だったが、これを鎮圧している間に安祥家の留守居部隊が岡崎城に寄せて来たため、広忠らは岡崎城に押し込められてしまった。
結局、そのまま敗走して来た安祥軍主力を素通りさせるはめになった。
「折角の好機であったのになんと情けない。これでは、まだ敵軍を押し留めている能見や青野の方が頼れますな」
今川家から奉公人として派遣されている山田景隆にそのようになじられても、実際に敗北をしてしまっているので、唇を噛んで耐えるしかなかった。
「何故だ……。何故勝てない……? 何がいけなかった……? どうすれば良かった……!?」
年が明けて暫く立った頃。
自室にて、広忠は岡崎城を中心とした三河の地図を前に、途方に暮れていた。
矢作・緒川の戦いで敗北して以降、広忠はまともに眠れた夜が無かった。
目は落ちくぼみ、頬はこけ、それでも目の光だけは失われず、ギラギラと輝いていた。
血走った目で、様々な資料を穴が開く程見つめる広忠は、鬼気迫る様子だった。
室内には足の踏み場もないほど、紙がばらまかれており、それらには三河における、様々な情報が記されている。
資料を読み、兵法書を頭に叩き込み、周辺の豪族や寺社勢力にも協力を要請する書状を送り、時には中立の勢力同士を争わせ、漁夫の利を得る事で、家の力を増幅させようともした。
しかし、どのような策を練っても、どのような策を立てても、安祥家に勝つ希望の光は見えなかった。
「……誰だ?」
障子が叩かれたので、広忠は誰何の声を発した。その声には、不機嫌さが滲み出ていた。
「本多平八郎様が、内々のお話しがあるとの事で……」
「わかった、通せ」
「失礼いたします」
障子が開かれると、そこには忠高ではなく、中年の武士が頭を下げていた。
「うん? 平八郎はどうし……」
言いかけて、不穏な空気を察し、広忠は脇差を抜いた。
その広忠めがけて、男が短刀を手に迫る。
「くっ……!」
初撃は防いだ。
矢作・緒川で敗北して以降、広忠はどのような時でも脇差を外さなかった。
これは、今でもこの身は戦場にある、という心構えの現れだったが、これが功を奏した形だった。
まだ自分は天に見放されていない。そう考えて、広忠の四肢に力が籠る。
「誰か! 誰かある!? 曲者だ! であえ! であえぇ!」
脇差を構え、対峙したまま叫ぶと、すぐに反応があった。
足音が近づいて来るのが聞こえた。思わず、広忠は唇の端を吊り上げた。
「殿、ご無事ですか!?」
「平八郎か! 儂の命を狙った刺客だ!」
「御免!」
姿を現した平八郎はそのように叫ぶと、手にしていた槍を突き出す。
「ぐっ……!?」
突き出された槍の穂先は、広忠の胸を貫いていた。
「な……!? ち、ちが……あっち……」
混乱で、思わず広忠は、短刀を手にした男を指差す。
「これ以上、殿を戴いていては、松平家は滅びてしまいます!」
「あ……が……そう、か、これが……」
「この命に変えましても、竹千代様は取り戻し申す!」
その言葉に、忠高に向けられていた広忠の目から、憎悪の色が消える。
どこか安心したような、何かを悟ったような表情で、広忠は忠高を見た。
広忠の手から脇差が落ちる。忠高は更に力を籠め、捻りながら槍を突き出した。
「ふぐっ……!」
一度、小さく血を吹き出したのち、広忠は動かなくなった。
「…………」
男に手伝わせ、ゆっくりと広忠をその場に横たわらせると、忠高は槍を抜いた。
目を、閉じさせる。
「すまぬ、八弥」
「いいえ。これも松平家宗家のため。拙者の死が宗家復興の礎となるなら、これに勝る喜びはございませぬ」
「いや、其方を武士として死なせてやれないことだ」
「それこそ何を仰います。松平家屈指の猛将、本多平八郎忠高様に討たれるなど、武士の誉ではございませぬか」
暗に、罪人として処刑されるのではなく、敵として討たれるのだと伝える八弥。
敵城に単身乗り込み、城主を暗殺。その場で討たれたとしても、それは名誉の討死であると言えるだろう。
「其方の忠義に敬意を払う」
その決意と忠義に、忠高は目頭が熱くなるのを感じた。
涙で前が見えなくなっては、無駄に八弥を苦しませてしまうかもしれない。
忠高は、八弥の胸を、槍で貫いた。
その後、八弥の持っていた脇差を、一度広忠の傷口に深く突き刺したのち、事切れた八弥の手に握らせ、その背中を大きく切り裂く。
「誰か! 誰かある!? 殿が襲われた! 下手人は佐久間全孝の家臣だ! 誰かある!? 殿が!!」
忠義の臣の名誉を汚さぬよう、忠高はそのように叫びながら部屋を出る。
出る前に一度、部屋の中へ向かって頭を下げてから、廊下を駆けて行った。
天文18年二月。
松平広忠が佐久間全孝の家臣、岩松八弥によって殺害された。
八弥は駆け付けた忠高によって討ち取られる。
岡崎城内では、そのように伝えられた。
重臣達によって行われた協議の結果、新しい当主は立てず、竹千代の帰参、あるいは広忠の庶子の元服を待つ事になった。
ついに、長広のライバル、広忠退場です。
書籍の後書きにも書いた事ですが、広忠という武将の経歴、人間関係が、非常に魅力的であり、かつ信広と繋がりを持たせられるものでなかったら、拙作は織田信広という武将の生涯を、ダイジェストで紹介していく小説になっていたでしょう。それも見せ方次第だとは思いますが、拙作に深みと魅力を与えてくれたのは、間違いなくこの広忠でした。
広忠には深い感謝を。ファンの方には今更ながら、物語の展開上、小物でありかませ犬であり不幸なキャラにしてしまった事を謝罪いたします。
岩松八弥による殺害説は、広忠死亡理由の諸説のうちの一つ。そして、岩松八弥が佐久間全孝の家臣であるというのも、諸説の一つです。
拙作では本文のように設定させていただきました。ご了承ください。




