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織田家の長男に生まれました  作者: いせひこ/大沼田伊勢彦
第五章:三河統一【天文十六年(1547年)~天文二十年(1551年)】
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田原城奪還戦

三人称視点です。


「これはいかん」


今回の田原戸田攻めの総大将を任せられた、飯尾乗連は、戸田康光が逃げ込んだ和名城へ向かう途中の陣幕にて、物見から受け取った報告に、そう呻いた。


松平家を監視するために、三河奉行人として派遣された乗連だったが、元々は遠江国引馬城城主だ。

正直、その任務は乗り気ではなかった。


松平家は宗家をはじめ、非常に従順であったから、そろそろ自分は任務を息子に任せて遠江に帰ろうかと考えていた。


その時期に起きた、松平家宗家の嫡男、竹千代の誘拐劇。


実行犯は田原戸田家家老、野々山政兼の一族。

一度は田原戸田家に弁解の機会を与えたのだが、これを拒否したため、戸田家の裏切りが確定。

これの仕置きのために、今川家の三河奉行人を中心に、東三河の領主、豪族を集めて討伐に乗り出した。


その総大将を任せられたのが乗連だ。

三河奉行人の筆頭は天野景連なのだが、彼は岩略寺城の防衛を理由に、この役目を乗連に譲った。

正直、得をしたと思った。


駿河はおろか、遠江からも援軍が無いという事だったが、田原戸田が領する渥美半島は、湿地と砂地ばかりで碌に作物の育たない場所。

集められる兵などたかが知れている。

頼るべき一族は、海を挟んだ知多半島であり、二連木の戸田家は、竹千代誘拐が発覚した段階で、いち早く今川家に従属の書状を送って来た。


混成軍とは言え、四千もの大軍を率いて、負けるはずの無い戦に臨める。

これを幸運と言わずしてなんと言うのか。


ほぼ無人の大崎城は検分だけして素通り。

戸田家にとって重要な拠点である筈の老津城も、戦力を田原城に集めたらしく、殆ど損害無く奪取できた。


田原城は、流石に本拠地だけあり、粘られたものの、結局、敵側の脱出を以てこれを陥落せしめた。


予想通りの楽な戦。

足場が悪く、進軍が面倒な事だけが不満ではあるが、乗連はこの時まで、田原戸田家がわざわざ自分に手柄を運んで来てくれたと思っていた。


しかし半日前から自分の元に届く報告に不穏なものが混じり始めた。


安祥家が田原戸田家の救援に出発したという。


そもそも今川家が三河に奉行人を派遣する事になった原因がこの安祥家だ。

先代当主、清康の横死で勢力が弱まっていたとは言え、松平家宗家を瞬く間に没落させてしまった張本人。


それが、安祥家当主、安祥長広という人物だった。


乗連の主君、義元が何度となく引き抜きをかけたという程の傑物。


とは言え、既に田原城は落とし、残すは渥美半島先端にある和名城のみ。

安祥家が援軍に来るなら、海路で立馬崎か、伊良湖の岬からだろう。

相手の数を見て、適当に和睦して退いても良かった。


田原城さえ保持できれば、安祥軍が退いたのちに、いつでも戸田家は滅ぼす事ができる。


などと考え、和名城への進軍を一旦停止していたところへ、次に飛び込んで来たのは吉田城陥落の報告だった。


自分の耳と同時に、物見の頭を疑った。

安祥軍が援軍に出たという報告の次に聞くのが、何故吉田城の陥落なのか。


城主、小原鎮実、義鎮親子は捕縛され、家老の増田団右衛門は討死したという。

どうやら船で豊川を遡上し、そのまま吉田城を強襲したらしい。


退くべきか、このまま和名城を攻めるべきか迷っている間に、大崎城、老津城陥落の報告があった。

からっぽだった大崎城はともかく、老津城は乗連と同じ三河奉行人の二俣持長を守り手大将に、東三河の武将、西郷清員を入れてあった。

持長は討死し、清員は捕らえられたという。


このままでは退路を断たれると思った乗連は、すぐさま田原城へと引き返す決意をする。

だが、命令を下す前に、田原城を奪還されたという報告が入って来たのだ。

守り手大将だった、三河奉行人の代表格であり、岩略寺城の普請奉行も務めた天野景泰は討死したという。


いくらなんでも早過ぎる、と乗連は思ったが、それは当然だった。

情報は長広が敢えて流したものであり、当然、その時期は長広が調整している。


あまり早く伝えても、田原城を奪還する前に引き返して来てしまうし、遅いと和名城を落とされてしまう。


そして事ここに至って、乗連は自分達が詰んでいる事に気付く。


今回、今川軍が田原戸田討伐に用意した軍勢は四千であり、物資はこれを一月動かせる分だった。

戸田家の城、領地で分捕りを行い、多少は補充しているとは言え、既に半分以上を消費している。


おまけに、渥美半島の先端から、知多半島へ逃れられると、のちのち面倒だと考え、和名城攻めの部隊は、物資、特に兵糧を殆ど持たずに速度を重視して進軍を続けていた。

足りなくなれば、物資を保管していた田原城から運べばいいし、老津城、吉田城と繋っているのだから、補給が途切れる事はないと思っていたのだ。


しかし、その全てが崩された。


数こそ三千ほどと居るが、今川軍は物資の乏しい孤立した軍だ。

しかも、和名城と田原城に挟まれている。


仮に安祥軍が追いついて来る前に和名城を落とせたとしても、乏しい物資で、自分達が今しがた攻め落とした城を使って防衛戦を行わなくてはならない。

田原城の奪還に向かったとしても、相手は鉄壁で知られる安祥長広。

おまけに、三つの城を一日足らずで落としてしまう程の軍勢を引き連れている。


どう考えても、先に干上がるのは自分達だ。

それこそ相手は、田原城に籠っているだけで勝ててしまう。


「和睦する」


寄せ手の武将を集めて、緊急の軍議を開き、乗連が出した結論はそれだった。


「なんと弱気な!」


異議を申し立てたのは、東三河の豪族、田峯菅沼四代当主、菅沼定広の次男、定直だった。

田峯菅沼家は東三河を中心に、三河に多くの領地を持つ、菅沼家惣領である。

その影響力は今川家も無視できず、今回の戸田家討伐に、当主でも嫡男でもなく、次男の参陣のみで許されていた。


定直自身は実直な性格で、忠節の武士と言えたが、それ故に、頑固で自尊心が高い、とも乗連は思っていた。


「しかし、ここで我らが壊滅的な損害を被れば、安祥家や戸田家が東三河に進出する事になる」


定直に反論したのは牛久保城主、牧野貞成だった。

今川家の命令で寄せ集められただけに過ぎない東三河の武士達は、そもそも今回の戸田家討伐に乗り気ではなかった。

どうせ、自分達を矢面に立たせて、手柄は今川家が独占するのだろうと思っていたからだ。


案の定、老津城、田原城、と保持する城が増える度に、今川家の人間が寄せ手の軍から外れて行った。


そういう意味では、それぞれの城の守り手大将だった、今川家家臣が討死したのは、胸がすく思いだった。


「しかし、それなら逆に、安祥家はこちらと和睦しますかな? ここで我らを殲滅できれば、今後の展開が楽になるのはわかっている筈。仮に現在、安祥家が保持している渥美半島の城を、全て譲ったとしても、受け入れては貰えないのでは?」


そう意見をしたのは、月ヶ谷(わちがや)城主、西郷正勝の嫡男、元正だった。

早い時期から今川家に臣従していた、八名郡を支配する西郷氏は今川からの信頼も厚く、元正の『元』は義元から戴いたものである。


「和睦をするのは戸田家の方だ。安祥家は戸田家の援軍に来ているのだから、我らと戸田家が和睦をすれば、奴らは戦う理由を失う」


あとは戸田家を通して、自分達と安祥家の和睦を仲介して貰えば良いと考えていた。


「戸田家が裏切り、ついたのは安祥家ではなく弾正忠家だと言う。ならば、田原城や老津城は戸田家に返還されるだろう。安祥家が保持できるのはせいぜい大崎城と吉田城か。その程度ならば、改めて攻めれば落とす事は可能だ」


安祥家の本領である安祥から、吉田城は幾らなんでも遠い。海路で繋がっているとは言え、封鎖されれば孤立する事になる。

その辺りがわかっているなら、適当な賠償で吉田城を今川家に譲らせる事も可能だろう。


「しかし、それならばせめて和名城へは一度攻撃しておかねばならないのでは?」


そう意見を述べたのは、野田菅沼氏二代目当主、菅沼定村だった。

父、定則が野田菅沼家を独立させるために紆余曲折あった事を知っている定村は、家を守る事を第一に考える性格だった。

彼の正室は、深溝松平当主、松平好景の妹であり、その深溝松平が先日、松平家宗家を裏切り、東条吉良家と同盟を結んだ。

それ故に、野田菅沼家の今川家内での立場は微妙なものになっている。

危険を冒してでも、手柄を立てておきたいと考えていた。


「攻めるなら田原城だろう! 安祥と一戦交えずして、和睦など許される訳がない!」


そう反論するのは久保城主、奥平貞勝だ。額田郡と設楽郡の境目付近にある、作手盆地を中心に勢力を拡大した豪族で、最初は松平家宗家に従っていたが、清康横死後は今川に転属している。

第一次小豆坂合戦にも従軍しており、その時は岡崎城の与力、つまり、当時の信広に痛い目に遭わされていた。

しかも、彼の正室は水野忠政の妹だったが、この第一次小豆坂の戦いで水野家と松平家宗家が手切れとなった折、今川家の命令で離縁させられている。

ちなみに継室は定直の兄、田峯菅沼五代当主、定継の妹を娶っており、定直とは義兄弟の関係にあった。


様々な理由から長広を恨んでいる貞勝は、強固に交戦を主張した。

定直がこれに同調し、手柄を欲する定村も消極的に賛成の意を示した。

戦うなら意思を統一させた方が良い、と元正も賛同。

貞成も、これ以上反対すれば、敗戦の責を自分の敢闘精神の無さにされかねない、とあくまで反対をしない、という体で賛成する。


流石に、主だった諸将が全員賛成に回れば、乗連も強引に議論を覆す事はできない。

温存するために、三河奉行人を各城の防衛に回した事が仇となり、乗連は軍議を掌握できなくなってしまっていた。


当初は和睦のための条件を話し合うために軍議を開いた筈なのに、いつの間にか真逆の決断を迫られている。


半月前は意気揚々と吉田城に入ったというのに、いつの間にこのような状況に追い詰められてしまったのか。

負けるために戦うなど、冗談ではなかった。


しかし乗連だけでは彼らを制御できず、今川軍は、田原城奪還へ向けて、行動を再開する事になった。


サブタイトルは飯尾乗連視点ですね。しかも、これからなのでサブタイ詐欺かもしれません。ご了承ください。

東三河の面々は、その立地から、松平家や今川家の間で立場を変える家が多いです。一族の中でも意見が割れてしまい、そのまま分立、片方が滅亡ならともかく、共倒れ、もあるので資料がまるで残っていない家なんかもあって、中々妄想が捗る場所でもあります。

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