第286話 賢者は平和の本質を想う
触手の魔王は、今日も絶好調であった。
他人を嘲って愉悦するその性根は、管理する世界にも表れている。
脳だけとなった人類を支配する。
時に数の増減を調整しながら、一定の数を維持し続ける。
それはもはや飼育にも等しい行為であった。
偽りの平穏を与えて楽しむのは、見方によっては悪趣味だろう。
しかし、これも世界平和に対する一つの答えに違いない。
完全なる管理体制は、あらゆる例外を排除する。
その徹底により、誰もが幸せを感じられる状況を実現していた。
私を含めた他の魔王が手出ししなかった領域だ。
外世界の獣である彼女は、その仕組みを難なく構築していた。
グウェンの成し遂げた功績について考えていると、遠くから声が響いてきた。
「グウェンさーん! 置いていかないでくださいよーっ!」
「げっ……」
名前を呼ばれたグウェンは、露骨に顔を歪める。
常に演技臭い表情の彼女にしては、珍しい反応だった。
その様子は、紛れもなく彼女の本心である。
声のした方角から飛んできたのは所長だった。
彼女は私達の前で減速すると、逃げようとしたグウェンの両手を掴む。
「やっと追いつけました! グウェンさんは急ぎすぎです。そんなに魔王様とお会いしたかったのですか?」
「あっはっは、面白いジョークですねぇ。笑いすぎて死にそうです」
グウェンは真顔で応じる。
目が完全に死んでいた。
それを目にしたグロムは、必死に笑いを堪えている。
壁を向きながら肩を震わせていた。
グウェンの手を離した所長は、私に向けて一礼する。
「魔王様、こんにちは! 半日ぶりですね!」
「ああ、そうだな」
所長は複数存在である。
分裂に近い性質を有しており、実際はさらに常軌を逸した能力だ。
所長は各世界に常駐している。
ローガンのような補佐は行わず、ひたすら研究に没頭していた。
それぞれが記憶を共有しながら行動している。
本来なら気が狂うような状態のはずだが、所長はやはり見事に使いこなしていた。
それどころか五百年にも及ぶ研究の末、彼女は誰も比肩できないほどの知識と技術を獲得している。
「あ、そうだ! 新しい魔術機具が完成したのですよ! まだ試作段階ですが従来の型より安定しておりまして、最終調整の暁には正式に採用を……」
所長は饒舌に語る。
嬉しそうに話す姿は、この上なく生き生きとしていた。
純粋で輝かしい目だが、その奥には比類なき混沌を抱えている。
さりげなく所長から離れたグウェンは、迷惑そうに囁いてきた。
「ねぇ、ハーヴェルトさん。私の世界からこの人をつまみ出してくださいよ」
「断る。必須の人材だろう」
「それはそうなんですが……」
脳だけの世界は、所長の力で成立している。
彼女による管理が失われれば、たちまち崩壊するだろう。
グウェンもそのことは理解しているので、本気で言っているわけではなかった。
そんなグウェンの心境をよそに、所長は彼女に接する。
「いやはや、グウェンさんの協力がなければ難航していましたね! 本当に、ありがとうございますっ!」
「はぁ……」
グウェンは気の抜けた返事を発した。
所長に振り回されるも、されるがままだ。
抵抗するのも面倒になったらしい。
色々としたたかな彼女も、所長には敵わないようだ。
私は揺さぶられるグウェンに一言告げる。
「所長はお前を気に入っている。仲良くしてくれ」
「……はいはい、分かりましたよ」
グウェンはうんざりした調子で答えると、所長を連れて立ち去ろうとした。
ところが彼女は、思い出したように振り返る。
そして、片手でグラスを掲げるような動作を取った。
「今夜、飲み会でもしましょうよ。同じ魔王なんですから、愚痴にも付き合ってくれますよね? もちろんハーヴェルトさんの奢りですが」
「分かった。それくらいは付き合おう」
「よし、言質は取りましたからね。それじゃあ楽しみにしてますよー」
気だるげに手を振りながら、グウェンは所長と共に歩き去る。
二人を見送ったところで、グロムは顎を掻きながらぼやく。
「とことん奔放な二人ですなぁ……」
「だからこそ噛み合うのだろう」
私がそう返すと、グロムは深々と頷いた。




