脱出
大通りから門のほうに向かって、不死者の群れが迫っていた。まるでゆっくりと押し寄せる溶岩流のように。
両手を伸ばし、うごめくその姿に、門の前にいた市民たちから絶叫が発せられた。
死にたくない!
あんたたち、兵士だろう! 奴らを近づけさせるな!
いいから、早く門を開けろ!
そんな声が夜の街に響き渡る。
市民たちは街を捨てて逃げる気なのだ。
外だって危険な可能性はある。亜人や野盗(夜盗)、魔獣や魔物。──そうした危険が夜には特に増加するのは、だれもが知っていることだった。
だがそれでも、この街にいるよりはマシだ。多くの市民や観光客はそう考え、夜中に街からの脱出を考えたのだ。
だが門番は扉を開放しようとはしなかった。
夜に大きな門はおろか、その横にしつらえてある扉を開けるにも手続きが必要。兵士らはそう訴えたのだ。
街に不死者があふれていると説明しても、門番は信じなかった。──ところがいまは、その門番も、近づきつつある死霊の群れを目にし、手にした槍を構えるか、それとも逃げ出すかを考えているようだった。
市民たちは武器らしい武器を持っていない。財産や衣服を詰めた荷袋などを担いでいるだけの者がほとんどだ。
門の前から叫びながら細い路地に逃げ出した者もいたが──その路地から現れた数体の死霊に組みつかれ、断末魔の叫びが夜の街にこだました。
「さあ、ティート。私たちも脱出しましょう」
少女──「魔女」が言った。
大通りは大混乱におちいっている。
恐怖と絶望が街のいたるところで巻き起こっているかのようだ。
「け、けど──」
少年にとっては不死者も少女も、どちらも恐ろしい存在のように感じられた。
「それでは、ここで死にますか?」
少女の声には拒否を許さない、断固としたものが感じられる。
少年は絶望的な気持ちになって、覚悟を決めるしかなくなった。
最初に決めたように彼は、少女と共にこの街を脱出する。そう思いなおしたようだ。
「……わかったよ。行こう」
たとえ少女の中にあるものが、危険な魔術や魔法を使う魔女であったとしても、この腐敗した街に囚われつづけるよりましだろうと考えた。
いざというときは、もう一つの魔導具を使って……。そんなことを考えつつ、大通りに近づいて行く。
門の前で戦いがはじまった。
三人の兵士が槍や剣を手に、十体以上いる死霊の群れを迎え撃った。
動きの遅い相手だったが、傷を負ってもものともしない相手に押し込まれ、瞬く間に門の前は阿鼻叫喚に包まれた。
「なんてことだ」
ティートは思わずつぶやいたが、少女はまったく気にもせず、倒れた市民と逃げた市民を見て、生き残っている者がいないと見るや、少年の手を引いて大通りに出て行き、平然と門に向かって歩き出す。
「ちょっ、ちょっと! 何を……!」
どう考えても危険だった。
門の前にいた兵士や市民が通りに倒され、死霊が倒れた人々に襲いかかり、食らいついているのだ。
「平気ですよ。行きましょう──私を信じなさい」
少女は振り返り、表情のない顔で少年に命じた。
彼女の言葉は力強く、有無を言わさない迫力があった。
もはや少年は、この魔女について行くしか生き残る道は残されていない。そんなふうに感じていた。
もし逆らえば、彼女はためらいなく──少年を殺すだろう。
門の前に響いていた絶叫はしだいに聞こえなくなった。
生きていた者は死亡し、そこにうごめいているのものは不死者だけになったらしい。
そうした場所に二人は近づいて行く。
不死者が死者を喰らっている。
その横を通り、少女は一人の倒れた兵士に近づいて行った。
「なっ……!」
少女の手を引いて、彼女の危険な行動を止めようとするティート。
「大丈夫です。逃げないで」
怯える少年に、先ほどよりはいくぶん優しい声色で魔女は言う。
手にした短刀を前方にかかげるようにして、不死者のうごめく場所に向かって進む。
どういうことだ──少年はいぶかしみながら、少女に手を引かれるまま、地獄の中に足を踏み入れたのだ。
しかし死霊たちは二人には見向きもしない。
死霊と、死霊に食われている死体のあいだを通りながら、少女は兵士の死体から鍵束を手にする。
それは短刀に秘められた力の影響らしい。
短刀の力がある限り、この場にいる死霊たちには発見されないようなのだ。
鞘から抜き放たれた短刀には、死の力に抵抗し、死を斬り裂く力が宿っていた。
そうして少女は悠々と目的の鍵を手にし、北門に向かって歩き出したのである。
二人はこうして北門にある小さな扉を開けて街を出た。
外側から鍵をかけて、ひっそりと街を脱出した二人の少年少女。
だが二人の立場は逆転し、いまでは少年が少女に手を引かれているのであった。
暗い夜道を進み、どこまでも暗い街道の先に向かって歩きつづける。
角灯の明かりも消え、まるで悪夢を見ているみたいに少年はあえいだ。
振り返ると街を囲む外壁の上が、だいだい色に染まって見えた。
街のいたるところで起きた火災。
それが夜空を紅く染めていた。
少年にはそれが血の色に見え、ついさっき見た死の光景が頭の中に蘇り、彼は足が萎えてしまったように、その場にへたり込んでしまった。
消そうと思っても消せない記憶が頭に焼き付き、死と絶望が渦巻く街から逃げ出したあとも彼は、何度もこの悪夢に悩まされるであろう。
「さあ、つぎの町までがんばりましょう」
ティートには少女の声が、夜闇の中から聞こえる、どんな獣の遠吠えよりも恐ろしく聞こえた。
見た目は可憐な少女の中には、危険な妖術師の魂と、殺人鬼の魂が息づいている。
「ああ、神様」
少年は救いを求めて心の中でつぶやいた。
もしかすると口にしていたのかもしれない。
彼は今日一日で起きた、あらゆる事柄に打ちのめされ、疲れ切っていたのだ。
少年はただの料理人。
あらためて彼は、運命にあらがうことのできない、無力な自分に向き合うことになった。
哀れなティートは、軽はずみな探究心からアーヴィスベルを訪れて、不要な災いを招き入れてしまったのだ。
美しく。
危険で邪悪な異国の少女。
彼はその少女と旅をつづけるだろう。
逃げ出すこともできず、また見捨てることもできずに。
アリスの中には、か弱く臆病な少女と。
危険な人殺しの人格が、確かに共存している。
少年は暗鬱な気持ちをかかえたまま、少女と共に、暗い夜道を歩きつづけた。
道の先にあるという町を目指して。
次話でこのお話は終幕です。
次話は今回の話で街を脱出したあとの、ティートの独白となります。
逃げることしかできなかった主人公の心境とは?
次話は本日の午後に投稿します。




