1 霧の正体
僕とリズが東南の壁に辿り着いた時、懐中時計は〇時を回った所だった。今冷静に思うと、あれだけ渇望した明日の景色を二十一分だけ感じる事が出来ている事が皮肉に思えた。……でももう、僕はこの瞬間を手放したりなんかはしない。繰り返し続けた八年前の十二月二十四日は、もう二度とは蘇らせない。あるべき姿の思い出へと形を変えるんだ。
膝に手を着いたリズは苦しそうに顔をしかめながら、手元のランプをそちらに向けて村を包囲する絶壁を見上げていく。
「ここって、深夜に壁の崩壊音がある……どうしてここへ?」
「すぐにわかるさ。全部、もうじきに全ての謎が明白になる」
リズの察した通り、この場所は〇時十一分に壁が崩壊するという例の場所で、その定刻まではまだ少しの時間がある。しかしこれは僕にとって予想通りの余白だった。
反り立つ壁で巻き上がった豪風に身を縮める。いつか仰ぎ見たであろう絶望の壁を前に、僕は顔を上げていった――
「ねぇレイン、霧の魔女の正体が私にもわかったわ。ここに来る間にずっと考えていたの」
下唇に指を添えたリズは上を向いて語り出した。
「この村では全ての人が同じルーティンを繰り返し続けるでしょう? でも私、一人例外が居る事を思い出したの。それはイルベルトよ。彼だけはこの村でのループから外れていたの。居るべき場所に居なかったり、突然現れたりして。だからきっと霧の魔女はイルベルトで、突然のリセットを引き起こしているのも彼だったのよ」
「すごいやリズ、半分合っているよ」
「え、半分……?」
僕は引きつった顔のリズへと――いや……今もこの現場を監視しているのであろう、彼へと向けて語り始めた。突風と雨が打ち付ける物音の中で、暗澹とした背後の闇へと向き直りながら――
「イルベルトは霧の魔女本人では無く、彼女の駒だ。だから正解は半分」
リズの語った通りイルベルトこの村のループから外れていた。彼だけがリセットされても普段とは違う行動を取る事があった。
「つまり彼はあたかも全てを忘却しているかの様に、僕らに振る舞い続けていたんだ」
「なんで――!?」
勢い良く身を乗り出してきたリズと額がぶつかって仰け反った。しかめっ面をして僕は続けていく。
「イテテ……理由はわからないけれど、彼は確かにリセットされても記憶を保持していた。根拠はキミも語った通り、彼だけ不規則な行動を起こす事があったからだよ。僕らがセーフティゾーンでリセットをやり過ごせるみたいに、イルベルトも何らかの手段を持っていたんだと思う」
「ぅうう〜」
「だけどイルベルトはみんなと同じ様に全て忘れている様に見せ掛けていた。それが彼のついた一つ目の嘘」
「嘘……?」
うん、と頷いた僕は指を一本立てて見せる。
「それとね、彼はいつか過去の僕らにこう言ったんだ。『スノードームの境界は透明だ。一度侵入してしまえば、ガラスに遮られて外には戻れない』って」
「うん……」
「僕は昨日、屋根裏でそのメモを見て不思議に思った。一人しかいない生き証人の言葉を信じて、疑う事を忘れていたんだ。すごくシンプルな言葉のトリックだったのに」
リズは隣で訳がわからなそうに僕を見上げ続けていた。
「スノードームの中から外へは出られない。だけど当然……外から中にだって、簡単には踏み入れられないと思わないかい?」
「あっ……!」
「けれどイルベルトはこう言ったんだ。外の世界からこの村へ、壁に空いた風穴から容易に立ち入ったと。彼のついたその二つ目の嘘こそが、この村の現象を複雑怪奇に見せていたんだ」
目を見開いたリズは僕の前に踏み出して、必死の表情で訴え始めた。
「そうだわ、私たちの村が外の世界から八年も経過していて、イルベルトが言う程簡単に立ち入れるというのなら、やっぱり他にもこの村の繰り返しに巻き込まれている人が居ても不思議じゃないもの」
リズの手を取った僕は、彼女の持ったランプの灯りに顔を橙色に染められながら口を開く。
「紆余曲折したけれど、やっぱりこの呪いの特性はすごく単純で、死という例外を除き、八年前の十二月二十四日をひたすら忠実に繰り返しているだけ。そこに途中から加わったモノがあったとすれば、それはリセットの時に排除されなくては変なんだ!」
「うん!」
「途中から加わるなんてありえない。だってイルベルトは僕らの知る昨日に居なかった。つまりこの村に潜んだ居る筈の無い者こそが――不純物。霧の魔女と、その使者なんだ」
胸に手を添えて喉を鳴らしたリズが、青い瞳を緊迫させながら僕に尋ねる。
「イルベルトが霧の魔女本人では無いと断言する理由は何なの?」
薄く口元に笑みを刻んだ僕は続けた。この闇に紛れた彼を探し、視線を周囲に配らせながら……
「イルベルトがこの村に来たのはつい最近の事だ。つまり彼が現れるよりも以前に僕らを監視し、壁越えをしようとする僕らに突然のリセットを引き起こしていたのは、彼とは別の存在だと考えるのが普通だ」
「でも霧の魔女は確か、その姿形を霧で変異させられるんじゃなかったかしら? なんとなく、そんな記憶がある様な……だとしたら、目に見えている情報なんてあてにならないんじゃないのかな? 姿形が違っても、中身は同じ霧の魔女なのかもしれないわ」
「確かに僕も始めはそう思ったんだ……でもね、イルベルトとは別に、ずっと以前からこの村には、もう一人の居る筈の無い者が潜んでいるって言ったら、どう思う?」
その瞬間、リズの表情が凍り付いたのを僕は間近に見ていた。冷たい汗が伝うその鼻筋に、混乱のシワを刻み込みながら首を振り始める。
「で、でも……そんな人何処に? イルベルトを除けば、村に残された人たちはみんな認識のある人たちだわ。それに霧の魔女は、私たちの壁越えをずっと側で見ていた者なんだよね? そんな存在ありえないわ」
――この村に居る筈の無い者。けれど昨日までの僕らの記憶に居なかった存在はイルベルト以外には無く。残りの者は全員、見知った村の家族たちだった。
唇を軽く舌で湿らせた僕はリズへと真剣に向き合いながら、眉間の間を指で叩いた。その厳粛なる気配を感じ取ったリズは、青い瞳にランプの炎を揺らめかせながら、冷たい雨の中で僕の声を待つようにしていた。
「居る筈が無いのに存在していた者、それはね――」
――思い起こすのは、今日掘り起こした僕と同じ位の大きさの子どもの白骨死体……あれが誰の者であったのか、僕のトラウマの中にある記憶と重ね合わせてみる……
「スノウ……?」リズが囁く。
――蓋をしていた記憶に手を掛け、僕は今しかとその中身を見下ろし……そして気付いた。
「違う。あれはスノウじゃない」
スノウの死についてこの記憶にあるのは、石に彫刻された白い墓標だった。あれは村の外の共同墓地に埋葬する際に使用する正式の墓標だ。村の仮説墓地には木の簡易な墓標を使用する事になっていた……すなわち、スノウはこのループが始まるよりも前に死亡していて、村の内部に眠っていたあの白骨遺体は、スノウでは無いと断定する事が出来る――
――であるならば、村の中に眠っていたあの白骨死体の正体は誰なのか……
背後の茂み、そこに二つ灯った眼光を見付けて彼に手招きして見せた。理由を付け、僕らを側でずっと監視し続けて来た霧の魔女本人を、僕はただ平然と、いつものように友へと呼び掛ける様にして――
「こっちにおいでよ……ティーダ」
――次の瞬間、凍てつく程の冷気の霧が、手を繋ぎ合った僕とリズを包み込んだ。
濃霧と殺気、曖昧な眼光の二つが灯って、僕らを見ている。




